歳晩礼拝宣教 ヨハネ福音書1章29-34節
今日は2021年最後の主日礼拝として主の守りと導きを感謝しつつ、お捧げしています。
本日はヨハネ福音書1章29-34節より、「世の罪を取り除く神の小羊」と題し、御言葉に聞いていきます。
今日の前の所には、主イエスにバプテスマを施した洗礼者ヨハネの証言が記されております。そこでは、ヨハネがエルサレムのユダヤ人たちに遣わされたファリサイ派の人たちに、「あなたは、どなたですか」と尋ねられると、ヨハネは「わたしはメシア(救い主)ではない」と否定します。更に、彼らはヨハネに「あなたは、エリヤですか」「あの預言者(モーセのような)なのですか」と尋ねると、ヨハネは「そうではない」とこれも否定します。そこで彼らは、「それでは一体、あなたは自分を何だと言うのですか」と尋ねると、ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて答えます。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。「主の道をまっすぐにする」とは、社会と世にあって生きる者が、神の前で自らを正して生きる、といってよいでしょう。
それを聞いて彼らはヨハネに「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、バプテスマを授けるのですか」と尋ねると、ヨハネは「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と答えるのです。
このように、ヨハネは「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で呼ばわる「声」だと、自らの使命がそのお方を指し示す声に過ぎないことを告げ、「あなたがたの知らないメシアが、わたしの後から来る」と証言します。
その翌日のことです。ヨハネは、まさにそのメシアである主イエスが自分の方へ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と認めました。新約聖書ではヨハネ黙示録はじめ14回小羊という言葉が用いられていますが、それはいずれも「主イエス」を指しております。
主イエスがおいでになる以前の、つまり旧約聖書の出エジプト記12章で、囚われのエジプト脱出の夜、イスラエルの家々を守ったのは、綴られたとおり「ほふられた小羊の血をその家の鴨居に塗った」ことによって、死の使いがその家々を過越し、彼らは災いを免れたのです。イスラエルの人々を世の力と滅びから解放したのはその「小羊の血」でした。
洗礼者のヨハネは、祭司ザカリヤとその妻エリサベトの間に生まれ、恐らく毎日神殿で人々の罪をあがなうための、引いてこられて屠られる牛や羊とその祭儀によって、神のゆるしを得た人々の様子を見て育ったのでありましょう。
洗礼者のヨハネはこの主イエスこそ、そのような祭儀、つまり儀式に遙かに勝って、世のすべての人に解放と救いをもたらすために来られた「神の小羊」であると証言したのであります。しかしヨハネ自身はまだ知らなかったでしょう。一体どのようなかたちでその救いが実現されるかを。
旧約聖書において、罪に滅びるほかなかった民の救いのため自らをささげる「苦難の僕」を描いたイザヤ書53章には、多くの者の罪を背負ってほふり場に引かれていく「小羊」が描写されています。その12節に「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」とございます。そのお姿こそ正に、受難の道を歩んでくださったキリストそのものであります。人が何度犠牲の燔祭をささげようとも、人もこの世界も滅びに向かうほかない罪深いものであります。神の義と慈しみが世に示され、真実な悔い改めがすべての人にもたらされるために、神はその御独り子を世に遣わされる以外なかったのです。この主イエスが「神の小羊」として私たち人間の罪を自ら負い、肉を裂き、血を流し、死をもって、完全な贖罪、罪からの解放と救いをもたらしてくださった。いや今も十字架につけられ給いしままなるお姿としてもたらしてくださっているということであります。
洗礼者のヨハネは、「自分の方へイエスが来られるの見た」と29節にございますが。今日の礼拝の招詞として読まれましたイザヤ書62章11節の御言葉をもう一度お読みします。「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主にかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前に進む。」この「あなたの救いが進んで来る」。その生ける言なるキリストを彼は確かに見たのであります。
洗礼者ヨハネの証言は続きます。32節「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるためにわたしをお遣わしになった方が、霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によってバプテスマを授ける人である」とわたしに言われた。
