礼拝宣教 ルカ10章25~37節
先週は働きを終えて喜びのうちに報告する72人の弟子たちに、イエスさまはそれとは比べることのできない喜び、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃたこと。さらに、父なる神さまを賛美して「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ともいわれたそのところから主のメッセージを聞きました。
本日は、そういった主イエスのお言葉に、ある律法の専門家が反応して立ち上がり、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と、「イエスさまを試そうとして言った」というそのところから聖書に聞いていきたいと思います。
「試す」というのは、モノに使われるのはいいんですが。人に対して使われると、何だか嫌なもんですね。ちょっとあの人を試してみようとか、ドキッとします。それはどこか上から目線の悪意のようなものさえ感じられる気がしますが。
聖書の中には、神を試みてはならない、と書かれていますように、それは人の高慢を戒める教えであろうかと思います。
この律法の専門家は、神の戒めとその律法をよくよく学んできた人でした。永遠の命を受けるために律法を学び、その戒律を守るよう心掛けている、ユダヤ社会において自他共に認めるいわゆる立派な人であったのです。
だからこそイエスさまの、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった」とのお言葉がひっかかったのです。
すると、イエスさまは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるのか」と反対に問い直します。
それに対して、律法の専門家は待っていましたとばかりに、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。
それは、イエスさまも「正しい答えだ」とおっしゃっているように、模範解答でした。
しかし、イエスさまはさらに「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃるのです。
そこでこの律法の専門家は「はい」そのようにいたします、と答えたかといいますと、そうではありません。
イエスさまに、「では、わたしの隣人とはだれですか」と聞き返すんですね。
ここには「彼は自分を正当化しようとして」と記されていますが。正当化とは、「ある物事や自分の言動などを正しく道理に適っているように見せたり、理論づけたりすること」、と辞書に解説がありましたが。
彼がイエスさまに、そのように自分を正当化しようと尋ねたのにはわけがあったのです。
この「隣人愛」については、レビ記19章18節に記されています。開けてみましょう。旧約聖書新共同訳p.192。 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。前の16節から18節まで読んでみましょうか。(読む)
ここに民の間でとか、同胞とか、民の人々に、とあります。この隣人の原語:プレシオンは「すぐそばの人、自分の身近に感じる人、兄弟姉妹、同じ民族、同信の友など」を表しています。すなわち、彼にとって隣人といえば同胞のユダヤ人のことでした。
同胞に親切にするなどということは、普段から心がけているし、ユダヤ人として正しい生き方をしている。彼にはそういう自信があったのです。
一方イエスさまは、福音書にも記されているように、人を分け隔てせず、罪人と言われるような人や異邦人と食事を共にし、神の国をお語りになるお方です。
この律法の専門家は、イエスさまが普段からユダヤ人以外の異邦人やこのあとの譬え話に登場するサマリア人とも交流をもっていたことを知っていました。
彼はなぜ、ユダヤ人であるイエスさまが、「堕落した罪深いこのような者たちと関わるのか」との強い疑念にかられていたのでしょう。
まあ、そういうことがあって彼は、知恵ある者であり、賢い者でした。そしてそのことを自負していた。
まあ彼のそのような囚われの状態をイエスさまはつぶさに見抜かれ、その彼の問いかけに答える形で、「サマリア人のたとえ話」をなさるのですね。
サマリア人とその町は、かつてイスラエルが北王国と南王国とに分かれていた時代、北王国の主要都市でした。
しかしその崩壊後、他民族がそこに侵入し、偶像礼拝や倫理的堕落などが生じます。
それ以来、ユダヤ人たちは、サマリア人を神の名を汚した堕落の民、異教徒などと呼んで、罪人のように見なし、見下し、彼らとの交わりを絶ってきました。
もともとはイスラエルという一つの民、同胞の民であったにも拘わらず、強い確執が1000年もの間続いていたのです。
今日のこの律法の専門家もまた、そういう歴史を教えられて育ったことで、敵意と差別という見えない壁が彼の内に出来てしまっていたのでしょう。そうしたことから、彼にとってサマリア人は、「隣人」とは決して言い難いものであり、その対象とは成り得なかったのであります。
ここで、このたとえ話を少し丁寧に見ていきます。
ここに出てくるエリコは、イエスさまの時代は殺伐とした荒れ地で、そこを往来する旅人にとっては危険な道のりであり、時に追いはぎに襲われるような事もあったようです。
このたとえに出てくる追いはぎにあった人は、エルサレムからエリコに下っていたとありますことから、ユダヤ人としてイエスさまは語られています。
被害に遭い半殺しの状態で路上に倒れているユダヤ人を前に、同胞の祭司、さらにレビ人が通りかかります。
しかし、彼らはそれぞれ道の向こう側を通って行きました。彼らは共に神に仕える身でした。当然律法を知っているわけで、助けを必要とする同胞に手を差し伸べることは、とりわけ律法に適う行動のはずでした。
ところが無情にも向こう側を通り過ぎて行くのです。
彼らがそうした原因は2つ考えられます。
まず単純に怖かった。それは、追いはぎが行き倒れの旅人を装って、人を襲うようなことが実際起こっていたからです。その恐れから近づけなかった。
