礼拝宣教 使徒言行録1章3 節~11節
「序」
本日から約2カ月、5月いっぱいまで使徒言行録から御言葉を聞いていきます。
先週迄読んできましたルカによる福音書とこの使徒言行録は同じルカによって書かれたとされています。ルカ福音書は、地上におけるイエス・キリストの生涯とその活動が記されていましたが。先週はそのルカ福音書から、復活されたイエスさまの希望のメッセージを聞きました。その後24章において、主イエスは「弟子たちをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福しながら彼らと離れ、天に上げられた」というところでルカ福音書は終っています。
このように福音書だけを見れば、主イエスの活動や教えはそこで一応終わってしまったようにも見えますが。今日から読みます使徒言行録を見ますと、この主イエスが天に昇られたのは、終わりではなくて新しい活動の始まりであることが分かります。つまり、主イエスが天に昇られたことによって、かねてより約束されていた聖霊が降り、その聖霊をとおして今も生きてお働きになっておられる。主とその救いを知ることができるのです。
ある注解書の中で、「本書はいわば『一粒の麦』が地に落ちて死ぬことにより、いかに多くの実を結ぶに至ったかの証言であり、教会の成立とその活動、そこに生き生きと働いた聖霊の業の証言の書である」という言葉に触れました。
私たちクリスチャンとされた者もまた、イエスさまが一粒の麦として地に落ちて死ぬことによって、罪を贖われ、主の御救いに与るという驚くべき救いの実りとして今日あるわけです。それは、主イエスが2000年の時を経て今もなお生きて働いておられるという聖霊の証明であります。
聖書教育誌の資料に、「1860年J・ゴーブルが米国バプテスト自由伝道協会の宣教師として横浜に到着したその同じ年に、私たちと関わりの深い米国南部バプテスト連盟は日本へ最初の宣教師としてQ・A・ローラ夫妻を送り出したが、しかしローラ夫妻が乗船したエドウィン・フォレスト号は太平洋上で行方不明となった。それから後に日本に初めて南部バプテストの宣教師が到着したのは29年後の1889年であった」(「宣教の先駆者たち」ヨルダン社より)との記述を見つけました。
私たちのもとへ、主イエスの救い、主の十字架と復活の福音が届けられるまでに、主に倣い一粒の麦となった幾多の人々たちの献身的な働きがあったことを忘れてはならないでしょう。
本日は「主イエスの証人として」と題して、御言葉を味わいたいと思います。
まず、3節で「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」ということでありますが。使徒たちはこの生きておられる主イエスに接し、どんなに喜びに満たされたことでしょう。使徒たちは胸の高まりと喜びでいっぱいであったことでしょう。
彼らは主イエスと食事を共にしていたとき、主イエスから「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられます。そしてさらに、「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」との約束を受けるのです。
そこで使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建てなおしてくださるのは、この時ですか」と主イエスに尋ねます。
イエスさまはイスラエルの建国についてではなく、「神の国」について話された、と3節にあるわけですが。使徒たちは依然として主イエスがイスラエルのために国を建てなおしてくださることを期待し、それを起こされるのは「聖霊によるバプテスマを授けられるこの時ですか」と尋ねるのです。そこには使徒たちのメシア像といったものが、非常に政治的権威を持つものとして期待されていたことが示されています。
すると、主イエスは使徒たちに次のようにおっしゃいます。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
使徒たちはこのイエスさまの言葉を如何に聞いたことでしょう。
何も書かれていませんので分かりませんが、主イエスはその時や時期、つまり神の完全な主権が確立されるその時は、「父(神)が御自分の権威をもってお定めになることで、あなたがたの知るところではない、と言われるのです。
その上で、イエスさまは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、力を受ける」との約束と、その聖霊の働きによって「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との使命をお与えになるのです。主イエスが語られた「神の国」:神の完全な統治はまさに使徒たちが聖霊によって「主イエスの証人」とされていく中で実現していくことがここに言い表されているのです。
そのことを話し終ると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられ、彼らの目から見えなくなってしまわれました。」
イエスさまの苦難と死という悲しみを経験した使徒たちでしたが、彼らは復活された主イエスと出会い、喜びにあふれていました。それが今度は、主イエスが天に上げられ、もはや肉眼で認めることができなくなってしまうのです。とり残された彼らはその有様をただ茫然と見つめて立ちつくす外なかったのであります。使徒たちには聖霊降臨の約束と、とてつもなく大きな使命が残されました。
「約束と使命」
復活されたイエスさまはもはや使徒たちから離れ去っていかれたのでしょうか?
