日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「わたしにつながっていなさい」

2024-03-03 20:10:33 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ15・1-17 レントⅢ

本日は「わたしはまことのぶどうの木」で始まる、よく知られるヨハネ15章の箇所から御言葉を聞いていきます。
旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書ではイスラエルがぶどう畑やぶどうの木にたとえられています。良いぶどうの木として植えられたはずのイスラエルの民が、良い実を結ばず悪い実、酸っぱすぎて口に入れる事もできないようなものになってしまいます。
そこで御父なる神は古いイスラエルに代わる新しい神の共同体を形づくるために、この世界に御子イエス・キリストを遣わされたのです。
ここで、イエスさまはぶどうの木のたとえを用いて、新しい神の民がイエスさまにつながって神の愛の共同体となるビジョンを示されます。そこには目的がありました。かつてイスラエルの民が陥った神の愛といつくしみを忘れ、人を裁き、分け隔てするような悪い実、腐ったような酸っぱい実ではなく、イエスさまにつながった一人ひとりが良い実を豊かに結ぶようにと教えられたのです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。原文では「このわたしこそ、まことのぶどうの木である」、又は「まことのぶどうの木こそ、このわたしである」と訳せます。
神の御心に逆らう民の指導者たち、偽りのぶどうの木に対して、イエスさまは「わたしこそ、まことのぶどうの木である」と宣言なさったのです。
そこで、農夫である御父なる神さまは入念にその木の手入れをなさるのです。実を結ばない枝は取り除いて、良い実を結ばせるために注意深く選定をなさるのです。

2月に教会玄関先のバラの剪定が有志の奉仕者によって行われました。剪定の時期を逃しますと、バラの花がきれいには咲かないのだそうです。良い花がたくさん咲きそうな枝、柔軟に誘引することができる枝を残し、ゴロゴロして堅い枝は取り除く外ないそうです。そうしないと柔らかい枝の芽の成長を妨げ、花も傷めてしまう。ぶどうの木を剪定する場合もそうですが。良い実をみのらせるには手入れが欠かせません。実がついたぶどうを収穫したら、枝を支えていたつっかえを外し、良くない枝を取り除く選定をします。冬は幹とわずかな枝だけになりますが、そうする事で土からの養分やエネルギーを十分蓄えることができ、枝も力強く伸びて豊かに実をみのらせる事になるのです。又、ぶどうの苗木の場合は植えられてから3年は実を結ぶことはないそうですが。石の上にも3年、その間徹底した剪定で刈り込まれることによって生命を貯え、良き実を結ぶために備えられるそうです。まあそうやって手入れをされながら実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はなお手入れがなされるというのですが。これってどこで実を結ぶか実を結ばないかを農夫である神さまは見分けられるかということですが。人にはわかりません。
唯ここで救われますのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とおっしゃっていることです。
教会の玄関前のバラも土を消毒し、葉がつながってくればこまめに消毒しないと根も葉も病気になり害虫がついて花は美しく咲きません。ぶどうも良い実をつけるためそういう手入れが大事です。
私たちも良い実を結ぶ者となるため「主のお言葉によって清くされる」のです。
私たち人間は自分でいくら洗っても、拭ってもなかなか消えない頑固でしつこい罪の性質というものがあります。
全き聖なるお方の前に立つと、「わたしはきよい者です」などとは決して言える者ではないでしょう。そのような私たちにとって本当にありがたいのは、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃっている事です。
御父なる神さまは「イエスさまの話した言葉によって私たちをきよく」し、私たちが良い実を結ぶものとなることを何より望んでおられるのです。

まさにそのために、4節でイエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃっている事が最も重要です。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。」
ぶどうの枝だけでは実を生み出す生命力を持ち合わせていません。当然枝を土に差し込んでも実はつきません。同じようにイエスさまのお姿に倣う弟子たち、又私たちイエスさまを信じる者も、イエスさまにしっかりとつながり、結びついていかなければ実を結ぶことができません。どんなに良いように思える業を行っても、イエスさまとそのお言葉につながって生きるのでなければ、神さまの喜ばれる実を結ぶことはできないのです。
私たちはぶどうの幹であるイエスさまにつながり続け、御言葉にとどまり、聞き続けることによって豊かに実を結ぶ枝とされるのです。

ブラジルのCさんがイースター礼拝でのバプテスマに向けた準備会を持っていますが。彼は大阪教会に初めて来られたのが8月の水曜祈祷会、それから日曜の主日礼拝にほぼ毎週欠かさず出席し続けて6ヶ月が経ちました。早いものですが、また主のお計らいとお導きも早いものです。先日の準備会で彼に問いかけたのは、「なぜ、バプテスマがあなたに必要か?」ということでした。彼は「大阪教会に来る前までは、自分は正しい人間だから、キリストも教会も必要ないと否定的な感情を持っていた。ところが、全ての事はキリストがお裁きになられるので、もう自分で他人を裁く必要がなくなり、心が軽くなっていった。それに伴い周りの世界も変わった。変わることで自分の中にあった否定的な感情が変わった。キリストと教会が自分には必要だと感じるようになり、大阪教会に来た。キリストを知るためにもっともっと聖書から聞き、知識を求める生き方をしたい」と話してくださったのです。
今日のところで、イエスさまが「わたしにつながっていなさい」とおっしゃっていること。又、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既にきよくなっている」とおっしゃったことをこの6ヶ月の間に彼の経験してきた事がよく分かりました。それが彼の「バプテスマ」を受ける理由であることを知ることができました。

