礼拝宣教 創世記41章1-57節
先週の37章後、ヨセフはエジプトの地でファラオの宮廷の侍従長であったポティファルの奴隷となります。ヨセフはその家と主人に忠実に仕えました。ポティファルはヨセフに目をかけ、身近に仕えさせるだけでなく、家の管理やすべての財産をヨセフに任せました。それはヨセフに能力があったからだと書かれていません。ポティファルは「主がヨセフと共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計られるのを見たからだ」と書かれています。
そんなヨセフにまた大きな試練が訪れます。39章ですが。「顔も美しく、体つきも優れていた」ヨセフをポティファルの妻が自分の意のままにしようと執拗に誘惑するのです。ヨセフは「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と、拒否しました。
ポティファルの妻のゆがんだ愛は恨みとなり、彼女は家の者たちを呼び寄せて「わたしはあのヘブライ人からいたずらをされた。わたしが大声で叫んだのを聞いて、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました」と、ヨセフに濡れ衣を着せるのです。それを聞いたポティファルは妻の言葉を鵜呑みに信じ、ヨセフは収監される事態になるのです。
その後ヨセフが収監されていた牢獄に、エジプトの王ファラオに対して過ちを犯したとされる給仕役と料理役が入ってきます。40章ですが。給仕役と料理役は牢獄で同じ夜に不思議な夢を見て、何のことかと悩むのです。そこでヨセフが解き明かすことになります。それは給仕役には解放の知らせ、料理役には厳しい裁きの知らせでした。
ヨセフは解放されるであろうことを知らせた給仕役に、「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください」と約束を取りつけます。その3日後、給仕役はヨセフの解き明かしたとおり無罪放免となり、元の職務に復帰が叶います。ところが給仕役はヨセフのことをすっかり忘れてしまうのです。
それから2年経ったある日、エジプトの王「ファラオは夢を見た」のです。それが41章です。
ファラオはこの夢のことでひどく心が騒ぎました。彼はエジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて自分の夢を話しますが、だれも解き明かすことができません。
そうした時、ファラオの夢のことを知ったあの給仕役がすっかり忘れていたヨセフのことを思い出します。
彼はファラオに、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを話しました。こうしてヨセフはエジプトの王、ファラオの前に出ることになります。
ファラオはヨセフに、「わたしは夢を見たが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と尋ねると、ヨセフは41章16節「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と、そう答えます。
投獄された奴隷のヨセフはエジプト最高の権力者ファラオに向け、絶対的権威者の「神がファラオの幸いについて告げる」と、臆することなく告げるのです。
ちなみに、この「幸い」と訳されている原語はヘブライ語で「シャローム」(平安・平和)であります。それはファラオ自身が抱えていた大きな不安や恐れ、激しい苦痛の解決が「神」によって明らかにされる、神がファラオの平安について告げられる、ということです。
ヨセフがこのようにファラオを前に堂々と言うことができたのは、彼自身が幾多の苦境を経験しても、なお共におられる神を待ち望み、共におられる神に依り頼んでいく人であったからでありましょう。どんなときにも神がヨセフのシャローム、平和・平安であったからです。だから、たとえ王であるファラオに対しても、神の幸い、シャロームを大胆に告げることが出来たのでありましょう。
さて、そうしてヨセフはファラオの見た2つの夢について、それは間もなく神がそれを実行されようとしておられる事をファラオに伝えます。
「7頭のよく育った雌牛と7つのよく実った穂は、7年の大豊作を意味し、7頭のやせた、醜い雌牛と東風で干からびた7つの穂は、7年間の飢饉を意味します。その後の7年続くその飢饉はひどいものであるため、最初の7年の大豊作のことを思い出せないほど、全く忘れてしまうものだ」と、解き明かします。ちなみに、エジプト南部で発見された文献には、BC2600年頃に数年間の豊作があった後、7年間の飢饉が訪れたという記録が実際に残っているとのことです。
