本日の宣教 ルカ5・17~26
本を読んでいたら、このような逸話がありました。
「あるところに井戸を上手に掘ることで知られた人がいまして、他人が失敗したところでも、彼は必ず井戸を掘り当てるというのです。人々は彼の力を不思議に思いました。誰かがある日、その人に尋ねました。「あなたはどうしてそのように上手に井戸を掘ることができるのですか」。その時彼はこのように答えたそうです。「私は他人が失敗したところへよく呼ばれていきます。私が井戸を掘る秘訣はただ一つです。他人は水が出そうな所を選び、掘っているうちに水が出ないとあきらめますが、私はどこまでも、水が出るまで掘り続けます。」
どうでしょうか。あきらめないで愚直なまでに一つのことを貫いていく人が、恵みの水脈に到達できるのです。
これは私たちの神への期待や祈り、行動にも通じます。ある目的のために祈るということを私どもはいたします。しかしその答えが得られないうちから、もう祈るのをやめてしまうことはないでしょうか。多くの場合、最後まで、あきらめずに祈っていないということがあります。
それを神との関係性、人との関係性から考えていきたいと思います。
本日は一人の人の存在が輝きを取り戻すために、一見非常識ともいえる行動をとった人たちの物語です。
「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」とあります。
当時のパレスチナ地方の一般的な家の屋根は、糸杉やレバノン杉で骨組みを作り、その上に藁や草を詰め込んで、仕上げにこねた泥で覆ったそうです。 ですから比較的簡単にはがすことができたのです。
又、その屋根は季節ごと手入れがなされるために家には屋根に上る階段があったそうで、まあ簡単に上れたということです。
この中風の人については、彼を運んで来た男たちとどういう関係であったのか何も記されていませんのでわかりませんが。いずれにしても彼らはその中風の人がいやされることを我が事として切に願い、何がなんでもあのイエスさまのもとへ連れて行こうという固い意志があったのです。
だから突拍子もない無鉄砲ともいえるような手を使っても、それを果たそうとするわけであります。
人の家の屋根によじ登り、それをはがして大穴をあけ、横たわった病人を床ごとつり降ろし、イエスさまの反応をその大穴から覗き込む男たち。ボロボロと落ちてくる屋根の土をあびながらあっけにとられている群衆。何とも言えない光景です。
とにかく男たちは、「何が何でもイエスさまのもとに連れていくぞ!行きさえすればどうにかなる。イエスさまなら何らかの形で答えてくださる」と、その期待と強い意志、祈りがあった。だからこそ彼らは、他人の家の屋根をはがすことで当然受けるべき非難や代償もいとわず、それを行動に移したのでしょう。
男たちのしたことは現代であれば器物損壊・家宅侵入の犯罪に値するものです。
それは人から非難されても仕方ない非常識な行動です。
ところが20節にあるように、イエスさまは、それを「その人たちの信仰」と見なされたというのです。
「イエスさまはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』とおっしゃるのです。それは原文で、「あなたの罪はもう赦されている」となっています。たった今そうなったのではなく、「もう罪は赦されている」。
中風の人、又彼のことが我が事のように思い、とりなし祈り、あきらめないで担架に運んでイエスさまのもとに連れてきた人たちの主にある交わりを彼らの信仰と見なし、主イエスは、「もう罪は赦されている」と、おっしゃるのです。これらの人びとはどれほど安堵したことでしょう。
ところが、そこにいた「律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた」というのです。彼らはイエスさまが中風の人に罪の赦しを宣言したことに動揺しました。
そして、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と、イエスさまを非難しました。
彼らは旧約の律法をただ杓子定規に当てはめて考えることしかできなかったのです。
厳格なユダヤ教の教えでは、人が自らを神のように振る舞ったり、又人を神のように崇めたりすることを、神に対する冒涜と見なしていたからです。又、罪の清めに関して判断を下すのは祭司の務めであったことから、「あなたの罪は赦されている」と宣言したイエスは自らの立場をわきまえない者だと思ったのです。
本来、ユダヤの律法とは、神がご自身の民に祝福の道を歩むために与えられた戒めや教えでありました。その本質は神の恵みといつくしみ。愛です。それがいつしか本来の意味合いを損なうほど、いくつもの細かな決り事や社会規範、そして罰則規定となり、悪しき差別や排除をうみだす社会となっていくのです。
一部の律法学者やファリサイ派の人たちは律法の知識を誇ることによって特権意識を持ち、律法を守ることが困難であった病人、障がいを抱えている人、又、律法を持たないユダヤ人以外の異邦人を罪人として見下し、蔑視していたのです。
本来なら偏り見ることなく、むしろそういった立場におかれた人に救済を与えるための知識であるのに、隔ての壁を作っていたのです。
彼らの立場からすれば、律法の専門家でもない一般人のイエスが中風の病人に、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言なさったことは、決して許されることではなかったのです。そして彼ら自身はイエスさまのように関わろうとはしなかったのです。
彼らは、「ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言うのですが。
そもそも、イエスさまがおっしゃった罪と、この律法学者たちが考える「罪」とでは、その捉え方が異なっているのです。
律法学者やファリサイ派の人たちの問題とする「罪」は、律法の規定違反ないし、守れない事を罪としているのに対し、イエスさまがおっしゃった「罪」とは、神と人、人と人の関係性が破れ、断たれていることを示しているのです。これじゃ食い違いますね。
神を愛し、隣人を我が事のように大切な存在としていく。そこに律法の本質、精神があります。