イエスさまはおっしゃいます。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人はゆたかに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
では、イエスさまにつながる生活、実を結ぶ生き方とはどのようなものでしょう。
9節-10節において、イエスさまは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。それはイエスさまの愛にとどまり続けることです。
「イエスさまが御父の神さまに愛されているように、わたしはイエスさまから愛されている」と信じていますか。わたしのために十字架について下さったこのイエスさまの愛、皆さんお一人おひとりは一人残らずイエスさまから愛されている存在です。その愛にどんな時もとどまり続けましょう。
そして10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とおっしゃいました。
この、イエスさまが「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる掟です。
「互いに愛し合う」ことが「イエスさまの愛にとどまっている」事の証となるのです。

かの12弟子といえどもイエスさまのこのお言葉なくして神の愛に生きることはできませんでした。シモン・ペトロはイエスさまに他の弟子の不義に対して、「何度までゆるすべきでしょうか。7回までですか」と尋ねると、イエスさまが「7の70倍、つまり際限のないほどゆるしなさい」といさめられたというエピソードもありますが。
イエスさまは又、マタイ5章46節以降で、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とおっしゃっています。
イエスさまは、「隣人を愛し、敵を憎め」という昔ながらの価値観を、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言い換え、自らそれを十字架の最期の時まで生きられたのです。

どこか心地よい関係、自分にメリットのある関係ならその苦労は負えるかも知れません。けれどもイエスさまが背負われたのは、ご自身にとって何のメリットにもならないこの世では非常識な程の愛なのです。
イエスさまは私たちをしばるためにおっしゃったのではありません。むしろ11節にありますように、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃるのです。
イエスさまにつながり、その愛と救いの福音を知れば知るほど感謝と喜び満ち溢れるようになるでしょう。それはまた、私たちが神さまのご計画によって、キリストのからだなる教会につながり続ける中で、「互いに愛し合う」というイエスさまの御言葉の深さと広さを発見し、私たちの神さまへの愛はゆたかに育まれていくのです。
神さまの愛はあまりにも大きく、私たちが持ち得うるものではありません。ちょっとしたことが起こると落ち込み揺らぐような私たちでありますけれども。だからこそイエスさまにつながり、とどまり、倣い従っていく者のうちに神さまは確かに働かれ、豊かに実を結ぶものとならせてくださるのです。
今日の個所の前には、イエスさまが弟子たちの前に身をかがめて仕える人となられて、その一人ひとりの足を洗われた「洗足」の記事があります。
「愛し合う」という事は、具体的に「仕え合う」ことなのだと、イエスさま自ら示されたのです。お互いの汚れた足をもいとわず仕え合う。
それは8節で、「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それが明らかになることによって(傍線原文)、わたしの父は栄光をお受けになる。」アーメン。

イエスさまは、弟子たちをもはやしもべとは呼ばず、「友」と呼ばれました。それは「御父から聞いたことをすべて隠すことなく、弟子たちに知らせた」からです。
随分前ですが、ある高校生に「友」と呼べる存在についてのアンケートをとった結果を見て知ったのですが。1番多かったのは、「心を開いて安心して話せる人」。2番目に多いかったのは「本気で叱ってくれる人」。3番目に多かったのは「一緒にいるだけで楽しい人」だということです。おそらく今の高校生もこれに近い回答がでるのかも知れませんが。なるほどなぁと思いましたが。果たして3つの愛すべてを満たす友がいるでしょうか。いる人は幸いですね。けれど多くの場合、いつ、いかなる時も、いつまでも、という関係性は見出せないのではないでしょうか。
しかしイエスさまはいかなる時も、私たちのまことの「友」となってくださったのです。
今日は「わたしにつながっていなさい」との御言葉から、まずイエスさまと私の関係を築いていくことの大切さを確認しました。それは、私たちがゆたかに実を結ぶためだと、約束をしてくだったことなのです。この豊かな実の最高の結実は、イエスさまが十字架を通して示された神の愛です。その愛によって私たちはイエスさまにつながることが赦されているのです。イエスさまと私たちがつながることによって、私たちも豊かに実を結ぶものとされるのです。それは「互いに愛し合う」ことです。それこそが、神が栄光をお受けになることです。神の国を求め、平和を造り出すようここからあゆみだしましょう
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