礼拝宣教 Ⅱコリント2・12-17
先週も申しましたが、パウロはコリントの教会との間に様々な問題を抱えていました。その後もコリント教会の状況は改善されず、パウロ不在の中、さらに大きな問題をコリントの教会は抱え深刻な事態になっていました。パウロはコリント教会への訪問を願いました。しかし自分がそこに行くことによって、さらにコリントの教会との関係が悪化するかも知れないと悩んだ末、苦渋の選択として彼はコリント教会への訪問を控えます。その代わりに「涙ながらに」書いた手紙を同労者のテトスに託し、彼をコリントの教会へ遣わすのです。
7章8節によれば、パウロは「コリントの教会の信徒たちを苦しめた」と、自ら認識していました。
その手紙はコリントの信徒たちには大変厳しいものであったからです。
パウロはコリントの教会の信徒たちの反応、その状況が気がかりでならなかったのです。
パウロはこの頃エフェソにおりましたが、キリストの福音を伝えるためにトロアスに向かったとあります。そのトロアスで、コリントから帰って来るテトスに会えるのではないかと考えたようです。しかしそこではテトスに会うことができませんでした。パウロは不安な心を抱えながらトロアスを後にして、マケドニアに向かうのです。コリントに近いマケドニアであれば、もっと早くテトスに会えると期待したからです。まあ、それだけこの時のパウロの心はコリントの教会の信徒たちのことでいっぱいであったことがわかります。
ところが次の14節では、そのパウロがまるで長いトンネルから脱け出たかのように「神に感謝します」と、主をほめたたえているのです。
一体何があったのでしょうか?
その経緯について今日ところには書かれていませんが、パウロはマケドニアで悲願のテトスと再会し、コリントの教会に関する大変うれしい報告をテトスから受けたのです。
そのことを記した7章5-9節をお読みします。
そのようにコリントの教会の信徒たちの多くがパウロの心意を受け取り、「悔い改め」(7:9)、パウロを慕い、パウロのために嘆き悲しんでいた(7:7)。
この報告を受けたパウロは、慰めと喜びに溢れるのです。パウロはテトスと手をとり合って喜び、コリントの信徒たちのことを思い浮かべつつ、共に神に感謝をささげ、主をほめたたえました。そのパウロの気持ちは、この第二の手紙を通して、きっとコリントの教会の信徒たちに伝わったことでしょう。
ずっと不安があった、苦しみがあった、悩みがあったパウロ。しかし、それが喜びと平安に変えられるのです。
苦難の中で体験した「神の慰め」については先週の1章に書かれていましたが。パウロはこの2章で、これまでの不安に対する「キリストの勝利」をほめたたえ、神に感謝します。神は慰めの神であるだけでなく、不安からの勝利をもたらされるお方なのです。その「勝利の行進の列にわたしたちをいつも連ならせてくださる」(14節)というのです。
それは世の戦勝パレードとは全く異なります。パウロは争って勝つことを勧めているのではありません。戦争にせよ人間関係にせよ、争いは勝っても負けても、双方に深い傷跡を残します。又憎悪が憎悪を生んで数え切れない悲劇が起こって来たことを、私たちは知っています。
では、私たちはどのように戦い、どのように勝利を得るのでしょうか。キリストはどのように戦われたのでしょうか。それは神に信頼し、従うことによってです。
この「キリストの勝利」は、十字架を通して実現されました。
パウロが書き送った第一の手紙1章18節にはこうあります。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
パウロは人の言葉の知恵によらず、「神の力、神の知恵」であるキリストの十字架の救いを伝えました。イエス・キリストの十字架の死は失敗だと考える人たちもいたでしょう。それはローマ帝国が奴隷の反乱を防ぐために長時間十字架に架け、苦しみながら衰弱死するのを見せしめにする、そんな残酷な刑具であったのです。
それを知る者にとっては、十字架刑による無残な死を遂げた者が「神の子」だというのは到底ありえないことであり、それが「神の救い」と言うのは実に愚かとしか思えないことであったのです。
殊に律法や行いによる救いを願い、それを守ってきたユダヤ人にとっては、旧約聖書の「木に架けられた者は呪われる」という言葉そのもののイエス・キリスト、十字架の死でありました。
しかし、そのイエス・キリストの十字架の死は、すべての人間の罪の代償であったのです。
そのあがないのため主は人の呪いをその身に負われました。これこそ神の救いの御業であったのです。パウロは「十字架の言葉は・・・わたしたち救われる者には神の力です」と言うのですね。
まさに2000年を経た私共も、そのキリストの十字架を通して救われているわけであります。
パウロは1章21節で「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と書いていますが。それもキリストの十字架を語ることが、多くの人にとって愚かに見えたからです。知恵を探す異邦人には愚か、しるしを求めるユダヤ人にはつまずき以外の何ものでもなかったからです。
