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枯れた骨の新生

2021-09-20 18:03:35 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル37章1~14節

 

本日は、「神の言葉と神の霊が吹き込まれ、枯れた骨が新しくよみがえる」というメッセージであります。

北イスラエルと南ユダの人びとは神の大いなる恵みと祝福を受けていたにも拘わらず、その恵みを軽んじ、数々の偶像にひれ伏すような生活を送ります。神のことばと戒めは実行されず、不正と搾取が横行し、弱い立場に置かれた人たちは顧みられることがありません。北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダもバビロンに征服されますが、それでもなお人びとは自己本位のままに生き、神に逆らい罪を犯し続け、挙句の果てには政治の混迷が強硬派の暴走を招いて、バビロンを刺激し、遂に最後の砦であったエルサレムと神の神殿は壊滅的に滅ぼされてしまいます。

この37章は、バビロンの捕囚となっていた預言者エゼキエルが、「主の霊」の導きによって示されたことが語られています。

彼は「ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった」とあります。彼が見たのは、谷に散乱した、到底数えきれない多くの枯れた人骨でした。それも「甚だしく枯れていた」とありますから、いのちのかけらも見いだせないほど悲惨な有様であったのでしょう。

まあ、普段の生活で人骨をそのまま見るということは特殊な場合を除いて、まずないでしょう。あるとしたら火葬場でしょうか。昨年の9月19日(本日)は母の葬儀と火葬が行われた日でありましたが。まあ、潤いなく乾き切ったかさかさの白い骨を見ますと、そこには「いのち」がないという事をはっきりと見せられているような気がします。

 

エゼキエルが見せられた枯れた骨は、戦いの果てに無残にも亡くなったイスラエルの人びとの骨のようにも思えます。

ところがそれは死者の骨ではなく、11節に「これらはイスラエルの全家である」と主がいわれるように、かろうじて生き残った人、捕囚となったいわばイスラエルの残れる民であったのです。

つまり、それらの枯れた骨は、イスラエルと神の神殿が崩壊してしまい、もはや自分たちの頼るべきもの、帰るべき地は無くなったのだ、と嘆き、絶望する外ない人々の有様であったのです。彼らは「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っているとありますように、神の御眼には、生きたしかばね、枯れた骨のようであったのです。

 

主なる神はその殺伐とした光景を前にしたエゼキエルに対して、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問いかけます。

彼はそこで「はい」とも「いいえ」とも答えません。彼は同胞の人たちの苦しみや絶望の深さをよく知っていましたから、人びとが再び希望を持って立ち上がれるかどうかなど、そんな簡単に「はい」「いいえ」と答えることなどできませんでした。人の力のもはや及ばない時、私たちは「神のみぞ知る」と、すべてを司っておられる神の御前に屈服する外ありません。

 

その答えを受けるように主なる神はエゼキエルに対して、「これらの骨に向かって預言するように」と言われます。預言とは神から預かった「御言葉」を伝えることでありますが。その「神のことば」は聖書の初めの書に記されていますように、天地創造の御業において万物は「神のことば」によって創られたのであります。そのダイナミックで爆発的な神の言葉を、枯れた骨に語れ、と主である神はエゼキエルにお命じになるのです。

 

エゼキエルは神が言われるとおりに、枯れた骨に「主の言葉」を語ります。

すると、「カタカタと音を立て、骨と骨が近づいた・・・骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」というのですね。まさに御言葉による神の万物創造の力が起こされていくことが示されるのです。

けれども、人のカタチはいくらできたとしても、「しかし、その中に霊はなかった」と主は言われます。それは肉のかたまりに過ぎません。「生ける屍」とはよく言ったものです。人は内なる霊が生きて働らいてこそ、本当の意味で「生きている」とは言えないのであります。

この「霊」はヘブライ語でルアッハと言います。これは創世記2章の天地創造の箇所で、人であるアダムが造られるときに、主なる神がアダムの鼻に命の「息」を吹き入れられたとありますが。この「息」は「霊」と同じルアッハです。

人間はこの神の息が吹き入れられて初めて、神との交わりのうちに真に生きる者とされるのであります。聖書は、人が神の息づかいを感じ、神との深い関係をもって生きる時、本当の意味で生きる者となる、と伝えているのです。

