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救いに通じる悔い改めと和解の言葉

2024-09-22 13:53:14 | メッセージ
礼拝宣教    創世記44章18節~45章8節

先週の41章はイスラエルの族長ヤコブの11番目の子ヨセフが兄たちに棄てられ、行き着いたエジプトの地でエジプトの王、ファラオの夢を解いた箇所でしたが。それは7年の大豊作後、7年の大飢饉が起こるという神の託宣であり、そのための対応まで王に助言します。そしてヨセフはエジプトの第二の地位である大臣に任命され、務めることになります。大飢饉はエジプトだけでなくカナン地方にも及びます。エジプトに穀物を買い求めに出かけた兄たちは、穀物を管理販売する監督、総理であったヨセフにお目通りが叶うのです。
彼らはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは一目でそれが自分の兄たちであることに気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフはその時、かつて兄たちについて見た夢、「兄たちの束が集まって来て、わたしの束にひれふした」(37:7)ことを思い起こし、それが目の前で現実となっているのです。その時から20年もの年月が経過していました。
ところが、ヨセフはその兄たちに対して「他国のスパイだ」言って責め立てます。あせった兄たちは「自分たちが12人の兄弟で、カナン地方に父ヤコブの息子たちであり、末の弟は、今、父のもとにおります。スパイなどではありません」とヨセフに懸命に説明します。しかしヨセフはその兄たちを3日間監禁し、一人シメオンだけを人質にして、穀物を持たせて末の弟を連れて来るように命じます。それはヨセフにとって同じ母の子、弟ベニヤミンでありました。
さて、兄たちは食糧をもってカナンの地に戻り、父ヤコブに事の次第を伝えるのですが。ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを許しません。しかし、その後も飢饉は続いて兄たちは再び一家食糧をエジプトに求めるほかなくなり、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなければならない事情を父ヤコブに話します。すると父ヤコブは「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐みを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わなければならないのなら、失ってもよい」と、断腸の思いで答えます。こうして息子たちは贈り物と二倍の銀を用意し、ベニヤミンを連れてエジプトに旅立ちます。
彼らがエジプトに着くと、大臣ヨセフの前で地にひれ伏し、拝しました。ヨセフは以前ユダが話していた彼らの父について安否を尋ねてから、ベニヤミンをじっと見つめ、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」と言うと、弟懐かしさに胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったので、奥の部屋に入って泣きます。そして一同はぶどう酒を飲み、ヨセフとともに祝宴を楽しみました。
ところが、そのヨセフが兄たち一行に思いもよらない過酷な難題を仕掛けるのです。それが44章の「銀の杯」事件です。ヨセフは執事に「あの人たちの袋を、運べる限り多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋にもどしておけ、それから、わたしの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、食糧と一緒に入れておきなさい」と命じます。兄弟一行が発った後、ヨセフはその執事に、すぐに彼らの後を追いかけさせ、なぜ主人の銀の杯を盗んだのか、と言わせます。
兄たちは「どうしてご主人様の御厚意を戴いたわたしたちがそのようなことができるでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、ご主人様の奴隷になります。」と言うのですが、ベニヤミンの袋の中からその銀の杯が見つかります。彼らは衣を引き裂き、悲嘆に暮れながら町へ引き返し、ヨセフの前で地にひれ伏します。        
ヨセフが「お前たちの仕業は何事か」と問いただすと、ユダが答えます。「何と申し開きできましょう。今さらどう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」
それに対してヨセフは「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」と言うのです。

そこからが本日読まれた44章18節以降の箇所であります。
これまでヨセフの物語を読んでまいりましたが、その展開のすべては、今日のこの「ユダの嘆願」と、それに呼応する「ヨセフの言葉」に向けられるためにあったと言っても過言ではないでしょう。
ユダがここでヨセフの前に進み出て、18節「僕の申し上げますことに耳を傾けてください」の「申し上げます」はヘブライ語で「ダバール」という原語で、「宣言する」という意味をもちます。
創世記の天地創造の折、神が光あれ、~あれと「宣言」されると、そのとおりになった。それと同じ意味です。
ユダは私がこの様なことを行った、それゆえにこの様なことになっているのだ、と言うのですが。ただそれだけなら原因と結果という因果応報です。けれど聖書は、これらすべてが神の宣言のもと成っているのだ、と示しているのです。はじめにヨセフが夢で示されたように兄弟がヨセフにひれ伏している様子も、そこから起こされていく救いの出来事も、この神の宣言のもと、そのとおりに成っている、と聖書は伝えているのです。

