主日礼拝宣教 ローマ1章1~17節
神の御子イエス・キリストが私たちすべての人間の救いのために罪の贖いとして十字架に死なれ、3日後に復活なさった。先週はそのイースターの喜びを共に分かち合いました。イエスさまは、又その復活のお姿を度々弟子に現され、「全世界に出て行ってこの救いのよき知らせである福音をすべての造られた者に宣べ伝えなさい」と、その働きを弟子たちに託されの後、天にあげられた、と伝えられています。そして弟子たちはその主イエスのお言葉を握りながら、祈りのうちに聖霊に満たされ、福音を伝え続けることで多くの人が主を信じ、教会が誕生していったのです。しかし同時に迫害も激しく起こり、今日のこの「ローマの信徒への手紙」を記したパウロも、初めはキリスト教会とその信徒たちを激しく迫害する人でありました。しかしそのパウロは復活されたイエスさまと出会うことで、主イエスの御救いを信じクリスチャンとなり、主に小アジア、ヨーロッパの異邦人に福音を伝える働き人とされるのです。
さて、本日の礼拝からそのパウロがローマの信徒に宛てた手紙を読んでいきますが。
ちょっと理屈ぽく、とっつきにくいと感じるところもあるかも知れませんが。この書を読んでいけば、私たちに開かれた神の救い、福音のゆたかさと深さをさらに知ることができますので、そこは少し腰を据えてその言葉に耳を傾けてまいりましょう。
先ほど読まれました1章は、はじめの1-7節が「使徒パウロのあいさつ・自己紹介」。そして8-15節が、「この手紙を書いた目的」。さらに16-17節は、「この手紙の全体的な主題、テーマ」が述べられています。
まずこのローマの信徒への手紙が書かれた目的についてですが。
8節以降に小見出しとしてあるとおり、パウロはまだ訪ねたことがない、ローマの教会への訪問を強く願っていたのです。
新約聖書の中で使徒パウロが書いた手紙は、このローマの信徒への手紙の他にもコリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロ二ケの信徒への手紙等があります。
これらコリント、フィリピ、テサロニケの3つの教会はパウロが伝道旅行で実際にその地に赴いて福音を伝え、教会の基礎を築いたのですが。
しかしこのローマの教会はそれらの3つの教会の事情とは異なり、パウロの伝道する前からすでに福音が伝えられ、クリスチャンとなった信徒たちを通して、家の教会が複数形成されていたようですね。
ちなみにローマでキリストの福音を伝えたのはバルナバとかペトロとか、あるいは聖霊降臨の日にエルサレムに旅に来て、ペトロの説教を聞いて信じてクリスチャンになり、ローマに戻っていった人たちとかいわれていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
そのローマの信徒とパウロをつないだのは、コリントの町で出会ったアクラとプリスキラの夫妻でした。彼らはローマにおいてクリスチャンであるために、激しい迫害に遭い、コリントに逃れてきたのです。そこで彼らからローマの信徒たちや教会の事情や情勢についてパウロは詳しく話を聞く機会があったようです。
当時ローマはすべての世界に通じる中心地でした。パウロはそのローマの地を訪れることによってそこが伝道の拠点とされ、さらにイスパニア(スペイン)まで福音が伝えられていくという幻・ビジョンが与えられていたのです。
ユダヤ以外の人たちにもキリストの救いを伝える。それはまさに冒頭の1節でパウロ自身が「神の福音」のために選び出され、召されて使徒とされた、神さまのご計画がここにあるということですね。
先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、ローマ人、あらゆる人々に、それこそ神さまがお造りになった全世界に、この「神の福音」が伝えられていく。その目的のためにこのローマの信徒への手紙は書かれたといえます。
パウロは、ローマの信徒たちと互いに協力し合うことで、そのビジョンが成し遂げられていくことを強く願っていたのですね。
ここでパウロは、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャン、信徒の人たちに向けて、「あなたがたの信仰が全世界(この当時のユダヤ人の世界観ははパレスチナ周辺の小アジア(トルコ)、そしてコリント(ギリシャ)まで射程にあったようですが。)に言い伝えられていることを神に感謝している」と述べます。そして「わたしは、祈るときはいつでもあなたがたのことを思い起こし、何とかいつかは神の御心によってあなたがたのところに行ける機会があるように、願っています」。「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。と彼らに対する熱い思いを語ります。
それは、パウロが一方的に何か与える側に立つというのではなく12節にあるように、ローマの信徒たちと対等の立場で「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」、と願っていたということですね。これはパウロの単なるリップサービス、方便ではありません。
