日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

目からうろこ

2015-04-19 15:51:29 | メッセージ
礼拝宣教 使徒言行録9章1節~19節a 

いよいよ来週26日は中野先生をお迎えしての午前は特別礼拝、午後からはチャペルピアノコンサートが行なわれます。コンサートまでの残る一週間、主に期待しながら、中野先生のご準備のために祈り、私たちもできるかたちで備えていきましょう。

「序」
本日はサウロの回心の記事から、「目からうろこ」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
私たちは普段日常の会話の中でも「あっ、目からうろこ」と口にいたしますが。それは一般的に「誤りを悟り、迷いから覚める」というコトワザとして用いられています。
欧米をはじめ世界の至る所で用いられているこのコトワザの起源となっているのは、皆さんに言うまでもなく、本日の箇所の使徒言行録9章18節「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」という聖書から来ているのです。

サウロ(ギリシャ語圏ではパウロ名)は、そのような「回心」の出来事を通して、キリストの使徒として、シリア(ダマスカス)、トルコ(小アジア)、さらにローマへとキリストの福音を実に躍動的、且つ熱心に伝えてゆくことになったのです。このサウロの働きがあったからこそ、ユダヤの地を越えた地域の人たちに主の福音を伝え、教会の創設をはじめ、キリスト教がここまで世界中に拡がってゆくという神のご計画が、着実に進められて来たといってもよいでしょう。       

では、まずその「サウロの回心とは何か」を、読み取っていきたいと思います。
そもそもサウロは熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会とその信徒への恐るべき迫害者でありました。彼は多くのキリスト者を、捕えては投獄し、その殺害にさえ加担したのです。さらに彼は、エルサレムから国境のシリアのダマスコまで逃れたキリスト者たちを捕えようと、その後を追っていました。彼はそうすることが神から与えられた正当な使命と考えていたからです。その動機は、キリスト者が憎いからとか、復讐心からというものではありません。彼はユダヤ教徒として神とその律法を人一倍熱心に信じ、守り育ちました。そんな彼にとって、十字架で無残に死を遂げたイエスを救い主と信じるキリスト者は異端であり神を冒瀆する者でしかなかったのです。ですからサウロは、キリスト者を迫害しユダヤ教に改宗させることこそ、神に対して忠実なこと、正しいことだと信じて疑わなかったのです。

3節、「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいてきたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らすと、サウロは地に倒れ『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞きます。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」原語では「わたしこそ、あなたが・・・である」という答えが返ってきたというのであります。それは彼にとってどんなに衝撃的な言葉だったでしょう。これまで「主のため」「神様のため」と信念をもってキリスト教会とその信徒への迫害と弾圧を繰り返してきた。そのことすべてが、何と主ご自身に対してなしていたことだったというのですから、そりゃあ天地がひっくり返るほど驚いたはずです。

8節「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」
9節「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」とありますが。
まあ、それほど衝撃を受けたのでありましょう。

彼は3日間暗闇の中で何を思い、何を願ったのでしょうか。きっと頭は混乱していたことでしょう。不安と恐れの中で、とてつもない自らの罪の重さにさいなまれ、その苦悩から何とか救われたいが自分の力ではどうすることもできず、もがき苦しんでいたのではないでしょうか。

しかし、サウロがそうしている間に、主はあるご計画を進めておられました。ダマスコにいた弟子の一人アナニアに幻の中で呼びかけ、「サウロのもとへ行くように」とお命じになるのです。それは絶望の闇に沈むサウロに、主の救いと使命を伝えるためでした。  
サウロは復活のイエスと出会いましたが、自分の罪に苛まれ悔いるところで留まっていたのです。彼はまだ救われていませんでした。サウルには「回心」(主に立ち返ること)が必要だったのです。しかしそれはサウロの力や思いによってできるものではありません。主の愛に触れ、罪の赦しを経験し、いやされて、主との交わりの回復を得なければならなかったのです。主はそのサウルの回心のために、弟子のアナニアを遣わされようとしていたのです。

当初アナニアは、迫害者サウロについて多くの証言を聞いていたので、当然サウロのもとへ行くことには否定的な思いがありました。けれども、アナニアは主のお言葉にただ身を従わせてサウロのもとを訪ねて、兄弟サウロと言って手を置いて「主イエスはあなたの目が見えるようになり、聖霊で満たされるように、とわたしをお遣わしになった」と言うと、たちまちサウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり目が見えるようになったというのです。
「目から鱗のようなものが落ち、見えるようになった。」
冒頭にも申しましたが、広辞苑では「目からうろこ」というのは、「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになること」と解説されています。