ヨハネによる福音書14章18節にはこうあります。「わたしは、あなたがたをみなしごとはしておかない。あなたがたのところへ戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」またその16章7節以降でイエスさまは次のように言われました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
イエスさまはこの弁護者とは真理の霊であり、父の神が主イエスの名によってお遣わしになる聖霊であると明言しておられます。又「その方が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられます。そしてそのお方は弁護者でありますから、もはや罪に断罪されることがないように主イエスの救いの御業による弁護をしてくださるお方なのです。
イエスさまは天に上られてもはや彼らの目からは見えなくなりましたけれども、天に昇られることによって、聖霊が降り、その御救いと共に主イエスが以前にも増して時間や空間をも超えて、どんなときにも生きて働いておられることを彼らは知るようになるのです。それは又、私たちも同様なのではないでしょうか。信仰は目に見える確証によって得られるものではありません。むしろ見えないものに目を注ぎ、そこに主の働きを認めることによって生きた神を知る、体感するのであります。
聖霊を受けるとは、十字架と復活を通して罪と死に打ち勝たれ主イエスが今も、又いつも共におられるという勝利と喜び。その大いなる証の力であります。イエスさまはそのように聖霊によって力を受けた使徒たちに、「主イエスの証人となるように」と使命を与えられるのであります。
さて、それはまずエルサレムから始まる、と言っています。
使徒たちにとってエルサレムは決して居心地のよい所ではありませんでした。そこは幾多の躓き、失敗、苦い経験の場であったのです。しかし、そこに彼らの主イエスの証人としての始まりがあるというのです。
今自分の立っているところから、そこから主イエスの証し人となっていくこと。聖霊の導きによる隣人との出会いはまさに今私たちがそれぞれに立たされている現場に用意されているのです。主イエスは確かに「地の果てまでわたしの証人となる」とおっしゃるのでありますが。その一歩は、自分の今おかれているそのところから始まるのです。
聖霊が降った後、使徒たちはエルサレムにおいて主の証しに集中いたしました。そしてそれが、ユダヤとサマリア全土へ、そして小アジアへ、さらにローマへと拡がっていきます。それはまさに、使徒たちのうちに臨んだ聖霊を通しての圧倒的な力によるものでありました。主の証人を介して聖霊を受け、主の救いに与った人びとがさらに主イエスの証人となり、そこから世界中に主イエスの福音、神の国の教えが拡がり、今こうして私たちのもとにも届けられているのであります。
「希望」
最後に、今日の終わりの箇所で、茫然と天を見つめていた使徒たちに、白い服を着た二人の人がそばに立ってこう言ったというのです。「なぜ天を見上げているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
この言葉は使徒たちにとって、大変力強い励ましとなったに違いありません。
主イエスの証人となっていく彼らの前途には様々な困難や問題、そして迫害が待ち受けています。それらを前にして、「聖霊を受け、力を与えられるとの約束」、「再び主イエスが帰って来られるという希望」が与えられるのです。
今もキリストの教会に注がれる聖霊によって私たちひとり一人も又、主イエスの救いの証人として立てられています。
聖霊の力を存分に受け、主イエスが再び来られる希望をもって、私たちのエルサレム、生活の場、それぞれの現場へと今週も遣わされてまいりたいと願います。
「序」
本日から約2カ月、5月いっぱいまで使徒言行録から御言葉を聞いていきます。
先週迄読んできましたルカによる福音書とこの使徒言行録は同じルカによって書かれたとされています。ルカ福音書は、地上におけるイエス・キリストの生涯とその活動が記されていましたが。先週はそのルカ福音書から、復活されたイエスさまの希望のメッセージを聞きました。その後24章において、主イエスは「弟子たちをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福しながら彼らと離れ、天に上げられた」というところでルカ福音書は終っています。
このように福音書だけを見れば、主イエスの活動や教えはそこで一応終わってしまったようにも見えますが。今日から読みます使徒言行録を見ますと、この主イエスが天に昇られたのは、終わりではなくて新しい活動の始まりであることが分かります。つまり、主イエスが天に昇られたことによって、かねてより約束されていた聖霊が降り、その聖霊をとおして今も生きてお働きになっておられる。主とその救いを知ることができるのです。
