礼拝宣教 創世記6章5-22節(平和月間)
今日はヒロシマに原爆が投下された8月6日から72年目となります。この8月は平和月間として礼拝ごとに平和といのちの尊さを心に留め、主に祈りつつ礼拝を捧げてまいります。先週のことですが、事務室の書類棚を整理していた折にその中からこの一冊の資料が見つかりました。目を通すとそれは、大阪教会でおおよそ2年間信仰生活を共になさったMさんが直筆で書かれた「原爆許すまじ~ああ惜春」と題する手記であったということです。これは貴重な資料であることを考え、広島原爆記念館に問い合わせたところ幾つかのことがわかったのですが。ともかく、これだけしっかりとした形での証言がご本人の直筆と写真と共に遺されているのは貴重なものだそうです。
18歳のときにヒロシマで被爆され、その後原爆症骨髄性悪性貧血白血病を発病されました。その後大阪市内に転居・療養され、大阪教会の教会員原簿によれば、52歳の時に入信されてクリスチャンとなられたとあります。その後69歳で天に召されたということですが。皆さまのなかには親交のあった方もおられることでしょう。
いずれにしても、姉妹の被爆者としての生々しい手記が書棚から発見されたのがこの8月の平和月間のタイミングでありましたものですから、これは主が教会で分かち合うべき事としてお示しになったのだという思いで、コピーしたものをロビーに置いておきますので、みなさんそれぞれ手にとって読んでいただければと思います。
人類が過去の教訓に耳を傾ける事をやめるとき。それは再び過ちが繰り返されるときかも知れません。決しておぞましい殺戮兵器が乱用される時代となりませんように、世界の一人一人と心を合わせて祈りたいと願っております。
さて、本日は創世記6章の「ノアの箱舟」の箇所からみ言葉を聞いていきます。
水曜日の聖書の学びの時でしたが。ノアの時代のその洪水の原出来事は、「5千年前に実際に起こった歴史的事実であった」と力説されている方の文書をSさんから見せていただきました。
何でも五千年前にメソポタミヤ地方が気候の大変動に見舞われ、ユーフラテス川上流の高原の気候が一気に寒冷化し、積雪量が増大し山々に大変な雪が降り積もったそうです。そういう異常気象による寒冷化によってユーフラテス川上流の高原に降り積もった膨大な雪が春先に一気に溶けて、その雪解け水が当時この大洪水を引き起こしたと、ということであります。
まあ、聖書には四十日四十夜雨が降り続いたとありますし、実際どうだったのか、様々な状況が重なってのことなのか、わかりませんが。少なくとも近年のこの異常気象と、それに伴う今まで私たちが経験したこともない事態が次々と起こってくる中で、何かノアの時代の洪水の出来事が、単なる絵空事ではなく、むしろ非常にリアルに思えてくるのは私だけではないでしょう。
世界の諸国において45度を超す熱波や-50度を下回る寒波、想像を絶するようなハリケーン、ゲリラ豪雨 等々、 世界は今至るところで記録的な異常気象に見舞われています。そんな中で、北極海では海氷がかってないほど減少し、厚い氷で覆われたグリーンランドでも島の全域で氷の溶解が観測されているそうです。さらには、世界の90%の氷が集中しているといわれる南極は、これまでは、たとえ温暖化が進んでも、氷が大きく溶け減少することはないと考えられてきたのですが。しかし多くの研究者たちの調査によって、単に氷解が進むというだけでなく、今後南極大陸を覆っている実に60%の氷床が溶ける可能性があり、その結果、世界の海面上昇は9メートルにも達するという可能性があることがわかってきたそうです。当然、周辺の小さな島は沈んでしまいますし、日本の海岸沿いにある原発もみな海に浸かってしまう計算になるそうです。