パウロは様々な知識もあり弁のたつ人で、又いろいろなしるしを伴う伝道活動もなしていました。しかし同時に、彼ほどの人でも、自分の力ではどうしようもないという無力さも経験している人であったのです。そういう時に犠牲を払ってまでも祈り、働きを共にしてくれる教会の信徒のつながりというものは、どんなにか彼の支えと励ましになっただろうかと思います。
信仰は神と私という一対一の関係ではありますけれども、独りだけで信仰を保つことは困難であります。それほど人は強くはありません。どんなに強い信仰の確信を与えられても、主にある兄弟姉妹、神の家族として祈り合い、共に御言に望みをおいて支え合う共なる礼拝の場やつながりがなくなってしまえば、個人の霊性はなえてしまうのです。
反対に互いに持っている信仰によって励まし合い、共に霊の賜物によって神の国を求め務めるなら、そこにはさらにゆたかな恵みの体験が起こされていきます。福音のゆたかな拡がりがもたらされていくんですね。それは2000年を経た今も同様であります。
パウロは「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人もない人にも、果たすべき責任があります」とビジョンを語っていますが。その働きはパウロ一人では到底出来うることではなかったのです。
ローマの信徒たちのうちには、ユダヤ人もいたでしょうし、ギリシャ人、ローマ人など様々な地域の人たちがいたようですが。ユダヤ人ばかりのエルサレム教会よりもアンテオケアの教会のように、実に様々な国、民族、立場を越えた方々が招かれている主の共同体に、福音を世界に伝えるための可能性をパウロは見い出していたんでしょうね。
私たちのこの大阪教会も、このところ世界の様々な地域から主イエスにある兄弟姉妹がおいでになり、地域や国を超えてゆたかな福音の分かち合いがなされているその中に、神の国を見せられる思いで感謝であります。それぞれの国にお帰りになった折には、あかしとして伝えられていると思いますと、うれしい限りです。
さて、今日はこの冒頭の使徒パウロの挨拶、自己紹介のところから「神の福音」という題をつけました。これが今日の箇所のテーマだと思ったからです。
パウロは、自らをキリスト・イエスの僕、「神の福音」のために選び出され、召されて使徒となったと述べます。
イエス・キリストの僕、この僕とはギリシャ語でデューロス、奴隷という意味です。
フィリピの信徒への手紙3章のところに彼はかつての自分についてこう述べています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
彼はいわゆるユダヤ社会とその教義においてエリートであった。彼は神のために熱心に働き仕えてきて、神を冒涜していると考えていたキリスト教会とその信徒たちを迫害し、弾圧を繰り返していたんですね。
そのある日、パウロは神の声を聞くのです、それは「なぜ、わたしを迫害するのか」という衝撃的な復活されたイエス・キリストの御声だったんですね。パウロが熱心に神のため神のためと迫害し、弾圧したのはまさに愛してやまなかった神さまご自身であったのです。
パウロはあまりに強いショックと後悔から目が見えなくなってしまうのですが。主がパウロのもとに信仰の人アナニアを送り、聖霊に満たされると、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになり、その場でバプテスマを受け、すぐに、あちこちのユダヤ会堂で、イエスのことを「この人こそ神の子である」とあかしして回ったということです(使徒言行録9章・サウロの回心の記事)。
彼はイエス・キリストこそあの旧約聖書で預言された救い主であり、苦難の僕となって人の、それもこの自分のこの罪を担い、審かれて死なれたお方であることを知るのです。パウロは自分こそが救い主イエス・キリストを十字架につけて殺したのだと思い至り、深い回心へと導かれるのです。主イエスはどこまでも神と人に仕え愛し、デューロス:僕となられた。
そのパウロが書いたフィリピの信徒への手紙2章6節以降には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べています。
パウロはそのイエス・キリストにならい、自らを「キリスト・イエスの僕」とされた者、「神の福音」に捕えられ奴隷となったパウロ、と言っているんですね。主の救いに与っておられるみなさまも又、大なり小なりそのようにキリストに捕えられた者、そのお一人おひとりではないでしょうか。捕えられて生きるというのは何か不自由なマイナスイメージがあるかも知れませんが。世の巷の「何とかの奴隷」ではなく、本物、神さまから捕えられて生きるのなら、こんな光栄はありません。そのように尊い「神の福音」、それをパウロは9節「御子の福音」と述べているように、御子イエス・キリストの十字架を通して現された福音なのでありますが。
今日の16節―17節は、ローマの信徒への手紙の全体の主題・テーマといっても過言ではないでしょう。
パウロは述べます。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