それにしても彼はどうしてそこまで「十字架のイエス・キリスト」の宣教にこだわったのでしょうか。パウロ自身キリストと出会う前はユダヤ人の宗教・学問におけるエリートとしての人生をひたすら歩んでいました。選民としての自意識とともに、神のために働くという誇りと自負を強く持っていたのです。
しかしその自分の知恵や能力、誇りというものが、キリストの信徒に対する排除と激しい迫害行為に向かわせるのです。そういう中、彼はダマスコの途上で「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしはあなたが迫害している主である」と、復活の主の御声を聞くのですね。
パウロは「神のため、神のために」と、その熱心さと強い誇りと使命感によってキリスト教会と信徒たちを激しく迫害してきたことが、実は彼が熱心に信じ従ってきた神の御子を迫害していたことを知る事になるのです。この自分こそが神の子イエス・キリストを十字架につけ、殺害した罪人なのだという認識にいたるのです。神の愛の前に彼は罪を深く悔い改め、回心し、180度方向転換したパウロは、この神の恵みに応えて生きるキリスト者となります。そしてユダヤ以外の異邦世界に福音を告げ広めていく使徒として、貴い働きをなしていくことになるのです。
実に、パウロは自らの罪とその救いを経験するのですが、その柱は「キリストの十字架」であり、この十字架を通して「神は勝利された」とパウロは証言するのです。
キリストの十字架は私たちの価値観や世界観に問いかけてきます。
人はどうしても目に見えるものばかりに重きをおいてしまいがちです。実績や富を築き、社会的成功を修めた者が勝利者だと考える人は多いでしょう。また、能力主義に陥って人の価値を決めていないでしょうか。
ところが、キリストは勇ましい軍馬にではなく、柔和なろばの子に乗って来られ、へりくだりと弱さによって勝利なさったのです。神の栄光は、イエス・キリストの苦しみと死を通して示されましたが、そのイエス・キリストに神は復活の勝利を与えられたのです、
ここでパウロは「神が、そのキリストの勝利の行進に、いつも私たちをも連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と書いています。
「キリストを知るという知識」とはキリストの十字架とその救いです。神はそのキリストの香りを私たち通して至るところに、漂うよう用いてくださるのです。
それはキリストを信じ、キリストに従って神の愛といつくしみに生きようとする人たちです。そのような信徒たちを神は用いて、キリストの香りを放ってくださるのです。逆に、相手の気持ちを考えず、自分の考えを押しつけようとしたり、自分の先走った思いで人を従わせようと、いわば上からの目線で力み意気込むことで、かえってキリストの香りではなく、人工的な臭いがふりまかれる事になりかねません。
香りといいますと、香水や体臭を消すオードトワレは思い浮かべますが、これは化学物質によるマスキングで一時的によい香りがするかも知れません。その香りは人によって好みがあります。また嫌な臭いが消せても一時しのぎに過ぎません。しかし「キリストの香り」は神の愛といつくしみによって心砕かれ、謙虚にされた者の中から漂うように溢れいで、それは尽きることがありません。そこには聖霊の豊かなお働きが伴ってくださいます。
コリントの教会の信徒たちは、パウロの厳しい進言と勧告を、自らの事として吟味しました。一時的な悲しみや痛みを伴いましたが、謙虚に受け入れて神の前に謙虚に悔い改めました。この出来事を通して聖霊が教会の中にキリストの香りをもって臨まれます。
信徒たちは神の慰めといつくしみに包まれたことでしょう。
確認ですが。パウロはキリストの香りがこのようなものであると語ります。
それは第1に「キリストを知るという知識の香り」(14節)だということ。第2に「神にささげられる良い香り」(15節)であるということ。そして第3に「救われる者には命から命に至らせる香り」(16節)であるということです。
私たちも又、キリストの十字架による勝利の行進に連なりつつ、このような主の愛といつくしみの香りが漂う道を歩み通してゆきたいと願います。
今日の箇所の最後に、パウロはこう書き記しました。
「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。
先ほど7章の一部を読みました。さらに8節-13節をお読みしいたします。
パウロには大きな不安がありましたが、率直にコリントの信徒たちの間違いや過ち、その罪をまっすぐに伝えました。そこには救いに通じる悔い改めを願う祈りがありました。その結果どうでしょう。そのパウロの熱い思いは伝わるのです。彼らが今一度、救いの主と向き合い、立ち返った時、キリストの香りがコリントの教会の信徒たちのうちに満ち溢れ、漂うようになったのです。こうしてパウロが抱えていた不安もキリストの勝利に与る平安に変えられるのです。
私たちひとり一人も、キリストの香りを放つ福音の証し人とされてゆきたいものです。
主にあって、この礼拝から今週もキリストの香り漂う者として歩み出してまいりましょう。
お祈りします。