けれどもこのアダムはその後、神のお言葉に反して罪を犯してしまいます。エバと共にエデンの園を追われ、この世界において生きるための糧を探し求める苦労、子を産む苦しみ、又塵に帰るべき者となるのであります。我々人間はみなこのアダムやエバの苦労や死を負っている存在なのであります。

 

当時のイスラエルの人々の現実もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感にさいなまれていたのであります。それはもはや未来を思い描くことのできないいのちを失ったような状態でありました。

「神さまは我々を罪のためお見捨てになられた。神は去って行かれたのだ」。

その喪失感はあたかもエデンの園を追われた始めの人のようであったといえます。

このエゼキエルの時代から半世紀後、イスラエルの人々は、自分たちの力や働きによるのではなく、言わば奇跡ともいえる救いの出来事を経験いたします。考えてもいなかった捕囚からの解放、いくら願っても叶えられないと思っていたイスラエルの地への帰還が叶うのであります。

 

エゼキエルは主の預言の言葉をイスラエルの人々に12節以降にこう語っていました。

「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く」。

墓というのはバビロンの捕囚となり、枯れた骨のような彼ら有様です。

さらにこうも語っていました。「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

彼らがイスラエルの約束の地に再び足を踏み入れた時、主なる神こそが、これを実現されたのだ、と知るだろうということですね。

また、こうも語っていました。「霊を吹き込むと、お前たちは生き返る。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき(それが実現した時)、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」。

 

まさにこの預言が語られてからおよそ50年の時を経て、それは現実のものとなるのですね。

その約束の地に足を踏み入れたイスラエルの人びとは、そこで今一度エゼキエルの預言の言葉を聞いて思い起こした時、神の息がまさに彼らに入り彼らは新しくされるのです。そこから彼ら神の民としての復興の道が拓かれていくのであります。

 

彼らは心から悔い改め、真に神に立ち返ったでしょう。

先週の礼拝で藤木正三牧師の断想の言葉より「礼拝は自分の悲惨を認めしめられることを抜きにしては、ゆるされない。内を見つめて自分の悲惨から目をそらさないことなのです」とおっしゃった言葉を紹介しました。これを私的に言い換えますと、「神の前に到底立つに値しないという自覚」申しあげました。

そうして、イスラエルの民は「この救いの出来事は単なる偶然とは違う。唯主なる神の配剤と導きにであった」と、知るようになるのですね。

そうしてさらに10節にありますように、「彼らは生き返って自分の足で立つものとなり、彼らは非常に大きな集団(主の民)となっていく」のであります。

神の霊によって新しく生きる者とされた彼らは、まさに神の息づかいを感じつつ、そこから救い神への信仰復興と礼拝の回復、神殿再建の希望へ向かって歩み出すのですね。

 

私共にありましても、救いの神は聖書の御言葉を通して、たえず語りかけておられます。礼拝において、教会の兄弟姉妹との交わりにおいて、あるいは日毎において、聖書を読む中私たちに、主は語りかけて下さっています。それは、後になって振り返ってみると、人知では計り知れない、神のご計画があったことを知らされる時があります。

 

主イエスは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。又「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われます。 

「水」によってとは、罪の贖いのために成し遂げられた主イエスの十字架の死と復活に与るバプテスマであります。又、「霊」よってとは、神の霊、聖霊の注ぎによる新しいいのち、新生であります。その主イエスの死と復活に与り、聖霊の息吹によって神との交わりに生きる。そこにすでに神の国につながる永遠の命がございます。

主イエスによって、罪の滅びの枯骨が墓穴から救い出されて、日ごとに主の霊で満たして頂く新生の喜び。それは、どれほど大きな支えとなる貴い恵みでしょうか。

主はたとえ私たちが枯れた骨のような状態になったとしても私たちを決してお見捨てになられるお方ではありません。これが聖書の根底に流れるメッセージであります。その真実をお示しになるためにイエス・キリストは地上においでくださいました。

今も変わることなく、すべての人びとが神の霊によって新しく生れ変わるようにと、聖霊を送り続けていてくださっておられるのです。

聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を与えてくださいます。さらに聖霊は、教会の交わりに主の愛を注ぎ、一人ひとりの違いを豊かに活かし、「主が生きておられる」「主が共におられる」その体験の証しを立てさせてくださるのです。

今日の招きの御言葉のもと、主の霊によって共に建てあげられ、喜びと感謝をもってキリストの御救いがさらに証しされていくことを祈り、求めて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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