礼拝宣教 ダニエル3章13-30節 召天者記念
本日はダニエル書3章から「生ける神にのみ仕える」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。先々週から読み始めましたこのダニエル書は世界史にもありますバビロン帝国が栄えた時代の出来事が素材になっておりますが、実際はその約400年後の紀元前2世紀頃、シリアがユダヤを支配し、ギリシャの同化政策と激しい迫害にユダヤの人々がさらされていった時代に、このダニエル書が編纂されていくのです。
先々週の1章にありましたように、南ユダ王国が壊滅的状況とされ、異教の地バビロンの捕囚となったユダヤの人びとでありましたが。その中でダニエルら4人の若者は宮廷に召し上げられ、王に仕えるための養成を受けます。それが2章にありましたように、ある時、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を解き明かしたことで、ダニエルは高い位につき、本日のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロンの行政官に任命されます。
ところが、ここは異教の地であります。王は夢を解き明かしてもらい、神を畏れ敬ったにも拘わらず、自分を神のように崇めさせようと、高さ60アンマ、1アンマが約40センチですので24メートルの巨大な金の像を造り、王は諸国、諸族、諸言語の人々に、これに「ひれ伏して拝まないなら、燃え盛る炉の中に投げ込む」と力を込めて叫んだというのです。まあ奈良の大仏の全長が15メートルですので、それよりもさらに10メートル近く高い金の像ということになります。それで、「人々は皆ひれ伏し、ネブカドネツァルの王の建てた金の像を拝んだ」のであります。(3:1-7)
この時、何人かのカルデヤ人の役人たちがユダヤ人を中傷しようと進み出て、王に「バビロン州の行政官をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴらが、王の御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません」と訴えます。(3:8-12)
カルデヤ人らは、捕囚の民である彼らが自分たちの行政官であることをうとましく思っていたのでしょう。それを聞いた王は怒りに燃え、その3人を自分のもとに連れてこさせて、「わたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か・・・・今ひれ伏し、わたしが建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と、3人を詰問します。
それに対して3人は、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」と答えます。彼らの態度は断固たるものでした。如何なる地上の権力者の前であろうとも、彼らの立ち処は変わりません。それは神への揺るぎなき信仰の確信から発せられたものでした。天地万物の創造主であり、救いの主であり、神の民としてくださる神を彼らは愛し、畏れ敬っていたのです。その確信は彼らを生かす存在の根幹とも言えるものでした。ですから、そのような神でないものを神として崇拝することができません。いつの時代も、そして現代も世界のいたるところで権力と宗教とがもたれ合いながら強権政治をなし、市民の命の尊厳が踏みにじられていく事象が起こっております。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、異教の地バビロンにおいて王に対して敬意をもって忠実に仕えてはいても、そのように「神でないものを神のように崇拝する」ことに対してはきっぱりと拒否します。日本でもかつて、かの内村鑑三をはじめ、有名無名に関わらず、このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴたちのように権力に屈することなく、ただ主なる神、自らの救いの神のみを拝していった信仰の先達がいらしたことを覚えるものでありますが。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の前で、17節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と、彼らが信じている神への信仰の宣言をいたします。
加えて彼らはこうも言います。18節「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
まあここの「そうでなくとも」と言うのを聞きますと、先の「必ず救ってくださる」と述べた言葉と矛盾しているように思えるかも知れません。「何だ、必ずと言っておきながら、そうでなくとも」というのは曖昧だと。ただ、ここで彼らが「そうでなくても」と言ったのは、単に、何かうまくいかなかった時の逃げ口上としてではなく、たとえ自分の考えどおりでなかったとしても、「主はすべてをご存じであられ、共にいてくださる」という、これもまた彼らの信仰の表明なのです。
先に触れました通り、ダニエルらの時代、さらに彼らのエピソードがダニエル書として編纂されていった時代も又、激しい迫害下にユダヤの人びとはおかれていました。誠実に神を畏れ敬う人たち、又真理を心から愛する人たちは、いつの時代も煙に巻かれ、うとまれ、時に迫害のうめきに遭ってきたのです。
さて、ネブカドネツァル王は彼ら3人の言葉を聞くや、「血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じ」ます。
王は兵士の中でも特に強い者に命じて彼ら3人を縛り上げ、燃え盛る炉の中に投げ込ませました。
すると、彼ら3人を引いていったその屈強な男たちさえその吹き出る炎が焼き殺します。しかし、神を愛し畏れ敬う彼らには燃え移りません。
こうして「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った」のでありますが。「間もなく・・王は驚きの色をみせ」ます。
その「間もなく」の間に何が起こっていたのか。それについて旧約聖書続編「ダニエル書補遺・アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」の中に、彼ら3人の若者は神をたたえ、主を賛美しつつ、炎の中を歩んでいた。そしてアベド・ネゴことユダヤ名のアザルヤは立ち止まり、火の中で、口を開いて祈ったとあり、次のように記されています。
「あなたは、お造りになったすべてのものに対し正しくあられ、その御業はすべて真、あなたの道は直く、その裁きはすべて正しいのです。」(同4)又「あなたが主、唯一の神であり、全世界で栄光に輝く方であることを彼らに悟らせてください。」(22)まさにその祈りは聞かれるのであります。アザルヤ、今日のところではアベド・ネゴが祈り終えた時、「主の使いが炉の中の3人たちのもとに降り、炉から炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった」と、記されいます。(同26-27)
その光景を目の当たりにしたネブカドネツァル王は、燃え盛る炉の口に自ら近づいて、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出てきなさい」(3:26)と呼びかけました。
すると3人が炉の中から出てきますが、全くの無傷であったというのです。
王は28節「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちに、神は御使いを送って救われた」と言うのです。
ところが、王はほんとうに生ける神に出会ったわけではありませんでした。この後、王は夢で、主なる神こそすべてを統治されるお方であられることを示されるのありますが。
そうして、3章の終りには王の次のような言葉が記されています。
「わたしは命令する。いかなる国、民族、言語を属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きされ、その家は破壊される。」(29節)
それは一見、神を認め賛美しているようにも思えますが。その実、権力と暴力による思想信条の強制に外なりませんでした。王は排他的迫害を繰りかえそうとしているのです。
バビロンの王は金の像を打ち立て、侵略していった国々をより強固で団結力のある一つの国家としてつくりあげようとしていました。それをもって優秀なユダヤ人たちを同化させ、その信仰をも簡単に変えることができると高を括っていたのでしょう。けれども、エルサレムの神殿崩壊とバビロン捕囚下において、ユダヤの民は主なる神の御前にあって心打ち砕かれ、真に悔い改め、その信仰はより堅固なものとされていきました。 後も、燃え盛る炉のような迫害の時代においても、共におられる神さまに守られつつ、銀が火で精錬されるようにその信仰は練り清められていくのです。
本日は召天者記念礼拝として、天の神さまの御もとに帰って行かれた主にある兄弟姉妹を偲びつつ、生ける主に礼拝をお捧げしています。信仰の先達はいかなる苦難や試練の中にありましても、生ける真の神さまが共におられ、導いてくださるというその「信仰」と「希望」と「愛」のうちに歩み通されて、今や主の御もとにおける平安に与っておられることでしょう。今を生きる私たちも又、この「生ける神にのみ仕える」確かな信仰の生涯を歩みゆく者でありたいと願います。