「私たちの間に宿られたキリスト」ヨハネ福音書1章1-5,14
「メリ―クリスマス」、救いの御子イエス・キリストのご降誕おめでとうございます。
クリスマスは毎年12月のこの時期に世界中でお祝いされるようになっています。呼び名をホーリーディ聖なる日として宗教を超えての祝日となっているようです。今日はそのクリスマスの本来の意味をヨハネ1章14節「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」という御言葉を軸に、聖書から聞きとっていきたいと思います。
1章1節の冒頭には、「初めに言があった」と記してありますが。これは有名な天地創造」の記事である創世記1章の「初めに、神は天地を創造された」という記述から始まる御言葉を想起させます。今日のヨハネ1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので言によらずになったものは何一つなかった」とあります。そのように神さまの創造の御業は、神ご自身が「光あれ」と宣言された御言葉によって始められ、世にあるすべてのものが造られたことを聖書は伝えるのです。
以前詩人の谷川俊太郎さんがある高校の生徒たちを対象に授業をなさったときの情景が新聞のコラムに掲載されていたのに目が留まりました。谷川さんが「言葉って、どこから出て来ると思う?」と生徒たちに問いかけます。「頭の中」かな、「心」かな、と首をひねる生徒たち。それ対して谷川さんは、「人は生まれてきたときには言葉を持っていない。周りの大人が使う言葉を学び、まねて、自分の言葉にしていく。実は言葉って、自分の外にあるものなんだ」とそう答えます。 私はそのやり取りに、なるほどなあ、と思いました。人は言葉を受け、それを蓄えて、自分の言葉となっていく。自分の外にある言葉と出会い、それに触れることを通して自分の内側が変えられ、自分が形成されていくものなのですね。まさに、人は自分の外にある言葉と出会い、それよって形づくられ、人間という存在となっていくのでしょう。聖書は神の言がすべての「命の源」であることを私たちに指し示し、そのいのちの言葉によって日々新たにされ、新しい人として生きるよう、私たちを招いているのです。
さて、1節に漢字の葉がついていない「言」が何度も繰り返して出てきます。この「言」とは原語でロゴスですが、英語訳の聖書では大文字で記されています。神御自身を表わすセオスと同様、大文字の表記となっているのです。
ですから「言」、ロゴスとは神と同格のものであることを示しているということであります。
創世記で「神が光あれ」と宣言すると、その「とおりになった」とありますが。その後に続く水、すべての創造の御業は、ロゴスなる「言」が発せられると、すべて実態をもった出来事となるのです。それは時満ちて新約という新しい時代の幕が開かれるまさにその時、ヨハネ1章14節に記されているとおり、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事として世に現れるのです。
おわかりのとおり、その「言」とは2節の初めから神と共におられたイエス・キリストを表します。神は御独り子、イエス・キリストをこの世界に生きる私たちの間にお遣わし下さったのであります。 それは、私たち世に生きる者が、生ける神の言であられるキリストによって、12節「神の子」とされ、「神の子」(12節)とされ、神によって「生まれる」(13節)、すななわち、新しい命に生きる者とされるためであります。
その生ける神の言であられるキリストは、14節「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」と伝えます。
この「宿る」という言葉には、テント(幕屋)を張るという意味があります。旧約聖書の出エジプトの時代、イスラエルの民はシナイの荒れ野の道を辿ることになります。その旅の途上、彼らは「テントを張って」神を礼拝したのです。それが聖所と呼ばれるものでした。彼らは荒れ野を行く先々で、神が自分たちのうちに住んでくださることを、テントを張って共に生活するなかで確認しつつ、荒れ野の旅を続けたのです。
イエス・キリストは私たち人間と同じ肉の体をとってこの世界に来てくださいました。そして、その生涯を通して苦しむ者、悩む者、世の権力に打ちひしがれて小さくされた者、弱っている者や病人、また罪人や汚れているとレッテルを貼られたような人たちを招き、交わりや食事を共にされました。こうして主イエスは喜びも悲しみも共に分かち合われました。