パウロはコリント信徒への第一の手紙にも次のように述べております。
1章18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
1章22節-24節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられた(いる)キリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であるが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
先ほども触れましたが、使徒パウロも熱心なユダヤ教徒であった時は、十字架のキリストに敵対し、それを福音として伝えていたキリスト教会とその信徒を徹底的に迫害しました。
しかし彼は復活の主イエスと出会い、これまで誇りとしてきた血統、学歴、知識、業績などのあらゆる能力やステータスが、イエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何に塵あくたのようなものであるかを思い知らされたのでした。まさに、人の目には愚かと見える主イエスの十字架こそが、信じる者すべてに救いを得させる「神の力」であるということを実体験したのです。
自らの正しさと行いによって自分を正当化して人を裁いて生きていたパウロは、十字架と復活の主イエスとの出会いによって、自らの罪を知り、打ち砕かれました。そんな自分を滅びから救う「御子の福音」。そんなパウロだから「福音を恥としない」と宣言するんですね。
私たちの日本の社会や文化の中で、自分はクリスチャンだと言うことは多少言いづらい、あえて言うことはないという方も多いでしょう。けれど私を生かす神の力、神の愛に生きる時に、溢れてくる思いや言葉、行動は大切にしていきたいですね。
十字架のキリストを信じ受け入れるということは、自分の弱さをさらけだし、無力であることを告白するということでもあります。それはある意味確かに勇気がいることです。
自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力がゆたかに働くのです。まさパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力によって神の栄光が現わされていくのです。
すべて信じる者に救いを得させる神の愛と神の力、御子イエスの十字架の福音に心から神に感謝します。さあここから、また御子の福音に生かされて、それぞれの馳せ場へ、遣わされてまいりましょう。
神の御子イエス・キリストが私たちすべての人間の救いのために罪の贖いとして十字架に死なれ、3日後に復活なさった。先週はそのイースターの喜びを共に分かち合いました。イエスさまは、又その復活のお姿を度々弟子に現され、「全世界に出て行ってこの救いのよき知らせである福音をすべての造られた者に宣べ伝えなさい」と、その働きを弟子たちに託されの後、天にあげられた、と伝えられています。そして弟子たちはその主イエスのお言葉を握りながら、祈りのうちに聖霊に満たされ、福音を伝え続けることで多くの人が主を信じ、教会が誕生していったのです。しかし同時に迫害も激しく起こり、今日のこの「ローマの信徒への手紙」を記したパウロも、初めはキリスト教会とその信徒たちを激しく迫害する人でありました。しかしそのパウロは復活されたイエスさまと出会うことで、主イエスの御救いを信じクリスチャンとなり、主に小アジア、ヨーロッパの異邦人に福音を伝える働き人とされるのです。
さて、本日の礼拝からそのパウロがローマの信徒に宛てた手紙を読んでいきますが。
ちょっと理屈ぽく、とっつきにくいと感じるところもあるかも知れませんが。この書を読んでいけば、私たちに開かれた神の救い、福音のゆたかさと深さをさらに知ることができますので、そこは少し腰を据えてその言葉に耳を傾けてまいりましょう。
先ほど読まれました1章は、はじめの1-7節が「使徒パウロのあいさつ・自己紹介」。そして8-15節が、「この手紙を書いた目的」。さらに16-17節は、「この手紙の全体的な主題、テーマ」が述べられています。
まずこのローマの信徒への手紙が書かれた目的についてですが。
8節以降に小見出しとしてあるとおり、パウロはまだ訪ねたことがない、ローマの教会への訪問を強く願っていたのです。
新約聖書の中で使徒パウロが書いた手紙は、このローマの信徒への手紙の他にもコリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロ二ケの信徒への手紙等があります。
これらコリント、フィリピ、テサロニケの3つの教会はパウロが伝道旅行で実際にその地に赴いて福音を伝え、教会の基礎を築いたのですが。
しかしこのローマの教会はそれらの3つの教会の事情とは異なり、パウロの伝道する前からすでに福音が伝えられ、クリスチャンとなった信徒たちを通して、家の教会が複数形成されていたようですね。