ある注解書の中で、「本書はいわば『一粒の麦』が地に落ちて死ぬことにより、いかに多くの実を結ぶに至ったかの証言であり、教会の成立とその活動、そこに生き生きと働いた聖霊の業の証言の書である」という言葉に触れました。
私たちクリスチャンとされた者もまた、イエスさまが一粒の麦として地に落ちて死ぬことによって、罪を贖われ、主の御救いに与るという驚くべき救いの実りとして今日あるわけです。それは、主イエスが2000年の時を経て今もなお生きて働いておられるという聖霊の証明であります。
聖書教育誌の資料に、「1860年J・ゴーブルが米国バプテスト自由伝道協会の宣教師として横浜に到着したその同じ年に、私たちと関わりの深い米国南部バプテスト連盟は日本へ最初の宣教師としてQ・A・ローラ夫妻を送り出したが、しかしローラ夫妻が乗船したエドウィン・フォレスト号は太平洋上で行方不明となった。それから後に日本に初めて南部バプテストの宣教師が到着したのは29年後の1889年であった」(「宣教の先駆者たち」ヨルダン社より)との記述を見つけました。
私たちのもとへ、主イエスの救い、主の十字架と復活の福音が届けられるまでに、主に倣い一粒の麦となった幾多の人々たちの献身的な働きがあったことを忘れてはならないでしょう。
本日は「主イエスの証人として」と題して、御言葉を味わいたいと思います。
まず、3節で「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」ということでありますが。使徒たちはこの生きておられる主イエスに接し、どんなに喜びに満たされたことでしょう。使徒たちは胸の高まりと喜びでいっぱいであったことでしょう。
彼らは主イエスと食事を共にしていたとき、主イエスから「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられます。そしてさらに、「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」との約束を受けるのです。
そこで使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建てなおしてくださるのは、この時ですか」と主イエスに尋ねます。
イエスさまはイスラエルの建国についてではなく、「神の国」について話された、と3節にあるわけですが。使徒たちは依然として主イエスがイスラエルのために国を建てなおしてくださることを期待し、それを起こされるのは「聖霊によるバプテスマを授けられるこの時ですか」と尋ねるのです。そこには使徒たちのメシア像といったものが、非常に政治的権威を持つものとして期待されていたことが示されています。
すると、主イエスは使徒たちに次のようにおっしゃいます。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
使徒たちはこのイエスさまの言葉を如何に聞いたことでしょう。
何も書かれていませんので分かりませんが、主イエスはその時や時期、つまり神の完全な主権が確立されるその時は、「父(神)が御自分の権威をもってお定めになることで、あなたがたの知るところではない、と言われるのです。
その上で、イエスさまは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、力を受ける」との約束と、その聖霊の働きによって「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との使命をお与えになるのです。主イエスが語られた「神の国」:神の完全な統治はまさに使徒たちが聖霊によって「主イエスの証人」とされていく中で実現していくことがここに言い表されているのです。
そのことを話し終ると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられ、彼らの目から見えなくなってしまわれました。」
イエスさまの苦難と死という悲しみを経験した使徒たちでしたが、彼らは復活された主イエスと出会い、喜びにあふれていました。それが今度は、主イエスが天に上げられ、もはや肉眼で認めることができなくなってしまうのです。とり残された彼らはその有様をただ茫然と見つめて立ちつくす外なかったのであります。使徒たちには聖霊降臨の約束と、とてつもなく大きな使命が残されました。
「約束と使命」
復活されたイエスさまはもはや使徒たちから離れ去っていかれたのでしょうか?