先の、ノアの大洪水は歴史的事実だったと記事を書かれた方は、その小論のテーマを「地球温暖化にノアの箱船は何を告げるのか」とつけておられたのが、大変示唆的だと思いました。本日のこの箇所を実に私たちの事柄ととし真摯に受け取ってまいりたいと願っております。
さて、先に読みましたアダムとエバが楽園から出ていかざるを得なくなった記事に続き、4章にはカインとアベルに描かれます兄弟殺しの記事が記されておりますが。これらは、神と人との関係崩壊が人と人との関係崩壊へ結びついているということであります。そしてそれが今日の6章に至っては、全被造物の崩壊へつながっていくのです。
注目すべきは、人が心に思い計ってなした悪、堕落、不法によって神との関係崩壊が起こり、さらに人と人との関係崩壊、それはさらに被造物すべての崩壊、すなわち神の創造の秩序の崩壊に至るということがここに語られているのです。
5節以降で、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という記載がなされています。そうして遂に、主は「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とおっしゃるのであります。本当に重たい造り主なる神さまのお言葉であります。
さらに11節以降には、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」と記され、神は、ノアに「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と宣言されているのです。
ここに至っては、神に立ち返ることなく悪を繰り返し、どこまでも堕落していく人間と、不法に満ちる人の世に対する神の妥協なき審判が読み取れます。
重ねて申しあげますが、神を拒み、神から造られたという謙虚さと畏れを無くして心の思い計るままに振舞う人間を、神は地上からぬぐい去るだけでなく、家畜も這うものも空の鳥ももろともに地上からぬぐい去ろう、とおっしゃるのです。
私たち人間の神への背信が、私たち人間を取り巻く生きものの命さえも消滅させてしまうことがここに示されております。
今日の時代はかつてないスピードで多くの動植物の絶滅危惧種が増えているということで、すでにこの地上から姿を消した生物は860種あると言われているそうです。
さらにその存在が危惧されてものの中には、身近な生き物と思っていたゲンゴロウやミズスマシなどの昆虫からライオン、ゴリラ、シロクマなどもあげられるそうですが。
天地創造の1章の箇所で、お造りになったすべてのものを御覧になり「見よ、それは極めて良かった」と絶賛なさった神が、この6章で「地上からぬぐい去ろう」とおっしゃらずにはいられなかった。その人類の罪深さ。いまだ地上の良き管理人とはなれない現代の私たちは、神さまの御目にどのように映っているでしょうか。「わたしはこれらを造ったことを後悔する」とおっしゃる主のお言葉は大変重いものであります。
しかしながら、その6節に、主は「心を痛められた」とある、その一語に私たちは主の深い慈しみを知ることができます。それはたとえば、我が子が迷い出たことに心痛め困惑する親の姿とも重なります。イエスさまが語られた放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿もそうでしょう。神は、人が心に思い計ることが常に悪いものであることをご存じでありながら、御心から離れ暴走の果てに滅びへ向かう私たち人間の行く末について心を痛められるのであります。それは単なる怒りや分断の思いではなく、我が子が滅びゆく危機に対するいたたまれない思い、悲嘆に暮れる、そのようなみ思いであるといえるでしょう。
では、神さまも人ももはや希望を見出し得なかったのか?