けれど、ヨセフの夢解きは、それだけで終わりません。
ヨセフはファラオに、「これらすべては神がすでに決定しておられること」「神がこれからなさろうとしている」事であると、実に3度に亘って告げています。
それはつまり、神が必ずなさるのだから、ファラオもなすべきことをなさなければならない、ということを言わんとしているのです。具体的には41章34節以降にあるとおり、「豊作の7年の間、エジプトの国の産物の5分の1を徴収し、備蓄として保管すること」でした。それがやがて訪れる7年の飢饉によって国が滅びることがない手立てになるというのです。
ヨセフは王であるファラオにその夢の解釈だけでなく、エジプトの国の危機的な状況を前にして、知らせておられるシャローム、平安を語ったのです。たとえ大飢饉が訪れたとしても、それに対応した生き方、備えによって、国難を救うことができる道が用意されている。そのような幸いの道、シャロームの道を、神はヨセフを通して示されているのです。さらに、この事がエジプト周辺諸国の人たちにとっても食糧の備蓄拠点となり、エジプトだけでなくその周辺諸国に住む人々をも飢餓から救うことになっていくのです。
さて、ここからが先ほど読んでいただいた箇所ですが。これらのヨセフの言葉に、「ファラオの家来たちは皆、感心した」とあります。そしてファラオはヨセフを「神の霊が宿っている人」と呼びます。その霊とは、天地万物の創造をなさった「神」の霊であります。さらにフェラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人がほかにあるだろうか」「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう」と言っています。
それは実に当時のすべてのエジプト人がひっくり返るような発言なのです。なぜならエジプトは太陽神や月を崇拝しているのに、ここでファラオが口にした「神」は、聖書の天地万物の創造主の神です。ファラオはヨセフのうちにお働きになる万物を統べおさめたもう神の霊を見たのでありましょう。
新約聖書のヨハネ福音書19章には、イエスさまが十字架に磔にされるにあたり、ローマの総督ポンテオピラトから尋問を受ける記事がありますが。
そこでピラトはイエスさまに、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言います。それに対してイエスさまは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、堂々とお答えになられるのです。
ピラトは「自分が権限をもっているのだぞ」と言うわけですが、イエスさまは「その権限は神がお与えになったものであって、そうじゃなかったなら、このことに対して何の権限もない」とおっしゃっているのです。ピラトにせよファラオにせよ、地上の王や統治者は、すべての権威は天地創造の万物を統べ治めたもう主なる神にあるということを知らなければならないのです。地上のすべての国々の為政者、指導者がこの天地万物の創造したもう神を知り、神への畏れをもってその職務にあたることができますようにと、祈ります。
さて、ファラオはそのヨセフの提案に基づき、聡明で知恵あるヨセフをエジプト全土を治める指導者として立て、彼に自分の指輪をはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをかけます。そして、自分の第2の車に乗せて、民を彼の前で敬礼させるのです。
ファラオはさらに、ヨセフにツァフェナト・パネアというエジプト名を与え、オンの祭司ポティ・ファラの娘アセナトを妻として与えた、とあります。
この時、ヨセフは30歳であったといいますから、つまりエジプトに売られてから13年もの歳月が流れていたのです。彼はその間、奴隷として、囚人として辛く過酷な時をずっと過ごしてきました。しかし遂には、エジプト全土を治めるいわばエジプトの王に次ぐ総理大臣(首相)という地位に就くのであります。一方で、ヨセフはエジプトの名に改名され、エジプト人として生きていくことになるのです。イスラエル(ヤコブ)の子であったヨセフの心にはきっと複雑な思いが交差していたことでしょう。
まず、エジプトの総理大臣の高位に就いたヨセフが最初になしたことは、エジプト中の町々を自ら足を運んで廻ることでした。そうして豊作の7年の間、エジプトの国中の食糧をできるかぎり町々に蓄えさせます。
49節「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」と書かれています。そのように、ヨセフがファラオに提案したとおりのことが7年にも及ぶ政策実践に移した中で整えられていくのです。