もう一つは、仮に追いはぎにあった人が亡くなっていて、もし死体にでも触れたとなれば、これも律法によって祭司はある期間神のみ前に立てないということで、神殿での務めを行えず、その責任を果たす事が出来なるということからです。
つまり関わろうとした彼ら自身の身の危険や厄介に巻き込まれるかも知れなかったのです。
まあそういう己の身を守るための知恵や賢さが先に働いてしまったんですね。
確かに、人のことを非難や評価することは容易いですが。けれども実際、私がそういった現場に居合わせることになったら、善を行う思いがあったとしても、果たしてリスクを冒してまで関わることができるだろうか?そう考えた時、簡単に彼らを責めることはできないことに気づかされます。
この祭司やレビ人から見えてくるのは、それがたとえ同胞であったとしても、隣人を愛するということが如何に難しいか、ということです。
どんなに口で愛だのなんだの言って、知識や理屈で語っても、本当にそれができるかどうか、行動に顕れるかは別のことなんですね。
譬え話に戻りますが。
さて、そこに3人目の通行人、サマリア人が現れます。
サマリア人については先に触れましたように、彼らはユダヤ人たちからは汚れた者として忌み嫌われ、見下されていたのです。
イエスさまはこのたとえ話にその「サマリア人」を登場させるのです。そして事もあろうに瀕死の状態にある「ユダヤ人」を介抱し、助けたのはこのユ「サマリア人」であったと語られるのです。
彼はそばに来て、その様子を見て憐れに思った。この憐れとは、礼拝で何度も話していますが。「断腸の思い、腸がちぎれるような思いで、相手の痛みを感受する」ということです。単に「可哀そう」とか「気のどく」というようなものではなく、先ほどもいましたが、
「もう自分の腸がちぎれるように痛むような思いで近寄り、介抱するんですね。もう、そこには敵、味方、積年の民族間の確執なんか彼にはどうでもいいことであったのでしょう。
しかも、この介抱の仕方は徹底しています。半殺しにされた傷だらけの体に消毒のための油とぶどう酒を注ぎ、丁寧に包帯をして、そうして自分の乗っていたろばに乗せ、自分はそれを引いて宿屋まで連れていくのです。
まあじつに大変なことですが、彼は憐れに思うその気持ちで、そうせずにはいられなかったのです。
また、宿屋についたとしても、歓迎されるはずもありません。彼は宿屋でも一晩かけて介抱します。またその翌日、宿屋の主人に銀貨2枚を渡して、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言うのです。何という徹底ぶりでしょう。
このサマリア人は、いってみれば自分の精いっぱいの心と精神と力、そして思いを尽くして、傷つき倒れていた人を介抱したのです。そうして、この人は傷つき倒れている人の隣人となったのですね。
聖書教育の小学科の頁に、「あなたの隣人とはだれか」ということについて大変わかりやす書かれていましたので、少しお読みしたいと思います。
「隣人とは誰でしょうか?私の隣にいる人のことではありません。では、隣の家に住んでいる人のことでしょうか?いつも遊んでいる友だちのことでしょうか?まだ会ったことのない、知らない人は隣人といえるでしょうか?(中略)サマリア人は、倒れていた人の知り合いではありませんでした。知らない人でしたが、倒れて苦しんでいる人を放っておけなく助けたのです。サマリア人は、この倒れた人の隣人となったのです。
隣人とは、この人と、決まっている人のことではありません。」
この解説のように、イエスさまはこの譬えをとおして、「隣人を枠づけるような消極的な世界観」と「自分が隣人となる積極的な世界観」との違いをお示しになられます。
イエスさまが譬えを終えられると、この律法の専門家に言われます。
「だれが追はぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
彼は「その人を助けた人です」と答えます。けれども彼は、「サマリア人」ですとは言わなかったのですね。
そこに彼の頑なさが読み取れますが。
イエスさまはそんな彼にさらに言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
このイエスさまの譬えは、「隣人になる」ことが、どういうことであるかを教え、そのことを実践するようにとの促しを与えています。
けれど、どうでしょう。それだけでしょうか。
この話を聞いて、じゃあ私も聖書に書かれているからそうしなければならないというように、サマリア人を模範として生きることが命じられているだけとして読むなら、それはこのお話が、もう一つの律法にならないでしょうか。
しかし、この今日の聖書のメッセージが私どもの心に深く、確かなものとして強響いてきますのは、この譬え話を語られたイエスさまによって、他ならないこの私が助けられているのだという救いの事実にあります。
険しい人生の道のり、予期せぬ出来事、傷つき、倒れ、孤独のうちに息も絶え絶えであったような私。近しい存在、友人知人にも見捨てられ、置去りにされたように思えていたあの時。私に近寄り、腸がちぎれんばかりの慈愛をもって起こし、聖霊の油とご自身の血汐の清めをもって徹底的に介抱して下さったイエスさま。この神の御独り子イエスさまが私の隣人となってくださった。その大いなる福音の喜びと感謝。実はここから、私たちも又、隣人となる力を頂くことがでるんですね。
この主なる神の愛に生かされて今週も、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
祈ります。
主なる神さま。私たち自身、主と出会う前迄は、息も絶え絶えの望みなく傷ついた者でした。主はそのような私を、ご自分までも腸がちぎれるような思いをもって、痛まれ、憐れまれ、近寄って助け起こし、その十字架の愛によっていやしと救いを与えて下さいました。今もそうです。主よ、あなたに感謝します。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めて下さるので、わたしたちも神から頂くこの慰めによってあらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。」アーメン。
この主の愛を携えて福音に生きるゆたかな日々を、今週もそれぞれに導いてください。
主の御名で祈ります。アーメン。