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主イエスの復活の知らせ

2017-04-16 13:57:23 | メッセージ
イースター宣教 マタイ28:1-10

イースターおめでとうございます。
受難節の約一ヶ月を経て、先週は特に主イエスの十字架の死を偲ぶ受難週を過ごしました。金曜日、十字架で死なれ墓に葬られた主イエスは、3日目のこの日曜日の朝、死よりよみがえり、封印された墓を打ち破られた。その朝に主イエスの復活を記念するイースターを心からお祝いし、その御恵みに私たちも共に与りたいと願っております。

キリスト教の信仰は、神の御独り子であるお方が人としてお生まれになった事。そして、そのお方が救い主として苦難と死による贖いの業を成し遂げられた事。さらに、死と滅びから復活された事。この受肉、十字架の苦難と死、復活の三本柱にございます。

イエスさまがもしこの地上においでくださらなかったなら、そして私たちの罪のために死なれなかったなら、人間は自らの責めを負い、滅びるほかありませんでした。
主イエスがすべての人の罪の裁きを自ら受け、罪の清算を完全になして下さった。ここに救いの道が開かれたのです。神さまは罪に滅ぶ人間、私たちを惜しまれました。そのいつくしみの愛のゆえに御独り子イエスさまをこの地上に救い主としてお遣し下さったのです。私たちがその主イエスの愛のうちにあるなら、十字架で流された御子の血によって罪を赦されています。
けれどもどうでしょうか。もしイエスさまが十字架で処刑されて死んでしまった、ということで終わっていたら、どうなっていたでしょうか?もしイエスさまの復活がなかったなら。どうでしょうか?

私たちがたとえこの一度限りの人生を罪赦されて生きたとしても、死という破壊的力を前にしては、なすすべもなく、唯絶望するほかありません。諦め、観念し、悟ったように死んだとしても、その先がうつろであるなら、旧約聖書のコヘレト(伝道の書)が「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と言っているように、人は草のように枯れ、花のようにしぼんでいく存在でしかありません。
しかし、イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)とおっしゃいました。
神の言葉と約束は変わることがございません。主イエスが死の滅びを打ち破って、よみがえってくださったことによって、今まさに私たちに永遠のいのちの希望が開かれているのです。

使徒パウロはコリント第一の手紙15章17節以降で次のように述べています。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中あることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

こうしてイエス・キリストが死から復活されたという出来事が起こったからこそ、現に聖霊があらゆる世界や時代を超えて働かれ、実に2000年以上もの間生きた信仰の体験が証しとなって語り伝えられ、分かち合われてきたんですね。

本日はマタイ28章1~10節より「主イエスの復活の知らせ」と題し、御言葉に聞いていますが。こどもメッセージにもありましたが「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。

安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、その安息日の規定のため動くことができなかったこの二人の女性たちは、日曜日の夜明け頃、墓に置かれたイエスさまを見にいきます。
それまでずっとイエスさまに同行して来た二人のマリア。彼女たちはイエスさまが十字架で処刑される折も、ずっとその最期まで見守っていた人たちでした。
弟子たちは逃げ去ってエルサレム周辺の場所に身を隠していたようでありますが。彼女たちは心からイエスさまを慕っていたのです。それは女性であるために低くされ、神への礼拝までも規制されてきた彼女らに、イエスさまは一人のかけがえのない人として分け隔てなく、神の愛と救いの招きをもって接していらしたからではないでしょうか。それだけに彼女たちのイエスさまを失った悲しみや嘆きはいかばかりであったでしょう。
そうして彼女たちがやって来たお墓ですが。これは横穴式の洞窟のような岩をくりぬいた造りになっていて、その入り口には大きな丸くひらぺったい石がずっしりと置かれて封印されていたのです。ところが彼女たちがお墓に着くや「大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」というのです。

先週の箇所で、イエスさまが十字架上で息を引き取られた後に、「地震が起こった」という記事がありました。神の子によって完全な贖いの御業が成し遂げられたという全世界における重大な出来事の折に「地震」が起こります。そして、今日のイエスさまが死より復活される折にも、「大きな地震」が起こっているのです。
さて、そこに現れた主の天使は、「その姿が稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。他の福音書などによりますと、長い衣を着た若者とか、二人の天使とか、それぞれの表現がありますけれども。共通しているのは、それは、神のご意志を伝えるために遣わされた存在であるということです。

番兵たちはこの光景をみると、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいます。大事なことは、神の言葉は、それが実現した時、信じる人、受入れる人には喜びと希望であり、それを拒む人、信じない人にとっては恐れ、絶望なのです。

この番兵たちは、前の62節以降に記されているように、イエスが生前「三日後に復活する」と言っているのを聞いたユダヤの祭司長や律法学者たちが、弟子たちによって遺体が盗み出され、復活したなどと言いふらされるなら、人びとが惑わされることになりかねないとピラトに願い出て、そこに配置された番兵たちでした。墓にはさらに封印をしていたのですが。神の御業とご計画に対する不信や反逆は、必ず打ち砕かれるのです。

