礼拝宣教 ヨハネ16章 レントⅣ
3月11日は東日本大震災から13年目となります。宣教後に「3.11東日本大震災から13年を数えての祈り」(東北バプテスト連合震災支援委員会)を共に心を合わせてお祈りいたします。
今年は元旦の日の夕方に能登半島を震源地とする大きな地震が起こりました。家族や親しい方を亡くし、悲しみと痛みのうちにある被災地の方に神さまの深い慰めと一歩ずつでも前にあゆみ出すことができますように。被災地から離れられて避難生活を余儀なくされた方には先行きが見える安心が与えられますように。一方ふるさとにとどまる決意をされた方に、一刻も早い生活環境、水道下水道等ライフラインの回復が進みますように、とお祈りいたします。
受難節も4週目に入りましたが。ヨハネ福音書から、イエスさまが御自分の時が来たことを自覚され、弟子たちに別れの説教をなさった箇所を読んでいます。先週は「ぶどうの木であるイエスさまにその枝である私たちがしっかりつながって生きることで、豊かに実を結ぶキリストの弟子となるなら、神は栄光をお受けになる」というお勧めをいただきました。福音に生きる歩みを続けてまいりましょう。
本日の16章はイエスさまの告別説教のクライマックスともいえる箇所であります。
ここでイエスさまはまず、弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。
キリストの使徒となった弟子たちは、イエスさまのお言葉のように迫害を受け、殉教する事も多くありました。そしてこの福音書を記したヨハネが教会の指導者として生きた時代、それはキリスト教会とその信徒への激しい迫害の最中でありました。
イエスさまの時代から2000年がたった今日の世界においても、混迷を深めるロシア・ウクライナ、中東、又中国やミャンマー、あるいは明るみにはなっていない様々な地域で、いまだに激しい思想統制や力による激しい弾圧や迫害が平和と正義を求めている人たちに向けられている現実がございます。今の日本では直接的に迫害や弾圧を受けることはめったにないでしょうが。戦時下にあって信条や信仰を貫こうとする時にバッシングを受けたり、脅されたり、職務を追われたりすることも実際に起こりました。家族、親族、又地域コミュニティーからの疎外も起こります。
イエスさまは「迫害の予告」の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」とヨハネ5章18節以降のところで弟子たちにおっしゃったとおりです。
イエスさまご自身、迫害をお受けになり十字架の苦難と死を遂げられました、弾圧と攻撃の鉾先はキリストを証しし、福音を語り継いでいく弟子たちに向けられていくことになるのです。
イエスさまの存命中、弟子たちはイエスさまが一緒におられたので直接そういった危害が及ぶことはなかったのです。しかしイエスさまはご自分が去っていった後、弟子たちにそのような事態が起こって来ることを十分承知しておられました。
そうなった時に「慌てふためき、つまずくことがないように」と、弟子たちに語られたお言葉、それが今日16章なのです。
それは4節に「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしがそのように語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とあるとおりです。
この後必ずつまずきを覚えるようなことがある。迫害も起こってくる。しかしその折に、信じていたのに思いがけないことがふりかかって来たと、意気消沈するのではなく、「あの時、イエスさまがあのようにおっしゃったなぁ」と、思い出すようにということです。
このようにイエスさまは弟子たち、さらにイエスさまを信じるわたしたちすべての信徒の苦難の日、そこで起こって来る葛藤を予見なさって、危険や災難が間近に迫ってきた時にも、慌てふためき信仰を失うことのないようにと、語られたのです。
イエスさまが離れ去ることを聞いた弟子たちは、「本当にイエスさまが去って行かれるとしたら自分たちは一体どうなるのか」と、その心は悲しみと不安でいっぱいになりました。
そのような弟子たちにイエスさまは、「わたしが去って行くのは実を言うとあなたがたのためになる」と、思いがけないことを口になさるのです。
弟子たちは「なんでイエスさまが去って行かれることが、わたしたちのためになるのか」と、思っていたのではないでしょうか。
その弟子たちの思いを知っておられたイエスさまは、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者(助け主)をあなたがたに送る」(7)と約束されます。それは、イエスさまの弟子たち、さらに信徒たちを導いて真理をことごとく悟らせるお方、真理の霊、聖霊が来られるという約束であります。
そのとおり、イエスさま御自身が十字架におかかりになって死なれ、復活されて天に昇られた後、一同が一つとなって祈り求める中に聖霊が臨まれた出来事によって、イエスさまは生きておられ、永久までも共におられることを弟子たちは知るようになるのです。
しかし弟子たちは、この時が実現するまでまだイエスさまの言われた事がまったくわかりません。悲しみと先の見えない不安の中で一層頭は混乱するばかりであったのでしょう。