サウロは、激しく迫害し弾圧してきたキリスト者のアナニアの来訪に何を思ったでしょう。恐れや申し訳なさもあって緊張したのではないでしょうか。恨みごとの1つや2つ言われても当然でしょう。
ところがアナニアが、何と自分の上に手を置いて、「兄弟サウロ」と言って、自分のために祈ってくれたのです。恨まれ、なじられてもいたしかたない自分に、「兄弟」と呼びかけ執りなすアナニアの中に、彼は主イエスを見出し、その主の深いご愛を、全身熱くなるほどに体感したのではないでしょうか。彼はこうして聖霊に満たされたのです。そのとき、聖書は「サウロの目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった」と伝えます。
それはただ肉眼で見える視力の回復を言っているのではないでしょう。サウロは、このアナニアとの出会いによって、主は罪を犯し続けるような者のために、十字架の苦難の中で執り成されたこと、この罪深い者が滅びることなく、主の愛に立ち返って救われるようにと願っておられることを感慨無量に知ったのです。
サウロは、アナニアとの出会いによって、どん底の罪人であった自分を救い出してくださる主の愛の本質を見、体感したのです。サウロはこのような体験をするまでは、自分はすべて分かっている。見えていると思っていました。けれども生ける主との出会いによって、実は自分は何も見えていなかったことを知るのです。そして、アナニアとの出会いの中に働かれる聖霊によって、彼の霊的な目をふさいでいたうろこのようなものが、ポロリと落ち、主なる神さまの愛と救いが見えるようになるのです。

水曜日の夜の祈祷会の時、皆さんもご存じのKさんがこんな話をして下さいました。「以前はからクリスチャンの娘に聖書の話や教会へ行くようにとの勧めを聞いていたけれど、うっとうしく思っていただけで、聖書を見てもピンとこなかった。けれどこうして教会に来るようになって娘のそういった存在や話がありがたく感じるし、聖書を読むと感じ入って涙が出てくるのです。」このように話して下さったのですが。まさにそれは聖霊のお働きですね。イエスさまがご用意下さった出会いを通して、今日のお話ではありませんが、「目からうろこ」でしょうか。神さまの愛が見えるようにされた姉妹はこれから信仰告白とバプテスマに向けて準備していかれます。どうか、その守りと祝福をこのアナニアのように覚え、執り成なして下さるよう皆さんにお願い致します。
さて、元のどおり見えるようになったサウロですが、身を起こして「バプテスマ」を受け、食事をして元気を取り戻したとあります。サウロがバプテスマを受けたのも、アナニアの言うように聖霊の満たしを受けたからです。だれでも、主の愛の圧倒的な迫り、聖霊の臨在によって、主イエスが生きておられる、今もお働きくださっていることを知ることができます。そして、食事をしたというのは、おそらく共にパンを裂いて、主の恵みを分ち合う愛餐であったのでしょう。主の霊による交わりに身を置くことを通して、サウロは元気を取り戻すのです。そこに生けるキリストの教会の原点があります。

「サウロの使命」
最後に、主はサウロとその使命について15節、16節でこうおっしゃっています。
「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないのかを、わたしは彼に示そう。」

サウロが福音を伝えるために立てられたことは分かります。けれど主のために苦しまなくてはならないとは、どういう事でしょうか。サウロがそれまでキリスト教会と信徒に対して激しくなしてきた迫害や弾圧に対する罰なのでしょうか。
ここで、主イエスは「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われていますが。この「わたしの名を伝えるために」の「伝える」という言葉は、原語で「担う」とも訳せる言葉です。そのように読みますと、「サウロは主イエスの名を担うために主が選んだ器」となり、それは、サウロが主の十字架の苦難と死による罪の贖いの業を、その身に担い行くという大変重みのある働きであることが分かります。
彼がその後福音を伝えるために捕えられ、獄中の身にあった時に、フィリピの信徒たちに書き送った手紙の中にこのような一節があります。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
主イエスの名を担って行く時、実際そこには様々な苦難が起こってきました。しかしその苦しみは、キリストの苦しみにあずかり、その死の姿にあやかって、死者の中からの復活に達したい、との望みにつながっていたのです。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないのかを、わたしは彼に示そう」との主のお言葉も、それは何か主がサウロに報復するためだということではなく、まさに主イエスの担われた十字架を彼が共に担い行くようにと立てられた、ということを示しているのです。
もう一つ、彼がコリント二、4章10節以降に記した言葉をお読みします。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」
本日は「目からうろこ」と題して、聖書から聞いてまいりました。
私たちも又、主イエスさまと出会い、目からうろこという体験をした時、そこに関わるアナニアのような助け手としての存在がいたのではないでしょうか。誰かが主イエスさまと出会う時に、私も又、アナニアのような働きが託されていないか、共に祈り求めていけると、うれしいですね。そこに必ず聖霊がお働きになっておられます。私たち一人ひとり、たとえ小さくとも、主イエスの十字架を担う器として立てられていることを覚えつつ、その先に備えられた希望を見失うことなく、あゆんでまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする