礼拝宣教 ダニエル12章1-13節
これまで礼拝で読んできましたダニエル書も本日で最終章となります。
今日は12章のダニエルの見た幻から「希望の道を行く」と題し、御言葉に聞いていきますが。
先日知り合いの方からショッキングなニュースを聞きました。その方は定期的にアメリカの牧師の方がたとZoomで対話と祈り合う時をもっておられるのですが。その方との先日のやりとりで中耳にしたのは、長いコロナ危機が続く中でアメリカの4,000ものキリスト教会が閉鎖されたということです。それはわかっているだけでもということですから、実際にはさらに多く、今保たれている教会も運営が困難な状況にさらされているところが多いということでした。
世界を見渡せば、近いところで中国、さらに香港。ミャンマー、タイ、インドネシアと、アジアだけでもキリスト者のみならず、神とその戒めを愛し、畏れ敬う人々への迫害や弾圧が起こり、それが今も続いています。ロシアでも神に忠実であろうとする教会や信徒は弾圧と迫害を受けておられるようです。
さて、これまで礼拝で読んできましたダニエル書も本日で最終章となります。
今日は12章のダニエルの見た幻から「希望の道を行く」と題し、御言葉に聞いていきますが。それは10章からが「ダニエルの黙示録」といわれていますように、「終わりの時についての幻」の記述であります。そこに示されたとおり、神さまを信じて生きるユダヤの人々は、ダニエルの時代後も、権力をもった国々の王の支配下におかれて翻弄され、厳しい迫害と苦難にさらされ続けます。
その中でこのダニエル書が編纂され、殊にこのダニエルの黙示は繰り返し読まれ、どんな時代においても「神の救いの民」として生きる希望を与え続けてきたのです。
今日はこのところから、私たちに語りかけられているメッセージを聞いていきたいと思います。
1節には、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と語られています。
ミカエルは7人の大天使長のうちの一人で、ユダヤの信仰の民を守る役割をもった天使であったのです。唯一の神に対して忠実に生きようと苦難をも受けとめたユダヤの人たち。その信仰の闘いの先には、「神の救いの完成が必ずもたらされる」という約束がここに宣言されているのです。それは私たちにとっても恵みの希望であります。
苦難はある。艱難は来る。信仰の闘いは神を信じる者すべてに起こって来ると。しかし、必ずやその信仰が報われる時が訪れると。それがダニエル書の希望のメッセージであります。
「希望」と申しますと、未だに見出すことの出来ないずっと先のことのように見えるかもしれません。けれどもその日、その時まで神はいらっしゃらないのか、どこか遠い天の上におられるのかといいますと、決してそうではありません。
5節の「川の両岸に立つ2人」とはダニエル同様、民の行く末を案じる預言者であり、6節の「川の流れに立つ、麻の衣を着た人」は、厳しい迫害の激流のような時代の上に立ち、神に忠実に生きようとしている人たちを見守り、「目を覚ましていなさい」と励まし続けておられるのです。その姿は、先の10章5節に「麻の衣に純金の帯を腰に締め、体は宝石のよう、顔は稲妻、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう。話す声は大群衆の声のようであった」とありまように。それは正に私共にとりましては、ヨハネ黙示録の1章に記された、天上におられるキリストのお姿であります。このお方が、ユダヤの民のみならず、主を信じ救われた私共とともにおられるのです。
2-3節には、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」と記されていますが。
ここではまさに、死者の復活が語られています。それは永遠の生命に入る者だけではなく、永久に続く恥と憎悪の的となるような者も地の塵から目覚めるというのです。
だれもがこの世の人生をどう生きたかが、すべて主なるお方から問われる日が来るのです。そこですべてのことが明らかになり、遂に裁きの座に着くべき時が来るのです。
主イエスは、それがあたかも羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、その時にはそれぞれの業が明るみにされ、主の御心に生きた者たちは永遠の命に与り、不義の者たちは永遠の罰を受ける事になるとおっしゃいました。(マタイ25:31-46)
日本でも死んだ後の世界のことを極楽と地獄といったり、天国と地獄とかいうわけですが。
それは何かきらきら光あふれる処であったり、真っ暗闇で鉄の棒をもった鬼に苦しめられる所であるのでしょうか。昔から絵に描かれているそんな様子を想像する人も多いかも知れません。
しかし聖書は大変明確です。前者は、主なる神さまとの永遠の交わりに入れられる。そして後者は神さまとの交わりが永久に絶たれてしまうとのことです。一言でいえば、神と共にある世界か、神なき世界かです。聖書は人間にとって本当の地獄とは、真の神さまとの関係、交わりが断絶した状態のことなのです。それは罪の支配による滅びです。
交わりと言えば、先の羊と山羊に分けられるという主イエスのお話も、神さまの愛の中でどのように自分を愛するように他者と関わったか、逆にそれに無関心であったか。そのところが問われていますが。来たるべき日に、愛する神さまの御許にあって主にある姉妹兄弟との再会を喜び、共に主の御顔を拝し、賛美できるなら、それはまさしく神の国、天国の祝宴の日でありましょう。
さて、7節「川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、永遠に生きる方によってこう誓うのが聞こえた。『一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する』」この一時期とは1年、二時期とは2年。半時期とは半年のことで、合計3年半の時が経ってという意味のようです。
これを見たダニエルは不安になり、「主よ、これらの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねます。そりゃあそうでしょう。聖なる民の力が全く打ち砕かれると聞かされたのですから。
ダニエルはずっとユダヤの民の背きの罪を自らのことと悔い改め、涙ながらにとりなし祈っていたのです。
すると、麻の衣を着た人が、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている」と告げるのです。口語訳聖書には、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」と訳されています。
先行きが見えず神さまのご計画も御心もわからなくなってしまうような時代の中でも、揺るぎなく「あなたの道を行きなさい」と主はダニエル書を通して奨められるのです
このダニエル書が編纂されてから約150年後に、神の御子、イエス・キリストが全世界の救い主として世にお出でくださいました。
私たち主イエス・キリストを救い主と信じる者は、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃるキリストの「希望の道」、そして何よりも「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(同個所)という「信仰の道」を歩み通して来るべき日に至るようにと、日々招かれているのです。
私たちたちも同様に、この混沌とした時代の中で社会はどうなっていくのか不安にかられ、
先の結果を知りたいという思いが湧きおこって来ることがあるでしょう。
しかし、先の御言葉通り終りの時まで、神さまは共におられ、来たるべき時に顔と顔を会わせる日が訪れる希望のいただいているのです。私たちは現に今、生ける主の御救いのうちにおかれているのです。私どもに与えられた救いの道において、たとえそこに茨が生えていようが、砂利道であろうが、でこぼこ道であろうが、生ける神さまが共にいて下さるという恵みと感謝を忘れることなく、歩む者でありたいと願うのです。
繰り返すようですが、コロナ危機、戦争、多くの国々の民主的社会の崩壊、地球温暖化による異常気象、環境破壊、地殻変動、今も超大型の台風が差し迫っておりますが。こんなことがのべつまもなく続いており、私たちもダニエル同様「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と問いかけるものでありますが。
それに対して主は、「多くの者は清められ、白くされ、練られる」とお答えになります。
私たちの信仰は何か心地良く順調に事が進むような時よりも、むしろ逆境の中で問われ、試されていく中で、主に祈り求め、御言葉を自分に語りかけられたものとして受け取り、真に主にのみ依り頼んで行く信仰へと、清くされ、白くされ、練られていくのです。そうして立て上げられ、目覚める者、目を覚ましている者とされていくのです。
ヘブライ人への手紙12章に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます」と記されていますように、主は私たちが救いの子として神の国にふさわしい者となるよう取り扱っておられるのです。
使徒パウロは又、「艱難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むということをわたしたちは知っています」(ローマ5章)と記していますが。
主なる神さまは愛する子としてわたしたちを鍛錬し、私たちがあらゆる状況の中で、神さまへの信頼において、確かな、ゆらぐことのない希望に満ち溢れた者へと立て上げてくださるのです。
そうして13節の最後には、「終わりの日まで自分の道を行き、歩み通して憩いに入るようになさいりなさい」と、ダニエルにお告げになります。さらに、「時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」とおっしゃるのです。この立ち上がるというのは、復活を意味しています。
ダニエルは困難な時代を生きましたが。どのような時代にも終りが必ず来ることを神さまはダニエルに告げました。時の王たちが、如何に力を誇示しようとも、彼らも又、神の下では一人の人間にすぎません。地上における時の終わりの時に、生きている者、死んだ者のすべては、主の御前に立たされることになります。
今日という日、その一日一日が主の御前おかれていることをわきまえ知り、御心に沿った歩みがなされていくようにと願うものです。なぜなら、今私たちは世界の救い主としてお出で下さった主イエス・キリストによって与えられた復活のいのち、永遠のいのちのうちに生かされているのですから。
もう一度、主イエスのお言葉を味わってみましょう。ヨハネ14:6-7をお読みします。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
そこに決して朽ちることのない真の希望の道があります。そのあなたの「希望の道を行く」者とされてまいりましょう。