ちなみにローマでキリストの福音を伝えたのはバルナバとかペトロとか、あるいは聖霊降臨の日にエルサレムに旅に来て、ペトロの説教を聞いて信じてクリスチャンになり、ローマに戻っていった人たちとかいわれていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
そのローマの信徒とパウロをつないだのは、コリントの町で出会ったアクラとプリスキラの夫妻でした。彼らはローマにおいてクリスチャンであるために、激しい迫害に遭い、コリントに逃れてきたのです。そこで彼らからローマの信徒たちや教会の事情や情勢についてパウロは詳しく話を聞く機会があったようです。
当時ローマはすべての世界に通じる中心地でした。パウロはそのローマの地を訪れることによってそこが伝道の拠点とされ、さらにイスパニア(スペイン)まで福音が伝えられていくという幻・ビジョンが与えられていたのです。
ユダヤ以外の人たちにもキリストの救いを伝える。それはまさに冒頭の1節でパウロ自身が「神の福音」のために選び出され、召されて使徒とされた、神さまのご計画がここにあるということですね。
先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、ローマ人、あらゆる人々に、それこそ神さまがお造りになった全世界に、この「神の福音」が伝えられていく。その目的のためにこのローマの信徒への手紙は書かれたといえます。
パウロは、ローマの信徒たちと互いに協力し合うことで、そのビジョンが成し遂げられていくことを強く願っていたのですね。
ここでパウロは、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャン、信徒の人たちに向けて、「あなたがたの信仰が全世界(この当時のユダヤ人の世界観ははパレスチナ周辺の小アジア(トルコ)、そしてコリント(ギリシャ)まで射程にあったようですが。)に言い伝えられていることを神に感謝している」と述べます。そして「わたしは、祈るときはいつでもあなたがたのことを思い起こし、何とかいつかは神の御心によってあなたがたのところに行ける機会があるように、願っています」。「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。と彼らに対する熱い思いを語ります。
それは、パウロが一方的に何か与える側に立つというのではなく12節にあるように、ローマの信徒たちと対等の立場で「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」、と願っていたということですね。これはパウロの単なるリップサービス、方便ではありません。
パウロは様々な知識もあり弁のたつ人で、又いろいろなしるしを伴う伝道活動もなしていました。しかし同時に、彼ほどの人でも、自分の力ではどうしようもないという無力さも経験している人であったのです。そういう時に犠牲を払ってまでも祈り、働きを共にしてくれる教会の信徒のつながりというものは、どんなにか彼の支えと励ましになっただろうかと思います。
信仰は神と私という一対一の関係ではありますけれども、独りだけで信仰を保つことは困難であります。それほど人は強くはありません。どんなに強い信仰の確信を与えられても、主にある兄弟姉妹、神の家族として祈り合い、共に御言に望みをおいて支え合う共なる礼拝の場やつながりがなくなってしまえば、個人の霊性はなえてしまうのです。
反対に互いに持っている信仰によって励まし合い、共に霊の賜物によって神の国を求め務めるなら、そこにはさらにゆたかな恵みの体験が起こされていきます。福音のゆたかな拡がりがもたらされていくんですね。それは2000年を経た今も同様であります。
パウロは「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人もない人にも、果たすべき責任があります」とビジョンを語っていますが。その働きはパウロ一人では到底出来うることではなかったのです。
ローマの信徒たちのうちには、ユダヤ人もいたでしょうし、ギリシャ人、ローマ人など様々な地域の人たちがいたようですが。ユダヤ人ばかりのエルサレム教会よりもアンテオケアの教会のように、実に様々な国、民族、立場を越えた方々が招かれている主の共同体に、福音を世界に伝えるための可能性をパウロは見い出していたんでしょうね。
私たちのこの大阪教会も、このところ世界の様々な地域から主イエスにある兄弟姉妹がおいでになり、地域や国を超えてゆたかな福音の分かち合いがなされているその中に、神の国を見せられる思いで感謝であります。それぞれの国にお帰りになった折には、あかしとして伝えられていると思いますと、うれしい限りです。
さて、今日はこの冒頭の使徒パウロの挨拶、自己紹介のところから「神の福音」という題をつけました。これが今日の箇所のテーマだと思ったからです。
パウロは、自らをキリスト・イエスの僕、「神の福音」のために選び出され、召されて使徒となったと述べます。
イエス・キリストの僕、この僕とはギリシャ語でデューロス、奴隷という意味です。
フィリピの信徒への手紙3章のところに彼はかつての自分についてこう述べています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
