新年礼拝宣教 マタイ3章13-17節
主の年2025年を迎え、5日目となりました。今年の元旦は例年になく小春日和が続き和やかな新春となりました。私もクリスマス礼拝からキャンドルサービス、歳晩礼拝、元旦礼拝、そして本日の新年礼拝とお勤めを何とか果たすことができ、守られました。、昨年冬からインフルエンザが大流行し、すでに罹られた方もおられるかと思いますが、ほんとうにしんどく症状も様々のようです。これからまた寒くなって来るかと存じます。みなさまのご健康が守られますよう共々に覚え、努めて祈り合いましょう。
さて、今日はマタイ3章から、新年礼拝でのメッセージを聞いていきます。 12月はキリストの降誕、さらに幼少期のエジプトへの避難、そしてイスラエルへ帰国ししガリラヤ地方のナザレ人として歩みだすところまでを読んでまいりました。本日のこの個所はおよそイエスさまが30歳ほどになられたとき、洗礼者のヨハネからバプテスマをお受けになられるその記事であります。3章1節に「その頃洗礼者のヨハネが現れてユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った、とありますが。そのヨハネが11節-12節で主イエスの出現を告知し、次のように言うのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネはエルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ぞくぞくと自分のもとに集まって来る人々に、「罪の告白と悔い改め」に導くためのバプテスマを「水」で授けていたのです。しかし、ヨハネは、自分の後から来るお方、つまりイエスさまは「聖霊」と「火」でバプテスマをお授けになる。自分のなしていることは到底それに及ぶものではない、というのですね。
そして本日の箇所で遂に「その時」、イエスさまがヨハネのもとに来られて、ヨハネからバプテスマを受けたいと申し出るのであります。ここでヨハネは驚くとともに、それをおもい留まらせようとして、「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言うのであります。
彼がそのようにイエスさまをおもい留めようとしたのには、大きく2つの理由がありました。 1つは、ヨハネがイエスさまこそ来るべきお方だと知っていたからです。もう1つは、イエスさまが罪無きお方であり、もとより悔い改めのバプテスマを受ける必要のないお方であることを知っていたからです。遙かに優れたお方が私からバプテスマを受けることなどありえましょうか、とヨハネは率直にそう思ったのです。
そのヨハネにイエスさまはお答えになります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」この「正しいこと」とは、一般的に「間違えのないこと」「良いこと」という意味です。そうすることとは良い事、間違えのない事を行うのだから止めないでほしいということになりますが。しかしギリシャ語の原語でここを読みますと、もっと実体のあるお言葉であったことがわかります。 まずそれは、単に「正しい」というより「義」を表わす用語であり、その義とは「神による裁きと救い」を意味すること。さらに、「すべて行う」と訳している言葉も、「行う」というより「満たす」「成就する」「実現する」という意味なのです。 それらを踏まえて15節を訳しますと、イエスさまは、「神の裁きと救いの義がすべて満たされるのは、我々にふさわしいことです。」と仰っているのです。つまり、イエスさまがヨハネからバプテスマを受けることと、神の裁きと救いの義が満たされる、成就する、実現されていくことが一続きであることが見えてまいります。
イエスさまは遂にこの時からキリストとして救いを成就なさるお方としての公生涯を歩みだそうとされている。洗礼者のヨハネも又、時同じくしてその道備えを成す者として現れた。こうして神による裁きと救いが、イエスさまを通して実現されていくのです。
さて、イエスさまのお言葉を聞いたヨハネは言われるとおりにいたします。そしてイエスさまがバプテスマをお受けになると、すぐ水の中から上がられるのでありますが。 16節、「その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」というのであります。 この神の霊は、イエスさまの誕生の折からイエスさまと共におられましたが。イエスさまがバプテスマを受けられたまさに「その時」、目に見えるような姿、実体をもって水から上がられたイエスに臨まれるのであります。こうして神の裁きと救いの働きにおける確信と力とを受け、その義が満たされていくための活動が開始されてゆくのです。
この聖霊が鳩のように降るというのには、何か特別な意味があるのかとお考えになる方もいるかも知れません。諸説はあっても特にこれだという答えはありませんが。多くの人にとって聖書から鳩ということがまず思い浮かんできますのは、あのノアの箱舟のエピソードであるでしょう。人間の罪深さを嘆かれた天地創造の主である神が、洪水によってそれを滅ぼされますが。ただ箱舟に乗りこんで救われたノアとその家族らが箱舟から鳩を放つと、大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってきました。神は空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃったという、あの箇所ですが。そのエピソードから鳩は、愛と平和の象徴として今も様々なイベントなどでも用いられていますが。
その鳩のように聖霊が降ったイエスさまは、来週礼拝で読む予定の4章で、宣教活動を開始されますが。そこで最初に宣言なさったのは、洗礼者ヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた。」とのお言葉でありました。天の国が私たちのもとに近づいて来る。神の愛と平和が私たちに開かれている。これは唯神が与えてくださる恵みというほかありません。主イエス・キリストによる全く新しい時代の幕開けが、鳩のように降られる聖霊に重なってまいります。
そして、17節、「その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」とあります。イエスさまは「わたしの心に適う者」という御声を、その時どのように聞かれたことでしょう。呼ばれる御神、聖霊、御子キリストの三位一体のお働きがそこから開始されていくのです。また、イエスさまご自身が地上での活動をなさる折々においても、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声にいつも励まされ、前に歩み出していく力になっていったのではないでしょうか。
2025年の歩みが始まりました。今日から新たな標語と聖句を週報の表に載せております。年間標語は「キリストの福音を伝え、証しする教会」年間聖句は「すべての造られたものに福音を伝えなさい。」であります。それはもとより、主イエス・キリストが願われていたことであり、弟子たちもお命じになったお言葉です。この主の福音を共に伝え、証し、共に福音を分かち合う喜びに満ちあふれていきますように。この主の年2025年のすべてが、主の御心に適うものとなりますよう祈りつつ、ここから歩み出してまいりましょう。
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