主イエスが洗礼者ヨハネから水のバプテスマをお受けになる記述は他のマタイ、マルコ、ルカの福音書にもございます。それだけ重要であるということですね。
神の子である主イエスが、洗礼者ヨハネから水のバプテスマを受ける必要がなぜあるのか、という素朴な疑問を持たれる方もおられるでしょう。それはまず主イエス御自身が私たちと同じ人となられ、如何に神の前に生きるべきかを自ら示してくださったということです。先に申しましたように水のバプテスマは、神の御前に悔い改め、清めに与る中で、身を正して生きていく人の側の表明といえるでしょう。けれども主イエスはその水のバプテスマと同時に聖霊をお受けになられます。それは主イエスが聖霊によって世の人々にバプテスマを授けるお方であるということを表しています。そのことを洗礼者ヨハネ自身が知ることになるのです。(33節)
「人はだれでも水と霊によらなければ決して神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章)と主イエスはおっしゃいました。罪の赦しと聖霊のバプテスマをお授けになる主は、神の小羊として私たち人間の罪を贖いとるために十字架の苦難と死を自ら負って神の栄光を顕わされたのです。
ヨハネ福音書には「栄光」という言葉がよく出てまいりますが。先週の箇所にも「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とありました。それは世に言うところの繁栄や栄誉ではありません。
その栄光とはキリストの受難と死を通してすべての人に神の御救いがもたらされたことが「栄光」なのであります。
最後に、本日の箇所で洗礼者ヨハネが二度「わたしはこの方を知らなかった」(31節、33節)と繰り返していることについて、お話しをしたいと思います。
洗礼者のヨハネはイエスより半年先に生まれます。母マリアとエリサベトは親類であり、互いに胎に子を宿していた時も顔も会わせて互いに祝福を祈りました。その後もきっとヨハネとイエスは何らかの家族的な交流があったと想像されます。
ところがこのところで、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返して述べるのです。不思議に思いますが、それは人間的な付き合いによってヨハネはイエスのことをよく知っていたということはあると思うのですが。ここで言うところの知る、とはそういう次元のものではないのです。
ヨハネが本当にイエスさまがどういうお方であるのかということを実感したのは、まさにイエスさまが水でバプテスマを受けると同時に、天から鳩のように聖霊が降り、イエスさまの上にとどまるのを見たからであります。そこに圧倒的な神の臨在をヨハネ自身が体験したからであります。だからヨハネは「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証しした」(34節)のであります。
私は小学4年生の頃に、学校の友達に誘われて教会学校に通うようになりました。その時代の取り巻く環境から自分の心は結構すさみ、荒れ、どこか自分の居場所を探し求めていました。教会学校に毎週のように出席するようになり、中学生になると少年少女会に入り、同級の友だけでなく高校生のお兄さんやお姉さんたちとも交流する機会があり、教会のこと、信仰のこと、学校や友達のことなど語り合えたことが徐々に私のこころの居場となっていきました。そして私は高校1年のイースターの日に主イエスを信じて生きる信仰告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けたのです。
しかし、その後の青年期、さらに社会人になってからも人間関係や仕事の問題で悩むこともありました。が、不思議なんですがその時々に聖霊の導きとしかいうことのできない必要な助けと支えを戴いて、42年目の信仰生活、またこれも神さまの恵み以外何ものでもありませんが、牧師として31年目を迎えております。それは実に高校1年の時に私なりのわかった分だけのありのままの自分を神さまにゆだねて生きる決心をして、バプテスマの恵みに与ったこの出発点があったからだと思うのです。
もし主と出会ってなかったら、、、。キリストの御名のもとにバプテスマに与ることなく古い自分のまま生き続けていたなら、、、、。私の人生は暗闇の中にさまよい光を見出すことなく滅びに向っていたかも知れないでしょう。
けれども、ゆたかな聖霊の働きと主イエスにある兄弟姉妹の交わりと証しを通して、神が共におられることを私は経験してきたのです。だから私も又34節にありますように「この方こそ神の子であると証ししている」のです。新しい年もお一人お一人に与えられた救いの恵み、その人生に中で経験する神のお導きと御業が証しされていきますよう、祝福をお祈りします。今年もこうして主に守られて皆様と共に歳晩の礼拝をささげることができました幸いを主に感謝し、主を賛美します。