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キリストをとおして救いを喜ぶ

2023-05-07 16:44:13 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ5章1~11節

本日の5章1-11節には、「主イエス・キリストによって」、あるいは「キリストによって」、「キリストをとおして」という表現が5度も出てきますが。それは主イエス・キリストでなければ成し得なかった神と人との和解の仲介者としての務めであります。神との和解・平和が築かれるために、神の御子イエス・キリストが「仲介者」となられた。その事が強調されているのです。この「(救い主)主イエス・キリスト」を抜きにして神との和解・平和はなし得なかったのです。
造り主である神との良き関係性を築いていくことは人にとって最も幸いなことです。それは、いくら有り余るほどの物を持っていたいたとしても得られるものではありません。神は主イエス・キリストをとおして、人を罪の縄目から解き放ち、滅びから救われた者として神との平和・平安を与えて下さいました。キリストが十字架で裂かれた御体、流された血によって私たちのおぞましく醜い罪は贖われ、その唯恵みによって神と和解し、神の平和の道が拓かれている事をしっかり覚えて生きることがほんとうに大切です。

ちなみに、ローマ書を読むとき「義」という言葉がいっぱい出てまいりますが。その漢字をよく見ますと、羊という字の下に我という字から成っていることにハッとさせられます。
9節の「わたしたちは御子イエス・キリストの血によって義とされたのですから」という言葉を読みますと、十字架の御子イエス・キリストは贖いのための神の小羊。そしてその下には罪贖われた我(私)がいるというように見えてきます。そのように私たちは神の小羊なるキリスの救いによって義とされたのです。

 本日読まれた5章の箇所には、その信仰によって義とされた者に与えられた「祝福」について記されています。
使徒パウロはまず、1節で「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」と述べます。
その祝福は第一に、「神との平和」であります。この事があらゆる祝福につながるのです。神がキリストをとおして人間にもたらしてくださった最も根源的な祝福は「神との平和」、別の言い方をすれば「神との和解」であります。どのような人間にとりましても、死への恐怖や不安、世にあって様々な問題や出来事がありますが。聖書はその一番大本の問題は、神との断絶であり、それが滅びであると説いています。
神と和解し神との平和が回復されることが必要なのであります。その関係性が取り戻されていくとき、人知を超えた平安が与えられます。主イエス・キリストをとおしてすべての罪は贖われ、神の怒りと滅びは過ぎ去った。この神との平和、神との和解の関係に与らせていただいているということが、何にも替え難い「祝福」なのです。

また、パウロは2節のところで「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます。「神の栄光にあずかる希望」が与えられている。これが第2の祝福であります。
それは、やがて訪れる終末のとき、主の再臨のときに完成されるのでありますが。今この時からすでに私たちは信仰によってそれを「希望」としていただいているのです。しかもこの「希望」は、手に入るかもしれない、というような不確実な見通しではありません。それは既に神により保証されているのです。
ヘブライ書11章で、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです」と記されているとおりです。今日も私たちはその事実を確認するため、こうして集まっているわけですが。ここで言う「神の栄光にあずかる希望。」それは神の怒りと滅びから解放され、救われているという信仰による恵みなのであります。

さらに、ここで述べられている「神の栄光にあずかる希望を誇りとしてる」、この誇りは、原語で「喜び」と同じ意味です。人が自らを誇るというものではなく、日々神の栄光にあずかる希望を「喜んでいる」ということです。如何でしょうか。神の栄光にあずかる希望が「喜び」となってしているでしょうか?
それはどこか遠くの先にあるものではなく、実にこの地上の日々の営みのうちにすでに始まり、起こされているのです。
キリストの福音に出会う以前の人は、その誇るべきは自分、喜ばすのは自分であるのです。しかし、キリストの福音を信じた人は、その信仰によって神さまを誇り、喜ぶのです。

パウロはまた、「神の栄光にあずかる希望を誇り(喜び)とする」者は「苦難をも誇り(喜び)としています」と述べます。
「苦難を喜ぶ」ことなど人にできるでしょうか。生身の私たち人間は苦難に遭うなんて、と常識では喜ぶことなどできません。けれどそれらが決して朽ちることのない「希望」。死を前にしてさえ失われることのない「希望」を生むというならどうでしょう。

パウロは次のように述べています。「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。」
その忍耐は単なる我慢ではありません。苦難の中でも愛なる神さまは私のことを知っていてくださる。この信仰にあって救のときを待ち望む、その忍耐です。
 それはまさに神ご自身、罪に滅びゆく人間を決してあきらめることなく、御子なるイエス・キリストを仲介者として和解の道を拓き、すべての人が福音を信じ、立ち返るのを待っていて下さる、その神のご忍耐なのであります。神さまの愛は底知れない偉大なものであり、そのご愛が私にも確かに向けられている。そのことのゆえに私共も又、苦難や患難の中で救いのときを待ち望むのです。
 パウロは、その忍耐が練達を生む、と言っています。
練達とは熟練されていくということでしょう。確かに苦難の時にも耐え忍ぶ中で人は練達された心や精神を身に着けていくこともあるでしょう。しかし興味深いことに、「忍耐は練達を」の「練達」が岩波訳聖書では「確証」と訳されています。「確証」というのは、「確かな証拠を得る」「ある事実を確実なものとする証拠を得る」ということですね。私共にとってある事実とは、まさに「キリストによる救いの事実」であります。
神の救いを忍耐して待ち望むときが、キリストによる救いの事実の確証を生んでゆくというのです。キリスト者とは「私には救いの事実がある」と、苦難をもその救いにあって誇りとされていくということです。
だから、私の、私たちの苦難は失望に終わらない。「神の栄光にあずかる希望」は断たれることはない。希望は私たちを欺くことはないのです。失望に終わらないということです。
御子イエス・キリストの苦難と死は、そこで終わりませんでした。愛なる神はキリストを死から復活させられ、いつも共におられることを顕されるために聖霊を私たちのもとにお送りくださいました。

 使徒言行録には、この手紙を書いたパウロが福音を伝えるために迫害に遭い牢屋に閉じ込められた時のことが記されています。同労者のシラスと共に鞭打たれ投獄されるというその苦難の中で、二人は聖霊によって神の愛に満たされ、神に祈り賛美を捧げました。その時大きく地が揺らぎ牢屋の戸が開いて解放されるのであります。それと共に、牢屋の番人である看守とその家族までも神の救いに与る、という喜びと希望の出来事が起こるのです。
 それはパウロの頑張りや力によるものではなく、聖霊によって注がれた神の愛によるものでした。その神の愛こそ、キリストが、実に「不信心な者」「罪人」「神の敵対者」のためにまでも身代わりとなって死んで下さった、その救いによって明らかにされたのです。この仲介者なるキリストの和解の福音によって、私たちは苦難の中でさえ、他者とその喜びを共に分かち合う希望へと導かれているのです。主イエスがこの地上に来られたのは、私たちにこの喜びを与えるためであります。

11節「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇り(喜び)としています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
今週もキリストをとおして与えられた救い、その喜びに与りつつ、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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