それはまさに、あのイザヤが預言した「暗闇に住む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」という神の国の到来であります。
そして神の義と愛が全世界に現わされるあの十字架の受難と死に至っては、人の罪を自ら負い、底知れぬ暗闇のどん底にまで下り、ご自身を与え尽くされるキリストとなられたのです。キリストは父の神のもとを離れ。私たちの間に宿られたのです。
先日、私も関わっております大阪キリスト教連合会の研修会、「聖書とコロナウイルス流行」と題し、神戸改革派神学校校長である吉田隆先生のご講演をお聞きしました。その模様はユーチューブでもご覧になることができます。
その中で私が特に心に残りました先生の言葉を少しだけご紹介したと思います。
「この1年半のコロナ危機の中で私たちは大きく2つのチャレンジを受けている。1つは外的なチャレンジ、教会が集まれなくなった。教会はエクレシア:集会という意味。それが集まれなくなったのに果たして教会といえるのかはありますが。それでもインターネットの普及で外的チャレンジには工夫して乗り越えられるかも知れない。けれども、それよりももっと深刻な問題は、私たちの内側に起こってきた内的なチャレンジということです。このコロナ危機の中で、教会も「命を守る」、特に弱さの中にあるお年寄りの命を守る、そういう思いから教会の集まりを制限することになったと思いますが。外出を自粛するということによって、実際にはお年寄りの方々の肉体的な衰えが進んでしまう。あるいは認知症が進んでしまうことが起こっています。毎週、教会の集まりによって健康を維持できた方々が出かけないことによって、衰えてしまう。また、この1年半の間に、家にいることで精神的疾患が進んだ方、心の病が深刻となってしまった方もおられます。ご存じのように自死なさる方の数も急増しております。ソーシャルデスタンスということが未だに言われますけれど、それを訳すと「社会的な距離をとりましょう」ということで、おかしなことです。距離をとらなければならないのは物理的距離であって、社会的距離は本来とってはいけないんだと思います。そう考えますと、私たちは「命を守る」ためにといって一体何を守っているんでしょうか?私たちは何の命を大切だと思っているのでしょうか?」
これは大変深い問いかけであります。私ごとで恐縮ですが、私の母は一昨年の9月に亡くなりました。特養で容体が悪くなり救急搬送され病院に入院するも、コロナ禍で家族でも面会ができず、看取ることもできませんでした。私のように最期のお別れさえできない方々もきっと多くおられることだと思います。
先ほど、14節の「言は肉となって、私たちの間に宿られた」、その言葉の深さをおぼえました。生ける言であられるキリストは、実にすべての創造主なる父の神のもとを「離れ」、神と人との途絶えた関係性を回復するために世に来きて下さったのです。それだけではありません、キリストは「私たちの間に宿られた」。それは人と人を隔て、分断と孤立を生じさせる隔ての壁を打ち破って、人と人とのいのちの交わりが回復するために、キリストはお出で下さり、今も私たちの間にお住まい下さっている。これがクリスマスの大いなる恵みなのであります。
14節「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
それは何か華々しい功績や働きの中に栄光を見たというのではなく、私たち人間の罪と弱さのただ中に跳びこまれ、どこまでも共におられるそのお方の中に、確かな神の栄光を見るのであります。
昨今の世界、国内においてもいたましい事件や災害が後を絶ちませんが。このクリスマスが、全世界で暗闇の中に輝く光を見出す新しい歩みの始まりとなっていきますことを祈りつつ、共にいましたもうキリストにあって、このクリスマスから歩み出してまいりましょう。
祈ります。
慈愛にとみ給う主なる神さま、今日このように救い主、イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスの礼拝に招いてくださり、ありがとうございます。「言は肉となって私たちの間に宿られた」。そのあなたの御言葉によって、私たちはあなたのゆたかな慈愛と恵みを今日新たにいたしました。特にコロナ下にあって、今も距離をとることさえできずに、日夜勤務されておられる医療従事者の方々や諸処の施設で勤務なさっておられる方々のうえに、あなたのお支えと顧みがございますようお願いいたします。また、病床の友や、このところに集まりたくても集まることができなかった友のうえにも、あなたの恵みと祝福とを与えてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。