日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の業は永遠に不変

2021-09-05 17:56:48 | メッセージ
礼拝宣教 コヘレトの言葉3章1-15節 

コロナ危機が長引く中ですが、本日はこうして先に天に召された会員、会友を偲びつつ、ご遺族、関係者と共に召天者記念礼拝を主にお捧げできます幸いを感謝いたします。私たちはここに信仰の先達を偲びつつ、その魂にとこしえの平安を与え給う主なる神を賛美します。そして、ご遺族のうえに神のお守りとお導きがこれからも豊かにありますようお祈り申しあげます。
先ほど、先に天に召された教会員、又会友のお名前が呼ばれました。
私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべてを治め、生ける命も、又召された命もすべてを司っておられます。人は罪のゆえに滅びるばかりでありましょうとも、神は深いご慈愛によって御ひとり子のイエス・キリストを世にお遣わしになられ、十字架の贖いの死によって罪の赦しを与え、さらにご復活を通して、主を信じる者を体のよみがえり、永遠の命に与らせて下さる全能の神を讃えます。ここに信仰の先達を偲びつつ、その大いなる望みを私たちも主なる神から戴いていることを確認したいと願います。

私事ですが、昨年9月17日母が83歳の生涯を終え、逝去しました。入所先の特養から母の容態が悪くなり病院に緊急搬送されたのですが、コロナ下のため面会は家族であっても許されません。結局亡くなる1時間前に北九州の病院から面会の許可がやっと出て、私は新大阪駅から新幹線に飛び乗るも、その十数分後に妹から電話があり、すでに母は亡くなっていました。妹も私も母の看取りは叶いませんでした。母はクリスチャンではありませんでしたが、ただ、生前母と万が一亡くなった時の葬儀について、キリスト教式で葬儀を行って送り出すことについて母と話しができ、妹の了解も得ていましたので、家族だけで母の葬儀を行い、昨年11月に納骨迄終えることができました。
クリスチャンではないのにキリスト教式ということに疑問を持たれる方もおられるかも知れませんが。大阪教会では主イエスを信じて天に召されました教会員とともに、そのご家族を会友として迎え、ご要望が生じた時には、全天全地を造られ、すべての命の源である天の神のもとに送り出しております。

この長引くコロナ下において、私と同じように家族の看取りさえも叶わない方々は大変多くおられるかと思います。感染対策ではあるのでしょうが、人と人のつながりが絶たれてしまうことも又、命に関わるほど深刻な問題であります。一日も早いコロナ危機の収束を願うとともに、今、この「時」をも司っておられる神とそのご慈愛を覚えつつ、人が人として生きるために大切な生ける神との霊的交わりが保たれますよう切に祈ります。

先に本日はコヘレト3章1~15節が読まれました。
このコヘレトの言葉は口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきましたが。70人訳ギリシャ語聖書では「呼び集める者の言葉」との意味をもった題となっています。それは主なる神を信じるユダヤの集会の中で読まれてきた書物であるということです。
主イエスがお生まれになるおよそ400年前、神に背き続けたユダヤの民は、大国によって南ユダとエルサレム神殿の崩壊、バビロンへの捕囚という辛い経験をいたします。その後、捕囚からの解放によりエルサレムへ帰還が叶った人たちは神殿の再建をいたします。他方、エルサレムに帰還できずに方々に離散した人々もおり、彼らはペルシャやその後のギリシャの文化や慣習の影響を受けていきます。ユダヤの民はそうした激動の時代の中で、それでも神の契約に与った「神の民」としての信仰を確認し、堅く保っていくのです。
このコヘレトはそうした中で1つの書物として編纂され、今日に至りますまで、「神に呼び集められた人々の集会」において読まれてきたのであります。私たちキリスト者も、キリストによって「神の民」とされた者として、その集会に連なり御言葉に耳を傾けている、ということであります。

ここの2~8節に書かれている様々な「時」については、その民が移りゆく時代の中で経験してきた「誕生と死、悲しみと喜び、嘆きと歓喜、愛と憎しみ、戦争と平和」といった人生の節目、節目の時であったのでしょう。これは又、私たちの人生、生涯、又日常の生活の出来事に当てはめて読む事もできるかと思います。私たちも又より幸せになりたい、よい生活をしていきたいと願うものであります。そのために労苦も努力もいたします。