ヨハネによる福音書14章18節にはこうあります。「わたしは、あなたがたをみなしごとはしておかない。あなたがたのところへ戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」またその16章7節以降でイエスさまは次のように言われました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
イエスさまはこの弁護者とは真理の霊であり、父の神が主イエスの名によってお遣わしになる聖霊であると明言しておられます。又「その方が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられます。そしてそのお方は弁護者でありますから、もはや罪に断罪されることがないように主イエスの救いの御業による弁護をしてくださるお方なのです。
イエスさまは天に上られてもはや彼らの目からは見えなくなりましたけれども、天に昇られることによって、聖霊が降り、その御救いと共に主イエスが以前にも増して時間や空間をも超えて、どんなときにも生きて働いておられることを彼らは知るようになるのです。それは又、私たちも同様なのではないでしょうか。信仰は目に見える確証によって得られるものではありません。むしろ見えないものに目を注ぎ、そこに主の働きを認めることによって生きた神を知る、体感するのであります。
聖霊を受けるとは、十字架と復活を通して罪と死に打ち勝たれ主イエスが今も、又いつも共におられるという勝利と喜び。その大いなる証の力であります。イエスさまはそのように聖霊によって力を受けた使徒たちに、「主イエスの証人となるように」と使命を与えられるのであります。
さて、それはまずエルサレムから始まる、と言っています。
使徒たちにとってエルサレムは決して居心地のよい所ではありませんでした。そこは幾多の躓き、失敗、苦い経験の場であったのです。しかし、そこに彼らの主イエスの証人としての始まりがあるというのです。
今自分の立っているところから、そこから主イエスの証し人となっていくこと。聖霊の導きによる隣人との出会いはまさに今私たちがそれぞれに立たされている現場に用意されているのです。主イエスは確かに「地の果てまでわたしの証人となる」とおっしゃるのでありますが。その一歩は、自分の今おかれているそのところから始まるのです。
聖霊が降った後、使徒たちはエルサレムにおいて主の証しに集中いたしました。そしてそれが、ユダヤとサマリア全土へ、そして小アジアへ、さらにローマへと拡がっていきます。それはまさに、使徒たちのうちに臨んだ聖霊を通しての圧倒的な力によるものでありました。主の証人を介して聖霊を受け、主の救いに与った人びとがさらに主イエスの証人となり、そこから世界中に主イエスの福音、神の国の教えが拡がり、今こうして私たちのもとにも届けられているのであります。
「希望」
最後に、今日の終わりの箇所で、茫然と天を見つめていた使徒たちに、白い服を着た二人の人がそばに立ってこう言ったというのです。「なぜ天を見上げているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
この言葉は使徒たちにとって、大変力強い励ましとなったに違いありません。
主イエスの証人となっていく彼らの前途には様々な困難や問題、そして迫害が待ち受けています。それらを前にして、「聖霊を受け、力を与えられるとの約束」、「再び主イエスが帰って来られるという希望」が与えられるのです。
今もキリストの教会に注がれる聖霊によって私たちひとり一人も又、主イエスの救いの証人として立てられています。
聖霊の力を存分に受け、主イエスが再び来られる希望をもって、私たちのエルサレム、生活の場、それぞれの現場へと今週も遣わされてまいりたいと願います。