一方、女性たちは主の天使から「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げられます。

そうして、空っぽの墓を見ることになるのです。
この女性たちも、大きな地震とともに起こっている目の前の出来事にやはり恐れを抱くのであります。しかし、番兵たちと違っていたのは、彼女たちがイエスが前もって告げていた死の後「三日目に復活する」という言葉を聴いていた。そして主の天使があの方は「復活なさったのだ」との言葉を受取った、ということです。同じ出来事に遭遇して片や不信の中で死人のようになった番兵たち。片や天から希望を受け取った女性たち。

私たちの生活においても、どうでしょうか。同じようなことが起こっていないでしょうか。不信が起これば不安や恐れに取りつかれ、自分を見失ってしまいかねない。けれども主イエスの言葉を聞き、心に留め、それを拠所としていく者は、恐れや不安の中にあってもなお光を見出し得るんですね。

先週も多くの方々と祈りを共にしました。様々な問題、状況の中で、希望を見出すのは本当に困難なことです。けれども、それは私自身も経験することですが。ともに祈る人がいる時、その祈りのうちに主が共におられることを覚えて、大変勇気づけられたり、不思議に平安が与えられます。もしクリスチャンでなかったら、どうしていただろうか。おそらくあの番兵たちのように震えあがって死人のように身動きがとれなくなることが度々あったんじゃないかと思います。ほんとうに主の救いに唯感謝であります。

話を聖書の方に戻しますけれど。
主の天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。

すると、それを聞いた女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とありますね。
「恐れながらも大いに喜んだ。」一見相反するようなその様子。それは主イエスの無残な死に直面し、大きな地震、主の天使の思いがけない言葉、想像もつかなかった非日常が次々に起こったのですから、恐れが生じるのも当然と言えば当然です。
けれども、天使から「ガリラヤ」という言葉を聞いた時、また「そこで、主にお目にかかれる」と聞いた時、言葉では言い表せない大きな喜びが湧き起こってきたんですね。 
「ガリラヤ。」それはかつてイエスさまに仕え、ともに従って歩んだ日常があった場所です。そこで復活なさったイエスさまにまたお会いできるという希望の知らせ。
彼女たちはまだ復活の主イエスをその目で見たわけじゃない。その復活の主イエスと顔と顔とを合わせたわけじゃない。けれどもガリラヤという主と共にあった場所、日常の場に復活の主イエスが待っておられる。

私たちも時に非日常的な出来事に遭遇する時があります。不安になったり恐れをもったりする時。教会の兄弟姉妹の声を聞いてホッとしたり、先ほども言いましたように祈りを共にする中で、主が共におられるというクリスチャンとしての日常の平安を取り戻したりといった経験はないでしょうか。

Ⅰペトロの手紙1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」
とございます。
それは何事もない中で語られたのではなく、むしろいろいろな試練に悩み苦闘する人たちの間で語られた言葉なのです。主イエスを慕い、拠所とする者は、墓という場所に象徴される絶望や悲しみの中に封印されるのではなく、たとえそのような状況の中でさえ、主にある希望と喜びを見出し得る。これが聖書の福音のメッセージであります。

さて、こうして恐れながらも大いに喜びつつ、彼女たちは急いで墓を立ち去り、このよき知らせを一刻も早く弟子たちにもたらしたい、伝えなければならないという思いで走り出します。
このマタイ福音書は他の福音書には見られない場面を記しています。
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」というのですね。この「おはよう」はギリシャ語の原語では、日常で交わす挨拶のようなものだということであります。
何と復活の主イエスさまが直接この二人の行く手に立っておられ、本当に常日頃おっしゃたように「おはよう」とお声をかけられるのです。
「女たちはイエスに近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とありますが。彼女たちの喜びがいかばかりであったか伝わってくるようですよね

私もいつの日かこうしてイエスさまにお会いできる日が来る、と想像しますと何ともいえない喜びというかうれしさ、安心感が湧いてきますが。

さあこうして、今日の最後のところで大きなポイントとなることを、復活の主イエスはこの女性たちに伝えます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

復活のイエスさまは、ここで弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでおられます。大事な時に、イエスさまを見捨てて逃げ去っていった弟子たちを、イエスさまは「わたしの兄弟」とお呼びになるんです。

そこに私はイエスさまのゆるしと愛を見る思いがいたします。あの人たちでも、彼らでも、弟子たちでもなく、「わたしの兄弟。」なんとあたたかなまねきの言葉でしょうか。
人の弱さのゆえにつまずき、大きな取り返しのつかないような失態をさらした彼らを、復活の主イエスは「わたしの兄弟」と呼び、彼らの日常のフィールドで「わたしに会うことになる」と約束されるのですね。

今日は「主イエスの復活の知らせ」と題し御言葉に聞いてきましたが。私たちの死と滅びの墓穴を打ち破る新しいいのちの始まり。それは主エスの日常におけるいつもの「おはよう」の挨拶。又「わたしの兄弟」というゆるしと愛の呼びかけによってもたらされました。復活の主イエスにお会いする私たちのガリラヤ。私たちの日常へと、今日の御言葉をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。
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