そこに聖書は一人の、「主の好意を得た」ノアを登場させるのです。
彼については5章29節に「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の労苦を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、ノア(慰め)と名付けられた、と記されていますが、それ以外の詳しいことは何も記されていません。ただ注目すべきは、すべての被造物が滅びの危機に向かう中にあって、ノアが主の好意を得たという希望であります。それはたとえ一人であろうとも希望なのです。
では、ノアはどうして主の好意を得たのだろうと当然お考えになるところだと思いますが。実は、このノアが「主の好意を得た」と訳されている原語を直訳すると「ノアは主の御目の中に恵みを見つけた」という意味で、それは彼自身が主なる神さまの慈愛のまなざしを見出す人であった、ということなんですね。だから何かノア自身が人一倍
立派であったとか優れていたとかいう事ではなく、何よりも「主の恵みに生かされていることを知る人」であったということであります。
先ほど主が心を痛められたというその記述は、我が子が迷い出たことに心痛め困惑する親の姿、又、放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿であることについて触れましたが。
まさに主は慈愛の神であられることをノアは「主の御目のうちに見ていた」人なのです。そこに神と人との心と心を通わす命の交わりがあったのですね。
ノアについてこうも記されています。
「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と。
こうして無垢であると言いますとピュアな人、純粋な人というイメージで読んでしまいますが。実はそう読むよりも口語訳では「正しい」と訳されていて、それはつまり「神に従う正しさ」が備わった人であったと読んだ方がよいかと思います。
ですから、先の説明のとおり、「神の恵みを知る人」としてノアは、「神に対してまっすぐに、実直に従う人」であったということですね。
今日の聖書のメッセージの中心は、神は罪深い私たち人間の滅びゆく危機にあって、なおもその慈しみの愛をもって私たちが立ち返って生きることを絶えず願っておられるのであります。
さらに、生ける主は、今日の時代に生きる私たちに向けて、ノアのように世の風潮に流されことなく、主の御目のうちに恵みを見つけて生きる者を探し求めておられるということです。
14節から、神はノアに「ゴフェルの木の箱舟を造りなさい」と命じ、その箱舟の大きさから詳しい構造や間取り、アスファルトでピッチをして水漏れを防ぐことにまで言及されます。さらに箱舟に入るものについても指示をなさるのですが。興味深いのは、同じ記述の7章2節以降には、主はノアに「あなたは清い動物すべてを7つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい」とある点です。ここでは、清い清くないものをそれぞれ取って箱舟に入れたということが強調されています。そこには、主の御手により、すべては秩序をもって造られたものであり、排除しないという主の御意志が示されていることが読み取れます。まさに世界は多様性をもってゆたかに織りなされるものであるということでありましょう。
そうして、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」とあります。
ノアはまさに神に信頼するという正しさをもって箱舟を造り、後世に命をつなげる役割を果たしていくのであります。
私たちも、主イエスの贖いによって滅びから免れる者とされています。この主の救いの恵みを伝え、分かち、証しするという主の召しに従い行き、共にその救いに与っていく人が一人でも起こされていくように用いられたいものです。たとえどのような時代であったとしても、「神の御目のうちに慈愛と恵みを見ていた」ノアのように今週もこのところから遣わされてまいりましょう。
今日はヒロシマに原爆が投下された8月6日から72年目となります。この8月は平和月間として礼拝ごとに平和といのちの尊さを心に留め、主に祈りつつ礼拝を捧げてまいります。先週のことですが、事務室の書類棚を整理していた折にその中からこの一冊の資料が見つかりました。目を通すとそれは、大阪教会でおおよそ2年間信仰生活を共になさったMさんが直筆で書かれた「原爆許すまじ~ああ惜春」と題する手記であったということです。これは貴重な資料であることを考え、広島原爆記念館に問い合わせたところ幾つかのことがわかったのですが。ともかく、これだけしっかりとした形での証言がご本人の直筆と写真と共に遺されているのは貴重なものだそうです。
18歳のときにヒロシマで被爆され、その後原爆症骨髄性悪性貧血白血病を発病されました。その後大阪市内に転居・療養され、大阪教会の教会員原簿によれば、52歳の時に入信されてクリスチャンとなられたとあります。その後69歳で天に召されたということですが。皆さまのなかには親交のあった方もおられることでしょう。
いずれにしても、姉妹の被爆者としての生々しい手記が書棚から発見されたのがこの8月の平和月間のタイミングでありましたものですから、これは主が教会で分かち合うべき事としてお示しになったのだという思いで、コピーしたものをロビーに置いておきますので、みなさんそれぞれ手にとって読んでいただければと思います。
人類が過去の教訓に耳を傾ける事をやめるとき。それは再び過ちが繰り返されるときかも知れません。決しておぞましい殺戮兵器が乱用される時代となりませんように、世界の一人一人と心を合わせて祈りたいと願っております。
さて、本日は創世記6章の「ノアの箱舟」の箇所からみ言葉を聞いていきます。
水曜日の聖書の学びの時でしたが。ノアの時代のその洪水の原出来事は、「5千年前に実際に起こった歴史的事実であった」と力説されている方の文書をSさんから見せていただきました。
何でも五千年前にメソポタミヤ地方が気候の大変動に見舞われ、ユーフラテス川上流の高原の気候が一気に寒冷化し、積雪量が増大し山々に大変な雪が降り積もったそうです。そういう異常気象による寒冷化によってユーフラテス川上流の高原に降り積もった膨大な雪が春先に一気に溶けて、その雪解け水が当時この大洪水を引き起こしたと、ということであります。
まあ、聖書には四十日四十夜雨が降り続いたとありますし、実際どうだったのか、様々な状況が重なってのことなのか、わかりませんが。少なくとも近年のこの異常気象と、それに伴う今まで私たちが経験したこともない事態が次々と起こってくる中で、何かノアの時代の洪水の出来事が、単なる絵空事ではなく、むしろ非常にリアルに思えてくるのは私だけではないでしょう。
世界の諸国において45度を超す熱波や-50度を下回る寒波、想像を絶するようなハリケーン、ゲリラ豪雨 等々、 世界は今至るところで記録的な異常気象に見舞われています。そんな中で、北極海では海氷がかってないほど減少し、厚い氷で覆われたグリーンランドでも島の全域で氷の溶解が観測されているそうです。さらには、世界の90%の氷が集中しているといわれる南極は、これまでは、たとえ温暖化が進んでも、氷が大きく溶け減少することはないと考えられてきたのですが。しかし多くの研究者たちの調査によって、単に氷解が進むというだけでなく、今後南極大陸を覆っている実に60%の氷床が溶ける可能性があり、その結果、世界の海面上昇は9メートルにも達するという可能性があることがわかってきたそうです。当然、周辺の小さな島は沈んでしまいますし、日本の海岸沿いにある原発もみな海に浸かってしまう計算になるそうです。
先の、ノアの大洪水は歴史的事実だったと記事を書かれた方は、その小論のテーマを「地球温暖化にノアの箱船は何を告げるのか」とつけておられたのが、大変示唆的だと思いました。本日のこの箇所を実に私たちの事柄ととし真摯に受け取ってまいりたいと願っております。
さて、先に読みましたアダムとエバが楽園から出ていかざるを得なくなった記事に続き、4章にはカインとアベルに描かれます兄弟殺しの記事が記されておりますが。これらは、神と人との関係崩壊が人と人との関係崩壊へ結びついているということであります。そしてそれが今日の6章に至っては、全被造物の崩壊へつながっていくのです。
注目すべきは、人が心に思い計ってなした悪、堕落、不法によって神との関係崩壊が起こり、さらに人と人との関係崩壊、それはさらに被造物すべての崩壊、すなわち神の創造の秩序の崩壊に至るということがここに語られているのです。
5節以降で、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という記載がなされています。そうして遂に、主は「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とおっしゃるのであります。本当に重たい造り主なる神さまのお言葉であります。
さらに11節以降には、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」と記され、神は、ノアに「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と宣言されているのです。
ここに至っては、神に立ち返ることなく悪を繰り返し、どこまでも堕落していく人間と、不法に満ちる人の世に対する神の妥協なき審判が読み取れます。
重ねて申しあげますが、神を拒み、神から造られたという謙虚さと畏れを無くして心の思い計るままに振舞う人間を、神は地上からぬぐい去るだけでなく、家畜も這うものも空の鳥ももろともに地上からぬぐい去ろう、とおっしゃるのです。
私たち人間の神への背信が、私たち人間を取り巻く生きものの命さえも消滅させてしまうことがここに示されております。
今日の時代はかつてないスピードで多くの動植物の絶滅危惧種が増えているということで、すでにこの地上から姿を消した生物は860種あると言われているそうです。
さらにその存在が危惧されてものの中には、身近な生き物と思っていたゲンゴロウやミズスマシなどの昆虫からライオン、ゴリラ、シロクマなどもあげられるそうですが。
天地創造の1章の箇所で、お造りになったすべてのものを御覧になり「見よ、それは極めて良かった」と絶賛なさった神が、この6章で「地上からぬぐい去ろう」とおっしゃらずにはいられなかった。その人類の罪深さ。いまだ地上の良き管理人とはなれない現代の私たちは、神さまの御目にどのように映っているでしょうか。「わたしはこれらを造ったことを後悔する」とおっしゃる主のお言葉は大変重いものであります。
しかしながら、その6節に、主は「心を痛められた」とある、その一語に私たちは主の深い慈しみを知ることができます。それはたとえば、我が子が迷い出たことに心痛め困惑する親の姿とも重なります。イエスさまが語られた放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿もそうでしょう。神は、人が心に思い計ることが常に悪いものであることをご存じでありながら、御心から離れ暴走の果てに滅びへ向かう私たち人間の行く末について心を痛められるのであります。それは単なる怒りや分断の思いではなく、我が子が滅びゆく危機に対するいたたまれない思い、悲嘆に暮れる、そのようなみ思いであるといえるでしょう。
では、神さまも人ももはや希望を見出し得なかったのか?