コヘレトはそれに対して9節「人が労苦してみたところで何になろう」と問いかけます。
それは「いくら努力しても無駄だ」ということを言っているのではなく、この3章の終わりにありますように、すべては塵からなり、塵に帰るのだから自分の業によって楽しみを得よ、それが人間にふさわしい分であるというのです。もっとわかりやすいのは続く12-13節で「わたしは知った人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」コヘレトは言うのです。
けれどもその満足感はその時良ければよいという刹那的な考えで得られることではありません。すべては神の賜物であり、与え給う神を知ることなくして人は本当の満足感を得ることはできないのです。

戻りますが、10-11節「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」

人の世にあって時は移ろい、如何に時代は変りましても、天地万物を創造し、治めておられる主なる神が、そのすべてを時宜、神の時:カイロスにかなうように造り、被造物である人間に永遠を思う心を与えておられるのです。とこしえまでも統べ治め賜う神を仰ぎ見つつ、歩むものでありたいものですね。

コへレトは「人生を喜び楽しんで生涯を送ること」を肯定します。禁欲主義や道徳主義を説いていません。ただ大切なのは、その飲み食いや、自分の労苦によって満足することは神からの賜物であるとわきまえ知ることです。それを忘れて自分本位に生きるなら、それは虚しく、やがては枯れてしぼみ、朽ちてゆく草花のような人生となるでしょう。

さて、コヘレトは11節の人が「永遠」を思う心に続いて、14節でも「わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり付け加えることも除くことも許されない、と。」今度は「神の業の永遠とその不変性」を説きます。
時代や人の思いや考えは変わりゆくことがありましても、永遠に変わりなきこと、それは「神の業」なのであります。

コヘレトが人に訴えていますのは、すべてをお造りになり司っておられる神の存在と、その神を思わずして生きていこうとする人の生涯の虚しさであります。
14節「神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
私たち人間がいつ如何なる時にも、光を見出し、自分の生涯を真に価値あるものと認め得るには、「神を畏れ敬う」そこに尽きるのです。
コヘレト12章1節に「お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びがない』と言う年齢にならないうちに」とも記されています。

神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であると考え、片づけようとします。自分が今生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然です。その偶然には意味はありません。偶然には目的もないのです。意味のない人生、目的のない労苦……だからそれは空しいのです。
そこでコヘレトは伝えます。「すべてに時があるのだ」と。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であります。神が意図をもって定めた「時」、神が目的をもって定めた「時」がある。そこで神とその永遠を思い、どう生きうるか。だからこそ神を畏れ敬う人は祈り、務めるのです。
今日というこの日、私たちがこの礼拝に集いましたのも、こうしてコヘレトの言葉を聞いていますことも決して偶然ではなく、神の時、神の業であるのです。

最後の15節に「追いやられるものを、神は尋ね求められる」とあります。
今、世界はけんそうと混乱の渦中にありますが。ともすれば世の力に追いやられるような弱き存在である私たち人間を、初めであり終わりであられる主なる神は時空を超え、今も一人ひとりの魂を絶えず尋ね求めておられるのです。
このコヘレトの時代から永きを経て、神は全人類に向けた決定的な介入、カイロス、「神の時」をもたらされます。神はすべての人に救いが開かれるために御独り子イエス・キリストをお遣わしになられたのです。まさに神の義と愛による救いと裁きの「時は満ちた」のであります。それは人の姿となってお生まれくださった神の御子イエス・キリストの誕生の「時」であり、この地上における神の国の訪れの「時」でありました。イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪を贖い死なれた「時」。罪による死の滅びからの解放と神との和解という驚くばかりの祝福の道が拓かれました。さらに、神はその御子イエス・キリストを三日の後に死よりよみがえらせてくださることを通して、私たちにも神の永遠の命に生きる道を拓いてくださったのです。ここに信仰の先達を偲びつつ集いました私たちは、その大いなる復活の希望を戴いていることに心から、主に感謝いたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする