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ノアの箱舟(後篇)

2017-08-13 15:04:01 | メッセージ
礼拝宣教 創世記8章1-22節

8月は平和月間を覚えての礼拝を捧げております。今週は8月15日の終戦から72年目を迎え、新聞やテレビで様々な特集が組まれていますが。一方で日本の平和や世界の秩序を脅かす一触即発ともいえる報道が、物騒な兵器とともに目に飛び込んできます。本当に心痛むものでありますが。キリストの非暴力と和解の福音を知らされた私たちは、この荒波の時代にあっても不戦の思いをまたしっかりと胸に刻んで祈り、歩んでまいりたいと願います。

先週の6章の「ノアの箱舟」の記事では、「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」ことを知りました。それは創造主であるお方、父の神の愛です。

主はノアに、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」といわれ、箱舟を作るようお命じになりました。そして、「主はノアと契約を立てることを約束され、ノアは、すべて神が命じられるとおりに果たした」とありました。
ノアは主のまなざしの中に恵みを見つける人であったので、そのような先の見えない計画に従っていくことができたのです。

次の7章には、ノアが神のいわれるとおりに成した後に、「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれ、洪水が地上に起こる」様が記されています。こうして地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとくぬぐい去られ、「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」。なおも、「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とございます。

そのように、想像し難いものすごい豪雨が40日40夜降り続き、大地を覆い尽くし、命あるものは、全て大水に呑み尽くされてしまいました。
その雨が止んだあと、そこに見えるものは、見渡す限り水、水、四方八方、どこまで行っても、水です。その荒涼たる大海原の上に、実に小さな箱舟が、たった一つ、見捨てられたように漂っていました。箱舟の中には、ノアと、ノアの家族たち、そして、多くの動物たちが、ぎゅうぎゅうに押し込められてひしめき合っていました。
しかも一年間という長きに亘って漂流するわけです。

そういう過酷な状況の中で今日の8章はじめのところの「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留めておられた」という一文に、私たちは希望を見出すことができるのではないでしょうか。
一方ノアは、箱舟の中に閉じ込められていたほぼ一年の間、その神に信頼することによって希望を失うことがなかったのです。

そのことを今日の箇所でよく象徴しているのが、鳩であります。
ノアは、このところで3度に亘り鳩を放ちました。鳩といえば、ヒロシマとナガサキの原爆投下の日をおぼえて行なわれる平和記念式典の場においても平和と希望の祈りととも大空に放たれます。
ノアが放ったこの鳩もまた、神への希望と祈りを象徴しているように思えます。
そうして放たれた鳩は、大地が乾き、再び芽吹いてきた生命の証しとして、くちばしにオリーブの葉をくわえ戻ってきます。それはノアの神の救いに対する忍耐が決して無駄ではなかったことを、示しています。

この洪水は、私どもの住んでいるこの地球が、絶えず大きな危機におびやかされていることを物語っています。先週触れました地球温暖化の問題もそうですが、それだけではありませんよね。生態系が壊れていく現状も。生物の種が脅かされていることも。戦争や殺戮に対する心配もすべてそれは、人間が地球に住み始めたときから、いつもあったことです。聖書はその大本に人間の罪という問題があることを明らかにします。

6章5節のとおり「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になっていた」、又8章21節のとおり「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と主はおっしゃったのです。
人は誰も自分は最善のことを願い行動していると主張するかも知れません。しかしその自分の理想や願望のため何であれ、利用し、やがては隣人の幸福や命までも奪い、犠牲にしてきたのです。
それは、人が神に背を向けて生きているからです。
創世記には、そのはじめから人が恨み、ねたみ、憎しみ、殺し、復讐するものであることが記されています。人は最善のものを望みながらも、依然とその滅びの性質から抜け出すことができない存在であることは歴史が示しているとおりです。

ノアの洪水は、普通の意味での、河川の氾濫によって起こる「洪水」ではありません。そうではなく、被造世界の崩壊を意味します。
それは7章1節に記されているように「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」出来事なのです。
見渡す限り、水面の遥か下にはかつて人が住んでいた町や村があり、建物があり、人の営みがあった。その日が来るまで人は飲み、歌い、騒ぎ、その思いの計るままに生きていた。そういう中である日突如としてその時が臨むのです。これはまさに今の私たちの現実の世界を物語っているかのようです。

ここで、ノアについて見ていきますが。
ノアはこの壮絶な大洪水が始まり、完全に地がすっかり乾く一年もの間、どうしていたのでしょうか。申すまでもなく、彼はこの時を、非常に心細く、不安な気持ちで耐えていたに違いありません。何しろ、この一年の間、完全に狭苦しい箱舟の中に閉じ込められていたのです。そのうえ猛獣までも一緒です。
ノアはそんな中で、家族や動物たちが起こすあらゆるトラブルにも見舞われ、それらを解決しなければなりません。それだけでも大変な心労の毎日です。
しかし、何よりも大きな不安は、この災いがいつ迄続くのか、それが彼には知らされていなかったことです。