彼はいわゆるユダヤ社会とその教義においてエリートであった。彼は神のために熱心に働き仕えてきて、神を冒涜していると考えていたキリスト教会とその信徒たちを迫害し、弾圧を繰り返していたんですね。
そのある日、パウロは神の声を聞くのです、それは「なぜ、わたしを迫害するのか」という衝撃的な復活されたイエス・キリストの御声だったんですね。パウロが熱心に神のため神のためと迫害し、弾圧したのはまさに愛してやまなかった神さまご自身であったのです。
パウロはあまりに強いショックと後悔から目が見えなくなってしまうのですが。主がパウロのもとに信仰の人アナニアを送り、聖霊に満たされると、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになり、その場でバプテスマを受け、すぐに、あちこちのユダヤ会堂で、イエスのことを「この人こそ神の子である」とあかしして回ったということです(使徒言行録9章・サウロの回心の記事)。
彼はイエス・キリストこそあの旧約聖書で預言された救い主であり、苦難の僕となって人の、それもこの自分のこの罪を担い、審かれて死なれたお方であることを知るのです。パウロは自分こそが救い主イエス・キリストを十字架につけて殺したのだと思い至り、深い回心へと導かれるのです。主イエスはどこまでも神と人に仕え愛し、デューロス:僕となられた。
そのパウロが書いたフィリピの信徒への手紙2章6節以降には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べています。
パウロはそのイエス・キリストにならい、自らを「キリスト・イエスの僕」とされた者、「神の福音」に捕えられ奴隷となったパウロ、と言っているんですね。主の救いに与っておられるみなさまも又、大なり小なりそのようにキリストに捕えられた者、そのお一人おひとりではないでしょうか。捕えられて生きるというのは何か不自由なマイナスイメージがあるかも知れませんが。世の巷の「何とかの奴隷」ではなく、本物、神さまから捕えられて生きるのなら、こんな光栄はありません。そのように尊い「神の福音」、それをパウロは9節「御子の福音」と述べているように、御子イエス・キリストの十字架を通して現された福音なのでありますが。
今日の16節―17節は、ローマの信徒への手紙の全体の主題・テーマといっても過言ではないでしょう。
パウロは述べます。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
パウロはコリント信徒への第一の手紙にも次のように述べております。
1章18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
1章22節-24節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられた(いる)キリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であるが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
先ほども触れましたが、使徒パウロも熱心なユダヤ教徒であった時は、十字架のキリストに敵対し、それを福音として伝えていたキリスト教会とその信徒を徹底的に迫害しました。
しかし彼は復活の主イエスと出会い、これまで誇りとしてきた血統、学歴、知識、業績などのあらゆる能力やステータスが、イエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何に塵あくたのようなものであるかを思い知らされたのでした。まさに、人の目には愚かと見える主イエスの十字架こそが、信じる者すべてに救いを得させる「神の力」であるということを実体験したのです。
自らの正しさと行いによって自分を正当化して人を裁いて生きていたパウロは、十字架と復活の主イエスとの出会いによって、自らの罪を知り、打ち砕かれました。そんな自分を滅びから救う「御子の福音」。そんなパウロだから「福音を恥としない」と宣言するんですね。
私たちの日本の社会や文化の中で、自分はクリスチャンだと言うことは多少言いづらい、あえて言うことはないという方も多いでしょう。けれど私を生かす神の力、神の愛に生きる時に、溢れてくる思いや言葉、行動は大切にしていきたいですね。
十字架のキリストを信じ受け入れるということは、自分の弱さをさらけだし、無力であることを告白するということでもあります。それはある意味確かに勇気がいることです。
自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力がゆたかに働くのです。まさパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力によって神の栄光が現わされていくのです。
すべて信じる者に救いを得させる神の愛と神の力、御子イエスの十字架の福音に心から神に感謝します。さあここから、また御子の福音に生かされて、それぞれの馳せ場へ、遣わされてまいりましょう。