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最後の晩餐への招き

2022-03-13 13:35:13 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ14章10-26節 レントⅡ

 

ご自分を殺害しようとする陰謀を察知された主イエスは、12弟子を集めてエルサレムにおいて最後の晩餐を行います。それは、ユダヤにおいては出エジプトを記念する「除酵祭」の初日、過ぎ越しの小羊をほふる日でした。モーセの時代イスラエルの民はエジプトで奴隷の状態でしたが、神は民の叫びをお聞きになった神は、エジプトに致命的な災いをもたらします。イスラエルの民は神の命じることに従い、ある夜、小羊をほふって各々の家の鴨居にその血を塗ってしるしとし、滅ぼすものがそれを過ぎ越すことで、民は滅びから救い出され、解放を受けるのであります。

「最後の晩餐」はレオナルド・ダビンチの有名な絵画でよく知られておりますが。

先週の祈祷会の聖書の学びの時に、ある方から、「ダビンチの最後の晩餐の絵には、その時テーブルの上に用意されたパンが酵母入りのふっくらとしているパンとして描かれている。イエスさまもユダヤ人だから、酵母の入っていない薄ペラの煎餅のようなパンを用いただろうに。ダビンチはどうしてそのようなパンを描いたのか」という問いかけがありました。この方は多くの美術館に足を運ばれ世界中の絵画をご覧になられているので、さすがに目の付け所が違うなと感心いたしましたが。言われてみれば確かにそうです。まあ、かのダビンチがどのように考えてそれを描いたかはわかりませんが。ダビンチが生きている時代はパンといえば酵母入りのふっくらしたパンでしたから、まあ一般にその方が分かりやすいということもあるかとは思いますが。ダビンチがユダヤにルーツをもつ人であったら、おそらく過ぎ越しの祭りに出される酵母を含まない煎餅のようなパンがその最後の晩餐の絵画に描かれていたことでしょう。

本日はこのところから、最後の晩餐への招きと題し、御言葉に聞いていきます。

 

私たちの教会で主の晩餐の時に用いているのは酵母入りのパンです。それも残念ながら衛生面から手で割いて配っていませんが。本来は主イエスが1つのパンを手で割いてお配りになられたのです。ぶどう酒も1つの鉢から共に飲んだのです。そこに主の晩餐の深い意味があるからです。

 

さて、本日の最初ところで、「12人の1人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(マルコ14:10-11)と記されています。

彼は12弟子の1人とまで選ばれながら、主イエスの裏切りを企てるのです。

 

実はその前のところには「一人の女性が主イエスに高価な香油を注ぐ」記事があります。そこにいた何人かが、「なぜ香油を無駄にしたのか」と憤慨したとありますが。ヨハネ福音書では、その弟子がイスカリオテのユダであったと記しています。そしてさらに、「ユダがそういったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12:6)と、記しています。

そしてこのユダは遂に主イエスの命を狙っていた祭司長たちに銀貨30枚と引き替えにして主イエスを売り渡すのです。聖書にはその動機については何も書かれていませんが、こうしてイスカリオテのユダは裏切り者、堕落した人間の代名詞とも言われるようになったわけです。少なくとも彼の行動は反面教師的な教訓を指し示しているように思えます。私共も「ユダにはなるまじ、ユダには」と忌み嫌うわけですが。ところがイエスさまはなんとこのユダを愛し抜かれたのです。

 

ヨハネの福音書では、この過越し祭の前に、主イエスが弟子たちの足を洗われる記事があるのですが。そこでヨハネは次のように伝えています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13:1)

この弟子たちの中にはイスカリオテのユダも含まれているのです。

主イエスは彼が御自分を裏切ることをご存じのうえで、この上なく愛し抜かれ、そのあかしとして彼の足をも洗われるのです。それは、このユダだけでなく他のすべての弟子も主イエスを否み、逃げ去るのです。主イエスがこの12人の弟子たち皆を最後まで愛しておられるのです。

 

さて、過越し祭の初日、弟子たちが、「過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」とイエスに尋ねます。すると主イエスは2人の弟子に、「都に行きなさい。ある家の主人に出会うのでこう言いなさい。『先生が弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています、とそう伝えるようにお命じになります。そして、続けて、2階を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」とおっしゃるのです。

「弟子たちと一緒に」又「わたしたちのために」というこれらのお言葉からも、やはり主イエスはすべての弟子たちに対する愛が伝わってくる思いが強くいたします。

主イエスはかたい決意をもってご自分を引き渡し、置き去りにするような12人の弟子たちと一緒に過越しの食事、つまり最後の晩餐に臨まれるのです。

 

そうして過ぎ越しの準備も整った食事の席の一同が食事をしているとき、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの1人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろう(売り渡す:岩波訳、引き渡す:新共同改定訳)としている。」(14:18)

それを聞いた他の弟子たちから、「それはだれですか」と尋ねられた主イエスは、「12人のうちの1人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と明らかにされます。

 

主イエスはユダの裏切りの企てをすでにご存じでした。であれば、彼を除いた11弟子だけで過越しの食事を行うこともできたはずです。しかしそうはされなかった。

主イエスのその言葉を聞いたイスカリオテのユダはきっと、「それをご存じなのに、なぜ自分を招かれたのか」と激しく動揺したのではないでしょうか。

 

一方、主イエスから裏切ろう(売り渡そう)とする者の告知を聞いた他の11弟子は、心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた」(14:19)とあります。

彼らは心を痛めました。もちろんそのような事があってはならないという思いがあったでしょう。又、一同の結束は固いと信じたかったのでしょう。けれど何より祭司長や律法学者らから命を狙われ、イエスさまが殺されるとかおっしゃる状況の中で不安があったのではないでしょうか、彼らも又、きっと動揺していたのですね。

しかし、ルカの福音書22章を読みますと、そういった弟子たちが、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに論じ始めた」と、犯人探しが起こったことも記されています。

でも、この時点で11人の弟子たちはいくら何でもイエスさまを売り渡したり、引き渡すようなことを自分たちは決してしはないと思っていたのではないでしょうか。

しかし主イエスは、暴力的な力によってご自身が捕えられていくときには、他の弟子たちも命が惜しくて逃げてしまうことを知っておられたのです。筆頭格弟子のシモン・ペトロも主イエスが捕らえられていく後を宮廷まで追っていきますが。そこにいた3人の人たちから主イエスとの関係を問われると、ペトロは「わたしはあの人を知らない」と、3度も否んでしまうのです。主イエスはそのペトロのことも知っておられたのです。

 

このようにすべてをご存じの主イエスは過越しの食事の中で、最後の晩餐としてこの12弟子と一緒に行われるのです。

 

そのところをもう一度読んでみたいと思います。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(22-24)

 

私たちが月に1度の第1主日礼拝の中で執り行っています聖礼典の一つ「主の晩餐」(聖餐式)は、この主イエスにおける新しい契約を繰り返し新しく更新していく思いで与っているわけですが。

その際、私たちの教会ではⅠコリント11章23節以降の主の晩餐の制定のお言葉を読んで主の新しい契約を確認しています。そこに、「あなたがたはこのパンを食べ、この杯を飲むごとに主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである」とあります。この主の死とは、十字架の救いの業のことです。

主イエスはわたしたちの罪のためにご自身のみ体を裂かれ、流されたその血潮をもって罪の滅びから私を、私たちを救って下さる。

その信仰の確認を主イエスは「私たちのために準備してくださった」のです。

 

本日の「最後の晩餐」において、主イエスは引き渡され、十字架刑によって処刑される暴力的な死を自らお引き受けになります。その苦しみと死は、唯、あなたがたを愛するためであると宣言なさるのです。

 

その晩餐の席には、イスカリオテのユダはじめ、主イエスを否むようなペトロ、恐れから逃げ出すような弱く、つまずきやすい弟子たちがいました。けれども主イエスはそんな弱さや罪深さを抱えている人たちを招かれました。いや、そんな彼ら、そんな私たちだからこそ主は招かれるのです。

 

キリスト者というのは何か世的に立派な人だとか。親切で信頼できる人だからキリスト者ということではありません。唯、この主の招きのもとにゆるされ、受け入れられ、生かされるほかない人、それがキリスト者であります。

このレント、受難節にあって、新たなる救いの契約を与え給う主イエスの愛の招きに応え、その恵みを分かち合って歩んでまいりましょう。

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