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「愚かな金持ち」のたとえ

2015-02-15 15:17:29 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ12章13~21節 

本日はルカ12章の主イエスがなさった「愚かな金持ち」のたとえ話より、御言葉を聞いていきたいと思います。

イエスさまの教えを聞くために集まってきた群衆の中の一人が、イエスさまに嘆願して言います。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
彼は遺産相続の問題で、兄が弟である自分に分け前をくれないから何とかしてほしいとイエスさまに訴えます。彼がそのように訴えたのは、当時の裁判や相続分配については、律法学者が主にそれを裁いていたからです。律法に基づき調停役を担っていたからです。

それに対してイエスさまは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われます。それは一見冷たい答えのように思えますけれども。イエスさまご自身はその律法学者のような者ではないと言われているのですね。この人の訴えや悩みを拒絶したというのではないのです。
現実に、遺産相続の問題は、ほんとうに深刻で根深いものがあります。肉親という近い間での争いとなりますから、複雑に問題が絡みあい、憎しみや恨み、陰湿さの様相も呈します。そういう中で、この人もいたたまれない思いに苦しみ、イエスさまに何とかしてほしいとその苦情を訴えたに違いありません。
イエスさまはこの人の苦悩や痛みをきっと察しておられたことでしょう。遺産の相続の分け前に与っていない事への怒りや悔しさ、「この先どう生きていけばいいのか」というほどの危機もあったかもしれません。それについてはイエスさまも勿論法的なかたちで律法学者に解決を仰ぐことを否定なさらなかったはずです。
ただイエスさまはここで、ご自身については律法学者のように解決する者ではないとおっしゃっているのです。否、イエスさまの眼はこの人のうちに迫っているもう一つの危機に注がれていました。それは金銭や財産にからむ貪欲によって神の前に豊かに生きることを見失いつつある「魂の問題」です。
イエスさまは、そこでこの人だけでなく、また周囲にいた弟子たちや群衆に対して、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」とおっしゃって、この「愚かな金持ち」のたとえ話をなさるのです。

ではここで、16節以降のたとえ話を少し丁寧に読んでいきたいと思いますが。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした」とあります。

彼は予想もしなかった豊作で、大喜びし、ふっと気づきます。作物を保管する場所がない。それであれやこれやと思い巡らした結果、「やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう』」。
ちなみに、たとえの金持ちは一介の農夫ではなかったようです。大きな倉を新しく建替えることができたくらいですから、農夫らを雇っていた大地主であったことが想像できます。彼はあり余る程の物をすでに持っていたんですね。「そこに穀物や財産をみなしまい云々」とありますが、一つ残らず全部自分の物として倉にしまいこもうとしたところに、この人の貪欲さがよく表されていますよね。
そうしてしまいこんだら、「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。

イエスさまは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とおっしゃいました。
ここからは、ではなぜそれに気をつけるべきか、ということについてのお話です。
ちょっとこの19節の箇所を口語訳の方で見てみたいと思います。週報の巻頭言に記しておりますが。読んでみますね。「そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」。おわかりですね、「魂」という言葉が出てまいります。魂はギリシャ語で「プシュケー」:生命とも訳すことができ、それは肉体的な生命とは異なる意味をもっており、「永遠の命」と結びつく言葉なのです。新共同訳ではその大事なことが省かれてしまっていますが。「魂の問題」こそが、今日の重要なテーマなのです。
この金持ちはここで、穀物や財産をしまいこめる大きな新しい倉を作れば、自分の「魂」も同様に保証される、保証することができると考えました。イエスさまはこのたとえをして、人間の「重大な危機」を伝えておられるのです。人は財産やおかれた状況によってあたかも自分の命、魂までも保証されているように思うことがあるものです。
それに対してイエスさまはきっぱりと、あり余るほどのものを持っていても、「人の命は財産や富によってどうすることもできない」とおっしゃっています。富や財産そのものが悪いというのではありません。肝心なのは、それをどんなに貪り蓄えていても、それでよい医療を受けたとしても、人の命、魂をどうすることもできはしないという真理です。