ところで、ここでユダの置かれている状況は、20年前と全く同じです。当時17歳のヨセフが兄たちからあの荒れ野の深い穴へ落とされ、ヨセフの人生は大きく変えられてしまいました。それはヨセフを溺愛する父ヤコブの人生もそうでした。
それから20年後、今度はヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンの人生が、ユダら兄たちの手に握られているのです。ユダらはあの時のヨセフ同様、ベニヤミンを見捨てて父のいるカナン地方に帰ることも出来ました。20年前に自分たちが犯したことと同じように、帰って父に「弟はやむを得ない事情で失われました」と言うこともできたのです。このようにユダら兄たちは、20年前と同じ立場に再び立たされるのです。
しかしユダは以前とは違っていました。彼はヨセフに言います。30節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子と堅く結ばれていますから、この子のいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのです。」
ユダは、父ヤコブが以前愛するヨセフを失ない、その嘆き悲しむ様子を目の当たりにして大変心責められたことでしょう。父ヤコブは今、末息子ベニヤミンを慰めとしており、そのベニヤミンまで失うとなればどうなることか。「二度と父を悲しませてはならない」と苦悩します。そして彼は「ベニヤミンの代わりに自分が奴隷になります」とまでヨセフに申し出るのです。あの20年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのは、このユダ本人でした。その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると決意するのです。何が彼をそこまで変えたのでしょうか?
それは「悔い改め」です。ユダは20年前に弟ヨセフに対して犯した罪、その重荷を背負い続けてきました。彼は心から神さまの前で悔い改めていたのです。
このユダの変化は単なる状況の変化とか自然に起ったことではありません。年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではありません。罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間性、又人間関係を築いていくことができるとするなら、それは神の前に立ち返る、そのことによってなのです。それは単なる後悔ではありません。神に向き直り、本心から神に立ち返って新しく歩み始めることです。
本日の礼拝の招詞として先にコリント二7章10節が読まれました。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
ユダはまさに、この「神の御心に適った悲しみ、救いに通じる悔い改め、回心を経験するのです。

さて、このユダの言葉を聞いたヨセフは、父の家のことを思い出したことでしょう。兄弟、又父母らが自分にひれ伏す夢を見たこと。それを口にしたため兄たちに棄てられたこと。そして兄たちの神の前における悔い改めの思い。ヨセフは神の摂理ともいえる出来事に「心が震える思いでもはや平静を装っていることができなくなり」、兄たちに2節「自分の身を明かし、声をあげて泣いた」とあります。
ヨセフは兄たちがかつて犯した罪の負い目、その痛みと苦しみから解放されずにそれを負い続けていること。又、父や弟をもう二度と悲しませ、辛い思いをさせるようなことはできないというユダの願いに心打たれたのでしょう。そして遂に、ヨセフは兄たちに「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、自分の身を明かにしました。彼は単に「弟のヨセフです」というのではなく、「あなたたちがエジプトへ売ったヨセフです」と名乗りました。そのうえで自分の身に起こったことを口にします。
これはヨセフにとっては動かしようのない事実でした。ヨセフもまた20年前に受けた事実を忘れることはありませんでした。両者にとってそれは決してうやむやにできることではなかったのです。

新約聖書には、イエスさまが「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃっていますが。私たちはたとえ血のつながった家族や、又兄弟同士であっても、こんなことをされた、あんなことを言われたなどと、なかなか許すことができないことがあります。また些細なことに目くじらを立て、そのことに振り回されることの方が多い者でもあります。人のもつ憎しみや恨みとは恐いもので、10年経っても、20年経っても忘れないで、とうとう墓場までもっていくということもあるわけです。ヨセフにとっても、無かったことになどできやしなかったのです。
しかし、ヨセフは兄たちに対して、5節「今は、わたしをここへ売ったことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません。」と、救い、ゆるしの言葉を語るのです。

ヨセフは自分がエジプトに売り飛ばされたことを「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」「神が大いなる救いに至らせるためであった」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と、自分の苦労や身に起こった試練は、すべて「神」からの出来事だと、確信をもって語るのです。
あの兄たちに穴に投げ入れられ、エジプトに売り飛ばされ、濡れ衣を着せられ、牢屋に入れられたことで不思議にもファラオの夢を解き明かしてエジプトの大臣になったこと。さらに、このようなかたちで20年も遠く離れて生活していた兄たちと再会して、その悔い改めの思いを聞いたこと。
それらすべては「神のご計画」であったというのです。そしてこの神のご計画の目的は、ヨセフの言葉によれば、5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わされた。」7節「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため」であった、と言うのです。これこそヨセフの口を通して語られた宣言、ダバール。神が夢をもって示されていたことが、このような出来事となったという宣言です。
このヨセフの言葉は、兄たちへの単なるゆるしや労わりの言葉ではありません。それはまさに、「神」がヨセフを通して「兄たちの命が救われ、兄たちに神との和解をもたらされ、後の世代に神の祝福、大いなる救いを得させるようになさる」、神のご計画とそのお働きを物語るものだったのです。

私たちもまた、あらゆる出来事や人間関係の中に、これは神さまとしか言いようのないご計画やお働きに気づかされることがあるのではないでしょうか。それを今日のヨセフの物語から聞くことが出来ます。命を救う神は、ヨセフを通してその父母、兄弟たちに、生きるための糧をお与えになりました。又、エジプトの周辺諸国もその糧に与ることになります。人間は食糧によって生きます。けれども、申命記には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神)の口から出るすべての言葉によって生きるのである。」(申命記8:4)とあります。神の口から出る命のパン、神の言葉によって人は真に生きることができるのです。
その命の糧、生ける御言葉は人となって世に現れ、私たちのもとにお出でくださいました。すべての人の救い、主イエス・キリストです。主は地上において苦難を受けられましたが、死に勝利されてよみがえられ、全世界のメシヤ、救い主となられたのです。

神は罪や恨み憎しみに滅びゆくわたしたち人間を、二コリント5章19節「キリストによって御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられているのです。」
本日は宣教題を「救いに通じる悔い改めと和解の言葉」とつけました。神のご計画の中で、兄ユダの救いに通じる悔い改めとヨセフの和解の言葉によりもたらされた救いと平和、シャローム。それは今や、主イエス・キリストを通して、私たち、この世界にダバール、宣言されています。
私たちもまた、主なる神さまの呼びかけに聞き、応えて生きる、救いと平和の道を主と共に歩みゆく者とされてまいりましょう。
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