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主イエスの憐れみ

2019-02-03 18:16:50 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ7・11―17 

 

本日は主イエスが夫のない母親の息子を生き返らせた記事から、「主イエスの憐れみ」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

「死の現実」

弟子たちや大勢の群衆と共にイエスさまが、ナインという町に近づかれると、12節にありますように、「ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人々が大勢そばに付き添っていた」と記されています。

夫に先立たれ、さらに今一人の息子を失った女性。この女性の辛さは計り知れません。

悲しみで泣き崩れるその女性に町の人が大勢付き添っている光景は、死のもたらす破壊的な力とその現実を物語っています。

もう三年前からでしょうか。この大阪教会を会場に、沖縄バプテスト連盟の那覇バプテスト教会の大浜牧師らが中心となって毎年秋に「キリスト者自死遺族の会」がもたれています。神さまを信じて来たのになぜ?といった周囲の声にさらされながら、信仰者であるがゆえに、教会にも周囲にも公に出来ない苦しみと孤独にあるキリスト者である自死遺族。

そのような痛みを抱える方々が共にその思いを開示し合い、御言葉に聞き、執り成し祈り合う会がもたれておりますが。今日の聖書の箇所から「ナインの会」と名付けられたということです。どのような形であれ、死は信仰をもっている者であっても悲しく苦しいものに違いはありません。

なぜ、この世に死があるのか。なぜこのナインの女性が経験したような死による悲しみと苦しみがあるのでしょうか。

天地創造の神は、人間があらゆる幸いや楽しみを享受する存在としてお造りになられました。しかし人間に罪が入り込み、創造主である神の愛から離れてしまうとき、神との関係が断絶されることとなるのです。

ローマ623節にはこう記されています。

「罪が支払う報酬は死です。」すべての人は罪によって死のもとにおかれているのです。

又、ローマ書323節では、人は皆、その罪のゆえに「神の栄光を受けられなくなっている」とこう記されています。

神との関係が断たれていることそのものが罪の状態であり、死に捕えられているという、人間にとってそれがほんとうの恐ろしさなのでありますが。

ローマ623節の「罪の支払う報酬は死です」の後にはこう記されています。

「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

今日はこの御言葉の深みについて読み取っていきたいと思っております。

 

「主イエスの憐れみ」

さて、13節、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。」14節、「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。」このようにあります。

このイエスさまの「もう泣かなくてよい」というお言葉に対して、私たちがたとえば友人知人といった親しい人の葬儀に臨んだ時に、その大切な存在を失った遺族に対して、「もう泣かなくてよい」などという言葉をかけることなどできませんよね。

遺族の感情や思いを最大限重んじ、その悲しみにせいぜい寄り添うことが精いっぱいです。だれも残された者の悲しみや寂しいという自然の感情を抑えることはできません。それを「もう泣かなくてもよい」、なんてイエスさまは非礼、非常識なお方なのでしょうか。

否、いやそうでは決してありません。

ここにある「憐れに思い」というのは、単に可哀そうに思うとか同情するという私たち人間的な次元とは違います。

「憐れみ」原語:スプランクナは「内臓」を指す言葉で、腸が痛むほどの激しい心の動きを表すものです。

私たちもどうでしょうか。ほんとうに苦しく辛いことが突然わが身にふりかかってくると、おなかの調子が悪くなって痛くなったりしますよね。イエスさまはこの母親の悲しみを目にされたとき、まさに断腸の思というほどご自身が痛まれたのです。

このような深い慈愛によって、「もう泣かなくともよい」と言われたのです。

又、ここには「主は」言われたとありますが。福音書の中で、「主は」と記されているのは実に珍しいことであり、「彼は」とか、「イエスは」というのがほとんどなのですが。ここでは「イエスが主である」ことが強調されているのです。何よりもこの「主」とは、キュリオス;「救いの主」を意味するものです。

それは、私たちの罪の代償を払って死の滅びから贖い取って下さった主なのです。まさに、死を打ち破りよみがえられ、私たちに新しい復活の命をもたらして下さった、イエスこそ、罪と死を打ち破られた復活の主であられる。このことがここで言い表されているのです。

一人息子を亡くして悲しんでいた女性に対して、イエスさまだけが復活の主であられるからこそ、「もう悲しむことはない」と、そうおっしゃることがおできになるのです。

 

 

14節、「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」とあります。

旧約聖書律法の書の一つ民数記1911節以降に「死者の体に触れるものは汚れる」とありますが。棺というと箱型のものをイメージしますが。当時は担架のようなものに直接遺体が載せられていたようです。棺を担いでいる人たちは、律法を知っていたのでこのイエスさまの行為を見て、驚き、立ち止まったのでしょう。

 

そんな皆の驚きをよそに、イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われます。そこには主なるお方としての権威が顕われています。

 

旧約時代の預言者エリヤやエリシャも死人をよみがえらせたという記事があります。

彼らの場合、神に祈り願ってそのような業を起こされたのですが。しかしイエスさまの場合は、神の権威をもって「起きなさい」とお命じになり、死者を生き返らされたのです。

 

まあ、この記事の他にもルカの「ヤイロの娘」の死んでしまった少女も同様に「娘よ、起きなさい」とお命じになり、少女が死の床から起き上がったエピソードがあります。又、ヨハネ福音書には、洞穴の墓に葬られた青年に、「ラザロよ、出てきなさい」とお命じになると、ラザロは息を吹き返し墓から出て来たというエピソードがあります。

主は今日も変わることなくすべての人に神の権威をもって、「起きよ、滅びの墓から出てきなさい」と呼びかけておられるのです。

まあ、今日の息子も、ヤイロの娘や青年ラザロも又、その後にはこの地上を去ることになったでしょう。しかし、キリストにおける命はそこで終わらないのです。

主イエスによって創造主なる神との和解を得る者は、主イエスにある復活の命が約束されているのです。

 

「近づきたもう神」

罪と死の滅びから私たちを解き放ってくださった復活の主イエスは、今も世の死に向かう行列に相対するかたちで、近づいて来られます。

そして「もう泣かなくてよい」と言って近づき、絶望しかないような私たちの現実に手を触れてくださるのです。

 

今日のこのやもめであり一人息子を失った母親は、主イエスに懇願したり、求めるというようなことすらありませんでした。

否、それさえできない深い淵におかれていたのです。けれども、神の方から、主イエスの方から近づいて来て下さった。ここに救いがあります。

主イエスの権威ある御業の後、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。

遂に神の救いの恵みが到来したのです。

はじめに、「罪の支払う報酬は死である」とのローマ書の言葉を聞きました。罪と死の密接な力関係、それが人の滅びを招いているということであります。

どんなに罪と死から逃れようとしても人の力では決してそれをぬぐうことも逃れることもできません。

だからこそ、人には成しえない滅びと絶望からの脱却を、神が救いの恵みとして人類にお与え下さった。それこそ、神の御独り子・イエス・キリストです。十字架による罪の贖いの業と復活による永遠の命です。

主によって罪と死の縄目から解き放たれ、新しい命を得て、神との関係が回復されて生きる。ここにすでに永遠の命がございます。

もう泣かなくてよい」。死より「起きなさい」。これらのお言葉は、永遠の命の源であられる神にしかできない宣言です。

 

コリント一1554節以降には次のように記されています。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか・・・わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」

 

まず、私たちが、日々永遠のいのちに与って生きる喜びを確認し、日々新たな人とされて生きる。そしてその良き知らせ、福音を証し、伝え分かち合っていく者とされるべく、今週も今日の御言葉をもってここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。

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