私どもが災いや試錬に遭うときの最大の苦しみも、やはり、それがいつ終わるのか、又、解決するのか私どもには分からないということです。ひょっとしたら、いつまでも終わらないのかも知れない、という不安と焦りが私たちを一層苦しめます。

ノアはそのような中で、なおも忍耐をもって苦難を忍び希望する力を、一体どこから得たのでしょうか。何を、彼は頼りにしていたのでしょうか。
彼がそこで頼りにしたもの、それは、6章18節に「わたしはあなたと契約を立てる」と語られた、神の御言葉であります。その神の希望の言葉、契約によって、どのような目に見える厳しい現実をも乗り越えていく力を彼は得たということでありましょう。その神の言葉によって、ノアは望みを抱いたのですね。

私たちはそのようなノアの背後にあって、神さまが生きてお働きになられることを知ることが出来ます。今日の8章冒頭にあるように「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」。
神は箱舟の中の者たちすべてを御心に留められた。この「御心に留める」という言葉は、相手のことを、深い慈しみの情をもって思い起こし、顧みる、という意味であります。そこには、歴史の中で生きて働いておられる神さまの御姿が、くっきりと描かれています。神は御意志をもってご自身の約束に生きる者を守り抜かれるのです。ノアはこの神がおられるゆえに、希望を持ち続けることができたのです。
今私どもは何よりも、神の新しい約束、すなわち神の御子イエス・キリストの贖いの御血汐によって救われ、神の民、神の子の一人として生きるという新しい契約(新約の福音)に与ることがゆるされているのです。
私どもも又、どのような試錬の中にあっても、この「慈しみ深い神」に望みを見出し続けていくものでありたいと願うものです。

さて、ノアは箱舟から鳩を放ちました。この鳩は祈りを表しているということを始めに申しましたが。実はノアは鳩を放つ前にカラスを放つのですが、要領を得なかったようで、次いで鳩を二度、三度と放つわけです。祈りもそうだと思いますね。祈りがきかれていないと言ってポィと放り出すのではなくて、ノアが希望を託して鳩を放ったように一度ならず二度、三度と主に信頼し、祈り続ける。それが大事なんですね。

一度目に放った鳩は止まる場所を見付けることが出来ず、疲れ切った様子で帰ってきました。「ノアは手を差し伸べてその鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した」とあります。ここを読むと、帰って来た鳩を、ノアがその手でそっと包み込む様子が目に浮かんでくるようですが。ノアは更に7日後に、もう一度鳩を放ちました。すると鳩は寒くなった夕方に、くちばしにオリーブの葉をくわえて、戻って来たのです。
オリーブの葉は水の中でも芽を出すと言われます。柔らかい新芽の葉です。それはこの地上のどこかで、既に神の新しい創造の業が始まっている証です。
オリーブの葉をくわえた鳩は、まさに希望のしるしです。
窓から放たれた鳩がノアの祈りであるとするなら、帰ってきた鳩は神からのお答えです。創造者なる神の慈愛がまさに、人間の罪や死の力に勝利した。鳩は、神と人間の間の永遠の平和と希望を象徴しています。
ノアは更に七日待って、三度目に鳩を放ちました。すると、鳩はもう帰ってこなかった、とあります。このようにして、ノアは一年間の苦しい箱舟の生活からついに解放されました。そして、神のお言葉どおりに従い、箱舟から出て地上に降り立った時、そこでノアが真っ先にしたこと、それが「救いの神さまを礼拝すること」であったのですね。
神さまはそのノアの捧げ物のかおりをかいで、こう御心に言われます。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

ここを読みますと、人間は昔も今も何ら変わっていない事をつくづく思うものです。どんなに文明や科学技術が進んでも、ちょっと油断すると罪の性質がむくむくと頭をもたげてくるのが私たち人間の存在。神に背を向けて身勝手に生きていこうとするのが、私たち人間ではないでしょうか。
しかしそれでもなお創造主なる神さまは、慈愛をもって「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言いつつも、このように「二度とわたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と決意をなさるのですね。その神さまの慈愛を知ってか知らでか、今、非常に危険な方向にいきかねない社会情勢であります。この世界に戦争がなくならない一つの理由は、「悪なら滅ぼせ」という排他的暴力を正当化する人間の高慢にあると思います。神は人が悪いものであることを知りながらも、命と平和の道をその人に備えてくださったのです。それにも拘わらず人は何が悪かを見極めないまま「滅び」を口にするんですね。
この、二度と打つことをしないとおっしゃった神さまのお姿に、平和への思いと願いを見出し祈る者でありたいです。
ノアたちは箱舟から地を受け継ぐ人として地上に遣わされていきました。私たちは、罪深い者がイエス・キリストを通して神との平和、神との和解に与らせていただいたものであります。

使徒パウロはこう述べています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:18-19)
今週も今日の御言葉に押し出され、それぞれ和解の福音の働きに仕えていけるよう、ここから遣わされてまいりましょう。
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