この律法学者やファリサイ派の人々は神との関係性を自認しながら、その神の愛といつくしみを持つことなく、人を分け隔てしていた。そのところに、「あなたの神との関係性は本物か」ということが、問われているのです。
さて、ここでイエスさまが宣言なさった、「罪の赦し」とはどういう事なのでしょうか。
それは、イエスさまの地上におけるご生涯(福音書)をたどって見ますと。
まずイエスさまが神の国の福音を伝え始められたとき、ユダヤの会堂に入って開かれたイザヤの書から、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(イザヤ書61:1-2)を引用して読まれた後で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、大胆にもおっしゃったのです。
この「捕らわれからの解放」の宣言こそが、まさに福音の始まりなのです。
そこからイエスさまのガリラヤからの伝道が始まります。イエスさまはユダヤの社会において差別され、排除されていた病人、悪霊に取り憑かれている人、貧しい立場におかれていた寡婦や生活困窮者、又徴税人、罪人と言われていた人たちと出会われ、病人をいやし、悪霊を追いだし、神の国の訪れを宣べ伝えていかれるのであります。
そしてその最期には、神と人、人と人の破れ、断たれたその関係性、それがまさに「罪」ですが。その関係性を回復するために十字架におかかりになるのです。
本日の5章24節で、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とありますが。それはまさに、イエスさまが地上における様々な人と出会い、関わり、共に生きてくださった歩みを通して証明されているのです。それは世の至るところで神と人、人と人の関係性の破れと断絶が回復されていくために、罪のないイエスさま自ら十字架にかかげられる事を通して、神の義と愛、律法の本質を顕されたのです。
イエスさまが、「罪を赦す権威をもっておられる」と言われるのは、まさしく神と人、人と人との破れ、断たれたその関係を身をもって回復してくださるお方であることが示されているのです。
さて、今日の所で興味深いのは、イエスさまが中風の人に対して、あなたの身体はいやされると言うのではなく、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言なさったことです。
誰が見ても病人にとってまず必要なのは、目に見えるかたちでの回復、いやしであるのに、イエスさまは、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言なさったのです。
その様子を怪訝な思いで見ていた律法学者たちにイエスさまは、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問いかけます。
皆さんはどうお思いになりますか?
身体的にいやされて歩ける方が目に見えてはっきりしています。
けれども、「罪が赦される」ということは、目に見えるものではないですよね。まあ世の中にはまか不思議な奇跡的出来事はわりとあるものですが。それがその人にとって本質的ないやし、回復になるとは限りません。「罪が赦される」ということは全人的な解放を表す信仰の出来事なのであります。
たとえ病気が治っても、罪、すなわち神さまとの関係性、人と人との関係性が損なわれたままであるのなら、全人的な回復を得ることにはならないのです。
この中風の人は、幾人かの男たちに担がれて主イエスの前に吊り降ろされますが。その心中はどうだったことでしょう。
彼はこれまで社会通念として、「身体に障害を持つ者には罪がある」「それは神の罰や裁き」といった人びとの声に肩身の狭い思いをし、さらに不自由にされ、自分を責め、悩み苦しんできたのではないかと想像します。
それは今日の時代においても、あの人がこうなったのは罪深いから。自分がこうなったのは何らかの因縁、あのことによって神の呪いと罰を受けているのかなどと考えると、神の御顔は怖く、厳しく、怒りに満ちた裁きの姿かも知れません。
肉体的な病気の苦痛だけでなく、何とも言い表わすことのできない重い精神的な苦痛にさいなまれるのではないでしょうか。
しかし今日の聖書のエピソードは、彼の周囲には彼のことをいつも気にかけ見守り、神にとりなし、祈りに覚えていた人たちがいたことです。その男たち数人が彼を担架ごとイエスさまのもとに運んで行くのです。
彼一人では取り戻すことが出来なかった罪からの解放が、幾人かの彼のことをおもんばかっていた人たちの、何とか主イエスのもとへというあきらめない強い意志とその交わりを通してもたらされるのです。、
罪からの解放。それは神と人、人と人との関係性の回復です。
今日の聖書の物語は、イエスさまをとり囲むようにして、そこに集まった群衆、中風の人、彼を担いで運んだ4人の人たち、又律法学者たちが登場します。
今もし、私がそこにいるとしたなら、果たして私はどこにいるだろうか。想像してみましょう。
全人的いやしを求め、信仰の友を必要としている人かもしれません。あるいは身近な人の救いや問題を自らの事として執り成し、祈る人かも知れません。はたまた主の教えとみ業に何らかの希望を見出そうと集る群衆の一人かも知れません。
律法学者やファリサイ派の人たちのように、自らも気づかぬうちにこだわりや、自分の思いに縛られがんじがらめになって真の解放を必要としている人かも知れません。
人はその置かれた状況に影響されるということは確かにあると思います。しかし、この中風の人を担架に担いでイエスさまのもとに連れていった人たちの、あきらめないその意志と希望は、決して環境や状況の変化に左右されるものではありませんでした。
今日私たちにも、その意志と希望を神に願い求めたいと思います。私たちもそのような一人になっていきたいと願います。
本日のみ言葉から聞こえてくるのは、「あなたは誰と一緒に、主の救いとその恵みを分かち合いたいですか」という問いかけであり、それはまた、「あなたは誰と一緒に礼拝し、賛美したいですか」という問いかけであります。
イエスさまに倣い生きる者とされていきましょう。祈ります。
