礼拝宣教 マルコ14章27―42節 受難節(レント)Ⅲ
主のご受難を覚えるレントの時、御言葉に聞き、祈りつつ過ごしておりますが。コロナ、そして戦争、さらに17日には11年前の未曾有の大震災を思い起こさせるような大きな地震が2度も福島県沖を震源に起こりました。津波や大災害にはなりませんでしたが、被害が出ており、ライフラインの復旧がいまだ回復されていない状況であります。一日も早く平穏な生活が取り戻されますよう祈ります。同時に日々の備えを怠らないでいることの大切さを知らされます。
マルコ13章には、主イエスが終末の徴とメシヤの来臨について、「戦争の騒ぎや噂を聞いても、慌ててはいけない。まだ世の終わりではない。民は民に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」。さらに、「偽メシヤや偽預言者が現れる。だから、あなたがたは気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分らないからである」と告げておられます。目を覚まし、常に祈り続ける者でありたいと願います。
本日はマルコ14章の「ゲッセマネ」のエピソードから、「主イエスに祈られて」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は「最後の晩餐」の箇所を読みました。その際主イエスは、「弟子の一人がわたしを裏切ろうとしている」と指摘されたのですが。不安になった弟子たちは、「主よ、まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた」とありました。その一人とはイスカリオテのユダのことでしたが。本日はその続きになります。
オリーブ山に向け出発した道すがら、主イエスは弟子たちに言われます。
「あなたがたは皆わたしにつまずく」。つまり弟子たちは一人残らず皆主イエスを見捨てて逃げ去る、と予告されているのであります。
この主イエスのお言葉に、弟子の筆頭格シモン・ペトロがすぐに反応します。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」
するとイエスさまはペトロに言われます。
「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
それを聞いたペトロは力を込めて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったというのです。
主イエスの前で必死に忠誠心を表明しようとするペトロの姿が目に浮かんでくるようですが。
改めて気づいたのは、そのすぐ後に「皆の者も同じように言った」と記されていることです。
私はペテロだけがそのようにこぶしを握って離反を否定したのだと思い込んでいたのですが。 それはペトロだけではなく、他の弟子たちも皆同様であったのですね。
そうして、主イエスはこの弟子たちが皆、ご自分を置き去りにして逃げることを重々承知のうえで一緒に祈り場へと向かわれたのです。それは、オリーブ山のゲッセマネといわれる所でした。
ゲッセマネとは「油をしぼる所」という意味があるそうですが。
主イエスは、これからご自分が捕えられて裁きの場へ引き渡される、その十字架のご受難と死が迫り来くるのを感じながら、その身をよじり苦悶して、血の涙と汗をしぼり出すように「アッバ、父よ」と祈られます。
主イエスはそのようにひとりの生身の人間として、ご自身をさらけ出す祈りの場にペトロ及びゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人の弟子たちだけを伴われました。
そこで「主イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」と言われます。
そこまで、主イエスが「死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに吐露されるようなことが他にあったでしょうか。そのようなお姿を主イエスがお見せになるようなことはおそらくこれが初めてであったのではないでしょうか。
確かに、ユダヤの民の先行きを知り、エルサレムのために泣かれたこと、その他にもラザロの死に際してなど、激しく感情をあらわにされた記事はいくつかあります。しかしこのようにご自分の弱さまでもさらけ出して、「死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに一緒に目を覚ましていてほしいとまでおっしゃるのは、この場面だけです。
以前もお話ししましたが。ある方が以前おられた教会で、大変大きな問題を抱えておられた牧師さんが、数名だけの祈りの場で「私は苦しくて死にそう」とご自分の弱さを吐露された時、その方はその牧師に対してがっかりしたそうです。「牧師は宣教で祈りなさい。信仰、信仰と言っているのに、自分に災難が降りかかるとこんな事を言うなんて」と思ったそうです。