私たちもまた、人生、その生活の中でビジョンを与えられることがあるでしょう。又、それが夢であれ、困難に対する克服であれ、祈りのリストを作って、祈り求めながら、主に望みをおきながら日々生活していくことは大事です。そのように神のシャロームに与る者とされたいですね。
ところで、聖書は「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」と記しています。
長男の名はマナセで、ヘブライ語で「忘れさせる」という意味をもつ名です。「神がわたしの苦労と父の家でのことをすべて忘れさせてくださった」ということを表わす名です。
これは、ヨセフが兄たちの恨みと憎しみを買って苦しんだ事、それが元でエジプトに売られて奴隷の身となった事、ぬれ衣を着せられ囚人の身とされた事、その13年にも及ぶすべての苦しみや辛さを「神は忘れ去らせてくださった」と、万感の思いを込めて最初の子を「マナセ」と名付けたのですね。
ヨセフは次男の名はエフライムと名付けます。ヘブライ語で「増やす」という意味があります。
「神はこの異教の地、苦しみの地において子孫を増し加えて下さった」と、神をほめたたえているのです。
注目すべきは、ヨセフが二人の息子の名前をエジプト名ではなく、ヘブライ語名にしたということです。それは信仰の父祖アブラハム、そしてイサク、さらに父ヤコブ、すなわちイスラエルの神の祝福を受け継ぐ者としての信仰をエジプトにおいてしっかり保っていたことを表わしています。
それは決して忘れるわけにはいかないヨセフのアイデンティティー、存在意義といえるものだからです。辛い過去を忘れさせてくれる新しい人生。しかしその一方で、決して忘れてはいけない主なる神の祝福を受けている者としてのアイデンティティー。それを2人の子の名に読みとることがで
きます。
興味深いのは、そのマナセとエフライムの母親はエジプト人であり、それもエジプトの太陽神の祭司オンの家系であったということです。異邦の国の神々は、天地万物の創造主のご支配の下にあります。異教の国と民も又、この主なる神のものであり、御手のうちにおかれているのです。
さて、ヨセフが解き明かした通り、7年の豊作が終ると7年の飢饉が起りました。それはエジプトの国はもとより、周辺のすべての国にまで及ぶ非常に大規模で深刻なものとなり、ヨセフの故郷であるヤコブの家族たちが住むカナンの地にまで、その飢饉は及びます。
豊作時に蓄えられていた食糧庫は開放されてエジプトの人々はひどい飢饉から守られます。それだけではなく、エジプト周辺諸国、中東諸国からも人々が穀物を買いにエジプトにやって来るようになるのです。
神さまからの夢による啓示と解き明かし、聡明さと知恵による働きによって、豊作の7年の間に計画的に食糧を豊かに備蓄していたことが、こうした大規模な災害といえる飢饉の時に、ゆたかに活かされることになるのです。しかしこれらすべては、38節、ファラオ自ら語っているように「神の霊」のなせる業なのです。
ひるがえって、わが国の穀物自給率について5年前に発表されたデータによりますと、過去最低の37%ということでした。最低の自給率でした。残り63%は輸入に依存することでまかなうことができているということであります。現在(38%)もほぼ変らない状況であります
世界各地で温暖化、気候変動による集中豪雨、山火事、巨大台風などの様々な災害が多発しています。日本においても、計画的に農業を保護していかなければ、農産物を育てる土壌もやせ細り、後継者も育たず、日本の食糧の生産量もその倉もやがて朽ちていき、貿易さえできなくなるような事態が生じたら、私たちの食生活に大きな支障をきたし、ひいては死活問題となり得ます。漁業や畜産業においても同様でありましょう。自然災害が頻繁に起っている今日の時代において、神がお造りになった自然、いのち、人としての営みが、平安で、平和であり続けるために必要な対策と計画的実行が、急務であるといえます。
「神の霊」なるお方の計らいと働きを祈り、神を畏れ、共に生きる道を進んでいくようにと、聖書は私たちに語りかけています。
本日は「神を待ち望む人に備えられた計画」と題をつけました。
ヨセフは政治的指導者としてたけていたことが読み取れます。しかしヨセフがそのように行動できたのは、彼のうちに「神の霊」が宿っていたからです。それは彼がいつもどのような時も、神を待ち望む人として、神を畏れ、信頼と望みをもって生きていたからです。そこに備えられた神のご計画が実現されていくのです。
私たちも又、すべてを司っておられる神のご計画の中で、神に望みをおき、神に用いられ、生かされていく人生を歩んでまいりたいものです。