主日礼拝宣教 ローマ7章7節~8章2節
今日も私たちは「キリストの救いに与る新しい人」としての人生に招かれています。
先週の6章には「バプテスマ」について記されておりましたが、特にその8節-11節をもう一度味わってみたいと思います。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死はもはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがた自身は罪に対して死んでいるが、キリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」「考えなさい」を原文に近く訳すと「認めよ」という言葉です。ただ「考る」のではなく、存在をかけて「認識する」と言うことです。キリストに結ばれて神に対して生きる、その幸いを認識する毎日でありますよう祝福をお祈りします。
- 「律法は聖、掟も聖」
さて、本日は7章7節から8章2節のところを共に聞いていきたいと思いますが。
パウロは5節で「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪に誘う情欲が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」と述べます。
つまり、戒めを知り、悪いことだと分かっているのに、かえってそれを行ってしまう肉の弱さですね。たとえば、小さなこどもであっても、そんなことしてはいけませんよ、言っちゃダメですよ、と言うと。いけないと分かっているのにかえってそうしたがる、言いたがる。おとなであれば、ルールは破るためにあるなどと嘘ぶってしまう、そのような性質が人間の中に働いています。それは社会全体までもむしばんでおり、死に至らせるような状況を作り出している。そうした罪の法則とも言えるようなものが働いているということです。
7節で「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしたちは罪を知らなかったでしょう」と、パウロは述べます。
12節では「律法は聖なるものであり、掟も聖なるものであり、正しく、そして善いものなのである」とも述べています。
神がイスラエルの民をご自分の宝の民(申命記7:7)となさろうとした時、モーセにシナイ山で授けたとされる「10の戒め」、十戒は完全で聖なるものであるのです。聖であり正しいものなのです。それは「光」のように人の心を照らします。言換えますなら、律法という聖なる「光」に照らされなければ罪の自覚は生じません。
神聖な正しさ、その律法の光の前に、人は自らの罪深さがあらわにされるほかないのです。どんな隠れた罪もすべてが、この律法の光に照らされ明らかになるのです。神の前に罪は無いと言える人などいません。
- 「罪と善の間で」
使徒パウロは自ら罪人であることを告白します。
15節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。17節では「そういうことを行っているのは、いまだわたしの中に住んでいる古い性質であり、それが罪を犯させる」と自らのことを述べます。
それはキリスト者として歩む私たちの思いをも代弁しているかのようであります。
信仰をもつ前は、又み言葉知る以前は何とも思わず平気でやっていた事が、主を信じて生きるキリスト者となったばかりに罪に気づかされる。だけど善を行えないそんな自分の姿を思い知らされるのであります。しかし、それは真摯に主とそのみ言葉に向き合おうとするからこそ生じる葛藤であり、いわばキリスト者として正常なあるべき姿といえます。
この深い罪の認識は、自分は正しい、間違っていないと自己を正当化し、自分を誇り、自分の義を立てようとする者のうちからは決して発せられるものではありません。罪の認識は、救われる以前の人の口から発せられるものではなく、キリストの十字架の愛と赦しによって真実に救われている人の告白であるのです。
パウロはキリストに出会う前、自分の力で義を立てようとする人でした。自分を誇り、自己を正当化する人でした。キリスト者を神と律法の背信者、敵とみなして排除、迫害しました。けれども、
あのダマスコへ向う路の途中で活けるキリスト、律法の完成者であり、真理の光なる復活のキリストと出会うのです。彼はまさにそこで、自分でも気づくことができなかった深い自分の罪があらわにされたのです。自分が神のために正しいと行ってきたあらゆることさえ、自らの滅びを刈り取っていることに他ならない悲劇に気づかされるのです。15節にあるように、自分が望むようには行えず、かえってこれではいかん、というようなことをしてしまう自分。自らが古い性質に引きずられるような罪人であることを、告白せざるを得なかったのであります。
パウロほど勤勉で道徳的な人間、敬虔で熱心な人であっても自分の力では救われないということを思いさらされたのです。しかし主はその度に十字架を示し、自分の力ではどうしようもない罪を贖い、「ただ恵みによって」滅びから命を救いだし、霊による新生に与って生きる道、神の子としての道を指し示し続けてくださったのであります。
私どもも又、そうではないでしょうか。「正しくあれ」という願望と人の熱心だけであるなら、自分を責め、人を責め、失望する以外ありません。主イエスの十字架の救いに信頼し、感謝のうちに神の救いに与っている者として、自分との和解、他者との和解というキリストの平和の道を歩むものでありたいと願うものです。
- 「霊によって完成されたものを肉によって仕上げようとする罠」
本日の箇所を読み重ねていく中で、わたしの心に留まったのは「罪の法則」と「霊の法則」という言葉であります。8章2節に次のように述べられています。「キリスト・イエスによって命をもたらす「霊の法則」が、「罪と死との法則」からあなたを解放した。」
この「あなた」とはキリストの救いを受け入れた「あなた」のことであります。神はあなたという一人の魂に御目を注ぎ、その罪と死の法則から解放してくださるのです。