そんな弟子たちに向けてイエスさまは希望の言葉を語られます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変る」「今は、あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」。これは実体のない、安っぽいなぐさめではありません。
その日から2000年の間、今日の私たちもイエスさまを肉眼で見ることはできなくても、確かに弁護者、真理の霊、助け主なる聖霊が私たちのうちにも来られ、生きてお働きになっていることを私たちは知っています。
聖霊はキリストのからだなる教会をとおしてお働きになり、私たち一人ひとりにキリストが生きておられることを示し、その救いの御業を起し続けてくださるのです。
「悲しみは喜びに変る」。それは神からも見捨てられたと思った人生が、キリストを知って神の愛に生かされる人生に変わるその喜びです。「この喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。
聖霊に満たされるなら、どのような人もそのおかれた状況如何に関わらず、キリストにある喜びの人に変えられるのです。
「いや、自分は長く信仰生活を続けているが、そんな喜びなどない」と言う人もおられるかもしれません。そのようn神さまがまるで沈黙しておられるように感じられる時は、神さまはさらなる祈りと対話を待っておられるのかも知れません。ご一緒に祈り求めましょう。
それこそ、イエスさまが23-24節で「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われたことです。
ところで、弟子たちはこれまでも祈りについてイエスさまから学んできました。主の祈り、神さまと一対一での祈り、密室での祈り、野や山での祈りなど。しかし「イエスさまの御名によって」祈ったことはなかったのです。イエスさまが一緒におられたからそう祈る必要はなかったのです。
けれどもイエスさまはこの地上を去るにあたり、弟子たちに今後御自分の名によって父の神に祈ることを教えられます。
それは、父なる神さまと私たちの間を隔てていた壁が、イエスさまの十字架の死、すなわち罪の贖いによって取り除かる。聖霊がそのことをさとらせて下さり、イエスさまの御名で祈るとき直接父なる神さまが私たちの祈りを聞いてくださるのです。
本当に苦しい時、不安な時、もうどうしてよいかわからない時、心の内をさらけ出し、ヤコブのようにじっくりと相撲を取るように助けと祝福を主に求めて祈りましょう。主は生きておられます。
さて、弟子たちはイエスさまの言葉を聞き、30節「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と宣言します。それはその時の弟子たちなりの精一杯の信仰の表明でした。
しかし、イエスさまは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、おっしゃるのですね。
そして、こう言われます。
「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」。
その後イエスさまは捕えられて十字架に引き渡されます。この時肝心の弟子たちはイエスさまを置き去りにして逃げてしまうのです。イエスさまはひとりきりにされるのです。
しかし、イエスさまは「わたしはひとりでない。父が、共にいてくださる」という確信によって遂に十字架の苦難と死に向かわれるのです。
一方、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言った弟子たちは、自責の念にさいなまれることになります。
イエスさまはそのような弟子たちのことをお見通しでした。その弱さを十分ご存じでした。その弱さに泣き、落胆した時、そして苦難の時、まさに4節「その時が来たときに、わたしが語ったということを、あなたがたに思い出させるために」とイエスさまはこれらのことをお語りになりました。
弟子たちは、このイエスさまの深い愛を復活のイエスさまと出会うとき、さらに聖霊降臨を経験するとき、そして厳しい迫害に遭ったときにも思い出したことでしょう。
イエスさまはこうおっしゃいます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」。
つまり、イエスさまがもっておられた「わたしはひとりではない、父の神が共にいてくださる」という確信と平和。イエスさまはその確信と平和の中に弟子たちを、そして主イエスを信じる私たちを招いておられるのです。
「わたしはひとりではない」「神が共にいて下さる」。
人はだれも弱さを持っており、失敗はあります。人の決心もともすれば激しい風に遭えば飛んでいってしまうようなものです。にも拘らずイエスさまはそんな私たちの弱さを愛によってあるがまま包み込み、聖霊のお働きを通して、何度も立ち上がることができる「勇気」をくださいます。
それは人の努力やがんばりではなく、神の恵みであり、平安と喜びから生じる神の力なのです。
イエスさまは最後に言われます。
「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
私たちも又、世の罪と死に勝利してくださった十字架のイエスさまを見上げつつ、神さまの愛と平和、聖霊に生かされて、救いの主、イエス・キリストの福音を分かち合ってまいりましょう。