たとえはさらに続き、20節には直接「神」が出てまいります。
イエスさまはたとえ話を多くなさいましたが、その多くのたとえ話では神さまが「主人」や「父」として間接的にたとえられています。神さまが直接出て来るのはこのたとえだけです。つまり、このたとえ話、このメッセージには、神が直接登場なさるのでなければ言い表すことのできない重要なことが語られているということです。では、それは一体何でしょうか。
そこを読んでみましょう。20節(口語訳)「すると神が彼に言われた。『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるか』」。
ここに魂の主権者が一体「だれであるか」ということが語られています。この金持ちは、「さあ、自分の魂に言おう。安心せよ、飲め、食え、楽しめ」と自分で言うのでありますが。この魂を司る方は、ただ唯一天創造の主である神さまのみであります。どんなに財産を持っていても、たとえときの権力者であったとしても、何人もその神さまに替わることはできません。それは神さまの領域の事柄であります。自らの魂を保証したこの金持ちの魂は、その夜取り上げられるのであります。
イエスさまはこのエピソードの前に弟子たちに向けて次のように語っておられます。
12章4節以降です。「友人であるあなたがたに言っておく。体は殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。
箴言14章27節には「主を畏れることは命の源」とありますように、私たち一人ひとりを生かし、治めておられる主を知ること。人の魂に対する権威を唯一持っておられる方を畏れて生きること。それを抜きにして人は真の平安を得ることはできません。

今日のたとえ話は、人間の富や財産への執着や貪欲について戒めているお話ともいえるでしょう。私たちの心のうちには実に様々な欲の芽があるものです。しかしそれ自体が悪かというのではなく、たとえば食欲が無くなれば命に関わってくるように、本来は人が生きるために神さまが人に備えてくださる命の力ともいえるでしょう。
問題は、それが単なる命の欲求を超えて、むさぼりとなっていくことです。貪欲は満たされることを知りません。22節以降に語られるように、そこには「命」のことでとなっていますが。正確には「魂」です。人は「魂」を満たすためにいくら食べ物や着る物のことで思い煩っても、「魂」が満たされることはないというのですね。

金持ちは豊作による作物に満たされました。そのこと自体は神さまの祝福を表しています。けれども彼は、18節にあるように、その神さまの恵みと祝福である作物をはじめ、財産を、自分のための大きな倉を建てて、そこに「みなしまい」込んだ、というのです。
実はこの「みなしまい」込んでしまったところに、せっかくの神の恵みと祝福が封じ込められてしまい、台無しにしたのです。イエスさまのお言葉で言えば、「自分のために富んでも、神の前に豊かにならなかった」という非常に残念な結末を迎えることになるのですね。
お金や財産は現実の生活をしていくうえで必要なものでありましょう。ただ、その使い方や用い方によって、その人が何を大事にしているかという価値観がよく表れると言われます。
それはお金や財産に限らず、能力や時間、その命さえも、すべては主なる神さまがお一人おひとりにあずけられている賜物なのです。それをしまい込んで自分の安心、楽しみ、飲み食いだけのために使うのなら、実にむなしいことです。それらすべては、神の前に豊かに生きるために神さまが私たちに託してくださっているものなのですね。
 私たちキリスト者の何ものにもかえがたい財産。それは、主イエスさまの十字架の贖いによる「永遠の生命」「魂」、プシュケーであります。

今週水曜からレント:受難節に入りますが。私たちが神の前に豊かな者とされるために主イエスがその命さえお与え下さったことをおぼえつつ、お一人おひとりに与えられた賜物を自分の倉にしまい込まず、この地上にあって生かし用いて神の前に豊かな者とされるよう、今日もここから歩み出してまいりましょう。
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