キリスト者はキリストの救いに与った罪人であります。神は私たちの罪を完全に贖い、救ってくださいました。神の側の救いは完全であるのです。しかし、わたしたちは救われた「義人」ではなく、救われた「罪人」であります。その罪の誘惑のなかで生きている現実があることを心にとめておく必要があります。救われる以前に逆戻りして自己を正当化したり、行いによって自ら高ぶったり、自らを省みることがないのなら、それはもはやキリストの救いの恵みを締め出している、いや必要としていないのと同じです。
このわたしという一人の魂の罪を完全に贖い、罪から解放し義としてくださるのは、ただ主の恵みにより、霊なる神さまによってであります。そのことを忘れてはなりません。
ややともすれば、その救われた罪人ということの自覚がなくなり、自分が義人のようになった思いになってしまう。そして自分の業や言葉が義に価するかのように錯覚してしまう。それでは、霊によって始められたことを、再び肉によって仕上げようとすることにほかなりません。
私たちが何か清いから救われたのではなく、キリストの尊い命の代償によって私たちはあがなわれ、解放と救いがもたらされているのです。それは決して人の業や力によるのではなく、ただ神の愛と憐れみによるものです。
それだけではありません。霊なる神さまが、わたしたち罪深い人間を神の子として生まれ変わらせ、新しい命を生きる道を拓いてくださっているのです。この救いの道を歩み通して行くことです。
それは肉によるものにではなく、まさに、「霊によって始められた恵み」であり、霊によって完成されることなのです。自分の熱心、自分の能力、自分の働きによるものではありません。しかし人はまことに罪深いものです。霊によって始められたものを、再び肉(自分の力)によって完成しようとする過ちを犯し得るのです。それはパウロが手厳しく手紙をしたためたガラテヤの信徒の教会だけでなく、ローマの信徒の教会にも存在していた問題でありました。ユダヤのしきたりを強要した人たち、又、どの指導者につくかと、内輪もめしていた人たちがいたのです。
それは又、「神の恵みにのみ救われた罪人である」すべてのキリスト者、私ども一人ひとりにも向けて語られたメッセージでもあります。
私たちは日々心新たに、初めて救いに与った者のように、主イエスの十字架を仰ぎ見て、そこから溢れ出る恵みに浸り、自らの罪に死に、新しい命に与って生きる。そのためにいつも自らの信仰の吟味、キリストとつながって生きているかを確認して、聖霊によって信仰の確信を強くいただいて新たにされていくことが大切なのです。
- 「霊の法則に従って生きる」
この箇所を準備していく中で、もう一つ知らされたことがあります。
それは「霊の法則に従って生きる」ということであります。私たちはこの地上において現実や限界をもった人間であります。いろいろなことが起こってまいります。信仰の杖を離すことなくにぎって立ち続けてていないと、悪の試みがやって来た時に簡単に罪の罠にはまってしまう弱い者です。又、救いの「喜び」から始まった信仰の恵みがかげり、喜びがなくなり信仰から離れていくようなことも起こりかねません。また、不安や疑いが生じては信仰の確信を失い、落胆と絶望さえ感じるようになることもあります。
しかし、不断に信仰に立って常に目を覚まして祈っている人、神さまとの関係性を築いている人は、
あらゆる状況の中にあっても、主の恵みとその喜びを失うことはないでしょう。かえってみ言葉によって忍耐強く祈り、困難にもキリストにつながっていく中で、その愛と信頼によって、様々な闘いに立ち向かい、打ち克つことができます。
私たちは確かにこの地上において現実の問題が起こってまいります。生活の問題、家族の問題、老後や病の問題、人間の関係など切りがないほどです。しかし、そういう中にあっても、言い尽くしえない希望を持って生きています。それは、神の言葉によって人の世の基準や判断はすべて移ろいやすく、やがては虚しく無くなってしまうという事を知らされているからです。そういう私たちに聖霊は伴われ、とこしえに変わることのない真理の道に導かれます。
そうして生きる「神の子」としての希望は、世の目に見える基準や判断に左右されるものでは決してありません。イエス・キリストなる神さまが、「お前の一生涯をわたしも共に負って歩く」といってくださり、来るべき時には、この名を呼んで、わたしの子よ、と迎えてくださる。この希望。それは肉の法則ではなく霊の法則であります。今日の箇所の先の8章6節に「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と記されています。この霊の法則に生きるところに、罪の法則からの解放、本物の救い、祝福に与る者ありますよう祈ります。
- 「キリストに結ばれて生きる」
最後に、今日の8章1節の言葉をお読みします。
「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」
ある逸話をご紹介します。スコットランドのある村に、一匹の犬がいました。その犬は汚れていたためだれも犬に近づこうとしませんでした。犬は、村や森の中をさまよい、飢えと疲れからひどく衰弱していました。ある時、村の少年が、その犬の首に名前が刻まれたメダルを見つけたのです。そこには「パップス」という犬の名前とともに、「国王所有の犬」という小さな文字が刻まれていました。このことを少年から聞いて驚いた村の人々は王室に知らせ、飼い主がわかった犬は王宮に連れ戻されました。パップスは、王が休暇でエジンバラ城の近くに来た時、迷い子になったのです。見つけ出されてからのパップスは、森の中をさまよっていた頃とは一転して、飼い主である王の愛と保護を受け、安らかに過ごしました。王とパップスをつないだのは、飼い主のことが刻まれたメダルでした。
如何でしょうか。私たちキリスト者は、どのような事があっても、どのような状況でも、主人がだれであり、自分がどんな存在であるか認識しているでしょうか。わたしは「主のもの」「キリスト・イエスに結ばれている」存在であることを忘れてはなりません。そこに真の希望と平安があるからです。キリストに結ばれて生きるキリスト者は何と幸いでしょう。今や、神の栄光のために私どもは生かされています。7章4節にもこう記されています。「あなたがたが死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
アーメン。「霊の法則」に従って生きる者とされてまいりましょう。主と共に感謝と喜びをもって。祈ります。