けれど、その後この方が今日の箇所のところを読まれて、イエスさまでさえ「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃられたことを知った時、牧師であっても一人の人間として弱さと苦悩をかかえたとき、一緒に祈ってほしいと願うのは当たり前だなぁと考え直したそうであります。
ヘブライ人への手紙4章15節(口語訳)には、「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについてわたしたちと同じように試練に遭われたのである」。5章7節にも、「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と記されています。
イエス・キリストは人の弱さを知るお方です。それもご自身の体験によって私たちの抱えている弱さや苦悩をも知っていてくださるお方であるのです。
だからこそ永遠の大祭司として私たちのために執り成し続けて下さるお方なのだ、私たちは確信を得ることが出来るのです。
ここに私たちの救いの確証があるのです。
さて、一方、主イエスに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われたペトロはじめヨハネ、ヤコブの愛弟子たちは、主イエスが戻って来ると眠っていました。
主イエスはペトロに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われます。
主イエスはさらに向こうに行って祈り戻ってご覧になると、やはり「弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったからである。彼らはイエスにどういえばいいのか、分からなかった」とあります。
弟子たちの思いとしてはもちろん目を覚ましていたかったでしょう。
しかし、その思いはあっても肉体が疲れ果てていた。ルカの福音書には「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。心や感情も含めての肉体であります。弟子たちはきっとその弱さゆえに弁明することができなかったのでしょう。
主イエスは3度目の祈り場に行かれて戻ってご覧になると、弟子たちはまた眠っていました。つまり弟子たちは主イエスさまが3度に亘って祈っている間、終始「眠っていた」ということであります。
それは他の弟子たちも同様であったでしょう。
そのような中で、主イエスは3度父なる神に祈られました。
その最初の祈りは、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」との祈りでした。そうして3度に亘って主イエスはこう祈られたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
「杯」とは、すべての人間の罪の裁きを一身に負う苦難を象徴するものです。
主イエスはできることなら、そのような苦難の道ではなく、他の救いの方法はないのでしょうかと、率直にご自分の願いを訴えて祈っておられるのです。
けれどもその直後に、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と神の御心を最優先なさるのです。
3度というのは3回という数というよりも、3は完全数を示すことから、主イエスはそこで完全に祈りきったという意味でありましょう。
こうして主イエスは祈りきって御心をお受けになったゆえに、「もうこれでいい。時は来た」とおっしゃるのであります。
方や、弟子たちが3度目も変わらず寝ているのを主はご覧になりますが、一切𠮟責なさいませんでした。
後に3度主イエスを知らないと言ってしまうようなペトロはじめ、離反してしまう弟子たちに対しても「もうこれでいい」と主は言われるのです。
主イエスは3度の祈りの中で、彼ら弟子たちの弱さをも、それはまた主におすがりするほか無い私たちの弱さをもその身に負って祈りきり、遂に父の神の御心に従順に従うことをお受けになった。だから、「もうこれでいい」、父の神の御心の「時が来た」と、弟子たちにおっしゃっているのですね。
心は燃えていても肉体は弱い。そのような私たちです。けれど主はその私たちのためにゲッセマネの祈りの闘いを祈り抜かれました。十字架の苦難と救いを全身全霊で祈り抜いてお受け下さった主の、そのお姿を心に刻み、御救いに心から感謝して恵みに応えてゆく私どもでありたいと願います。。
最後に、友人が作った新生讃美歌476の歌詞を読んで本日の宣教を閉じます。
「ゆるされて」
ゆるされて わたしは生(い)く 日々罪の身をキリストに
ゆるされて ゆるされて 憂いの時も 雄々しく行かん ゆるされて
愛されて わたしは生(い)く 値なき身も キリストに
愛されて 愛されて 試練の時も 喜び満つ 愛されて
祈られて わたしは生(い)く 弱きこの身も キリストに
祈られて 祈られて 闇行く時も 恐れはなし 祈られて
今週もここから、私たちの祈りの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。