そこに聖書は一人の、「主の好意を得た」ノアを登場させるのです。
彼については5章29節に「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の労苦を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、ノア(慰め)と名付けられた、と記されていますが、それ以外の詳しいことは何も記されていません。ただ注目すべきは、すべての被造物が滅びの危機に向かう中にあって、ノアが主の好意を得たという希望であります。それはたとえ一人であろうとも希望なのです。
では、ノアはどうして主の好意を得たのだろうと当然お考えになるところだと思いますが。実は、このノアが「主の好意を得た」と訳されている原語を直訳すると「ノアは主の御目の中に恵みを見つけた」という意味で、それは彼自身が主なる神さまの慈愛のまなざしを見出す人であった、ということなんですね。だから何かノア自身が人一倍
立派であったとか優れていたとかいう事ではなく、何よりも「主の恵みに生かされていることを知る人」であったということであります。
先ほど主が心を痛められたというその記述は、我が子が迷い出たことに心痛め困惑する親の姿、又、放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿であることについて触れましたが。
まさに主は慈愛の神であられることをノアは「主の御目のうちに見ていた」人なのです。そこに神と人との心と心を通わす命の交わりがあったのですね。
ノアについてこうも記されています。
「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と。
こうして無垢であると言いますとピュアな人、純粋な人というイメージで読んでしまいますが。実はそう読むよりも口語訳では「正しい」と訳されていて、それはつまり「神に従う正しさ」が備わった人であったと読んだ方がよいかと思います。
ですから、先の説明のとおり、「神の恵みを知る人」としてノアは、「神に対してまっすぐに、実直に従う人」であったということですね。
今日の聖書のメッセージの中心は、神は罪深い私たち人間の滅びゆく危機にあって、なおもその慈しみの愛をもって私たちが立ち返って生きることを絶えず願っておられるのであります。
さらに、生ける主は、今日の時代に生きる私たちに向けて、ノアのように世の風潮に流されことなく、主の御目のうちに恵みを見つけて生きる者を探し求めておられるということです。
14節から、神はノアに「ゴフェルの木の箱舟を造りなさい」と命じ、その箱舟の大きさから詳しい構造や間取り、アスファルトでピッチをして水漏れを防ぐことにまで言及されます。さらに箱舟に入るものについても指示をなさるのですが。興味深いのは、同じ記述の7章2節以降には、主はノアに「あなたは清い動物すべてを7つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい」とある点です。ここでは、清い清くないものをそれぞれ取って箱舟に入れたということが強調されています。そこには、主の御手により、すべては秩序をもって造られたものであり、排除しないという主の御意志が示されていることが読み取れます。まさに世界は多様性をもってゆたかに織りなされるものであるということでありましょう。
そうして、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」とあります。
ノアはまさに神に信頼するという正しさをもって箱舟を造り、後世に命をつなげる役割を果たしていくのであります。
私たちも、主イエスの贖いによって滅びから免れる者とされています。この主の救いの恵みを伝え、分かち、証しするという主の召しに従い行き、共にその救いに与っていく人が一人でも起こされていくように用いられたいものです。たとえどのような時代であったとしても、「神の御目のうちに慈愛と恵みを見ていた」ノアのように今週もこのところから遣わされてまいりましょう。