日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の家からスタート

2023-01-01 13:41:42 | メッセージ
元旦礼拝宣教 ルカ2章41-52節 

主の年2023を迎え、お慶び申しあげます。今年は元旦が主の日となり、特別な思いでこの礼拝をお捧げしております。こうして生ける神をあがめる兄姉と共に、この一年の歩みに備えて臨めます幸いを感謝します。
今年も皆さまお一人おひとり、そして大阪教会にとりましても、救いのみ業がおこされ、主の栄光が顕される1年となりますよう、お祈りいたします。

本日は元旦礼拝にあたり、12歳になられたイエスさまのエピソードの記事が読まれました。今日はこのところから、「神の家からのスタート」と題し、御言葉を聞いてまいりたいと思います。
ユダヤの成人した男子には律法により年に3回、エルサレムに上ってユダヤの3大祝祭に出ることが命じられていました。
 それは春の過越祭、夏の五旬祭、秋の仮庵(かりいお)祭でした。
イエスの両親はこの慣習に従って家族で過越祭を祝うためエルサレムに上ります。イエスは生まれた時から12歳になるまで、ずっとユダヤの律法の慣習に従う両親に連れられてエルサレムの祝祭を守っていたのです。
また彼は両親と、身近な人たちの育みから日常的に学び、ユダヤの律法の教えと精神を徐々に身に着けていったのです。
ユダヤの社会では一般的に男子は12歳になると断食することを教わり始め、13歳になると成人として宗教的な義務に係わるようになりました。それは厳格なものでありましたから、その成人の一歩手前の12歳のみずみずしい感性と大胆さで、今日のエピソードのように律法学者たちと対話なさったのかとも想像します。

さて、祭りの期間が終ってイエスの両親が巡礼の仲間と帰路の途上、少年イエスはエルサレムに残っておられたのです。両親はイエスが巡礼の仲間の一行にいるものだと思い込み、その不在に気づきませんでした。それから1日分の道のりを行ったとき、両親は初めてイエスがいないことに気づくのです。
当然両親は血相を変えて我が子を捜して回ります。
まず、親類や知人の間を捜し回りますが、見つかりません。捜しながら再びエルサレムに引き返し、祭りが終ったエルサレムの街中の心当たりのあるところを次から次に懸命に捜し歩きますが、見当たりません。
ところが、その3日も過ぎた後、我が子イエスが、エルサレムの神殿の境内にいるのを両親は発見するのです。3日の後というのは特別な意味があるのでしょう。イエスさまが死から甦られたのも3日後でありました。
十字架のイエスさまは、愛し慕う人たちの前から取り去られますが、その人たちは3日後に復活のお姿となられたイエスさまを見出すのです。

 今日のこの場面で、神殿で我が子を見つけた両親はその様子に愕然とします。律法学者の間に座って話を聞いたり質問したりして、来ている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いているのです。必死に捜し回ってようやく見つけた我が子の姿は、もう一人前に成人した者のようでした。ユダヤでは律法の学びに対する認定を受け、成人の儀式に与ることができるのですが、それもまだなのに何て大それたことをと、血の気が引く思いであったのでしょう。
 そんな母マリアの口から真っ先に出たのは、「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」という言葉であったのです。それは、親が子の事を気にかけ心配してのことであったのでしょう。

 すると、少年イエスから思いもよらないような返事が返ってきます。「どうしてわたしを捜したのでえすか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
 母マリアにとってイエスの父はヨセフであり、家はナザレにありました。ですから、「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」、と50節にあるとおり、なぜイエスがそんなことを言うのか理解できなかったのです。親としてはさぞかし寂しい思いをしたのではないかと思うのです。
 ただ、次の51節に、「それからイエスは(両親と)一緒に下って行き、ナザレに帰り両親に仕えてお暮しになった」とありますように、イエスさまは地上におけるつながりをも、とても大切になさったということです。                 
母であるマリアも又、我が子として育てながらも、イエスに起こった「これらの事をすべて心に納め」生きて行くのです。あの天使の受胎告知、誕生の時の出来事、又献児式での預言の言葉など、マリアはそれらすべてを心に納め、思いめぐらし続けるのです。

 ところで少年イエスが語った、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」という言葉でありますが。
 これは新共同訳改訂版では、「わたしが自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」と訳されています。神殿「父なる神との関係性の中に一緒にいる、必ずいる」ということを知っていれば、母マリアはその意味を理解したかも知れません。

 この父とは、天の神のことです。その父の神と子としてのイエスさまとの関係性は、この後に、イエスさまがバプテスマを受けられた時にも示されています。     
聖霊が降られ、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、父なる神さまもイエスさまこう呼びかけられているのです。
 そうして、「わたしが自分の父の家にいる」とおっしゃった言葉とイエスが最期の十字架上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれた言葉は、一つの線でつながっていくのです。まさに、天の父と子の決して変ることのない、その愛の関係性が生涯に亘り貫かれていくのです。
イエスさまは最期の十字架上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と絶叫されて死なれました。しかし、その三日後に、天の父なる神との決して変ることのない愛の関係性のゆえに、天の父なる神はイエスを死より甦らせられたのです。
 
少年イエスを見失って動揺する両親は三日後に神殿で父なる神の子としてのイエスを見つけました。そのように、十字架の出来事で主イエスを見失ったに思えた主を愛する人たちは、栄光に輝く神の子、救い主としてのイエスを見出すのです。主イエスにあり家族とされた者らは、復活の主イエスと再会するのです。
同様に、アーメン。主イエスのあがないによって父なる神との和解に与った私たちも又、主にあって子として迎え入れられ、復活の主イエスのよみがえりによる永遠のいのちの希望にも共に与る者とされているのです。

 その永遠は、今日新しい年を迎えられた私たちの日常の中に既に与えられています。
主は私たちの日常のただ中に、共に生きておられるのです。ここから始まるひと日一日に父なる神の子とされた喜びと平安が私たちと共にありますように。

この後、まぶねの中に(新生讃美歌205番)を賛美します。その歌詞を読ませていただきます。

まぶねの中に (新生讃美歌205番)

1.馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ たくみの家に 人となりて
  貧しきうれい 生くるなやみ つぶさになめし この人をみよ

2.食するひまも うちわすれて しいたげられし 人をたずね
  友なきものの 友となりて 心くだきし この人を見よ

3.すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも むくいられで
  十字架のうえに あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ

4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
  この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
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主の年2023年 迎主 

2023-01-01 13:32:18 | 教会案内
昨年はブログにご訪問くださり、ありがとうございました。
本年のみなさまの上に、益々のご多幸をお祈りいたします。
よろしくお願いいたします。

平安

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