主日礼拝宣教 マタイ6章5-15節
「お帰りなさい。」
今日はイエスさまが弟子たちに「祈り」について教えられた箇所から御言葉に聞いていきます。
まずこの6章1節から見ますと、「施し」する時にはどのようであるべきか勧められています。それは律法の中でも重視されてきた事ですし、私たちもそこから分かち合いの精神を大切にしています。ただ、それは単に戒めや決り事としてではなく、主イエスの素晴らしい救いとその教えとから聞き、感謝をもって慈善の行いを為すよう招かれているのです。
主イエスは人の思いを見抜かれて、一部の人たちがしているように、徳のある人物だと認めてもらおうとわざわざ人目につくように善行をしないよう戒められます。いくら社会的に認められ報いを受けても、自己顕示欲から出た偽善であれば神からの報いを受けることは出来ないと、言われているのです。
それに続く5節以降のところでイエスさまは、「祈るときも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」とお語りになります。まあユダヤ社会が信仰と結びついていたので、神へ敬虔さをもって熱心に祈る人たちに尊敬の念が寄せられる事はあったのです。しかし、一部の人たちにとって「施し」や「祈り」が神にではなく人からの評価や称賛を得るためのもの、又自らを誇るためものに変質している事をイエスさま見抜きは残念に思われるのです。
私たちが善い行いについても、又祈りについても、人に認めてもらいたい欲求は全くないとは言い切れませんが、真心から行い、隠れたことまでご存じの神に信頼して生きることを主は願われています。
また7節、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」とイエスさまはお語りになります。
異邦人の「くどくどとした祈り」というのは、呪文のように繰り返して唱えるような祈りであります。たとえば祝福を求めるのに「祝し給え、祝し給え、祝し給え、、、ああ祝し給え、、、」と延々と繰り返すように祈ることです。またそれは、頭をフル回転させ言葉巧みに長々と祈ることで聞き入れられると思い込んでいる、そんな祈りをする人に対して、「そうであってはならない」と言われます。す。それがあたかも神に聞き入れられかのように思い込んでいる人たちがいる事を見抜かれるイエスさまは、「彼らのまねをしてはならない」と言われます。そうした祈りの背後には、そうでなければ私の思いや願いが届かない、といった神への不信と信頼の欠如の表われがあるからです。
それに対してイエスさまは次のように言われます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」これはイエスさまならではのすごい信仰のお言葉です。
神への信頼が乏しくなる時こそ、このお言葉を思い出したいです。
天の父は、すべてを知っておられ、隠れたところまで見ておられ、私たちの必要な事までもすべて知っていてくださる。しかも、ここには、イエスさまは「神」とはおっしゃらずに、すべて「あなたがたの父は」と言っておられるのです。それは、神があなたがたの本当の父として何ものにも優る愛で見守り続け、必要をご存じのであられるのです。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」このように私たちを子として、願う前から私たちの必要も不足も、事情や状況もすべてご存じであられる天の父が、共におられる驚くばかりの恵みを戴き、神への信頼を持って生きるものとされてまいりましょう。
さて、イエスさまはそのような天の父である神が、あなたがたの事を忘れず覚えておられるのだから、このように祈りなさいと、「主の祈り」を教えて下さるのであります。
この主の祈りは公の礼拝でも大事にされているように、それは「わたし」という個人の祈りだけにとどまらず、私たちの祈り、さらには、人と人との関係、それはすべての人と世界に向けた拡がりをもつ祈りであります。
今年もお正月には神社仏閣を巡り、健康のため、仕事の祝福、入試合格や就職、縁結びや安産などの祈願をした人々も多いでしょう。又、近年は特に疫病蔓延の収束や平和や安心した暮らしと生活を求めて祈られた人たちも多い事でしょう。
私たちはイエス・キリストとその教えを通して、国や民族、又血縁の家族という枠を超え、一人ひとりが神に愛されている家族であることを覚え、礼拝の中でこの「主の祈り」を祈り続けています。
それは、世界とすべての命あるものが神の作品として創り生かされている存在であり、本来は神の祝福によって命と平和が満ちる世界こそ、神の国、天の国の姿であるといえるでしょう。それが損われています。罪と諸悪が世に働き、神の作品とて創られた生かされている存在が損われる事度もが起り、地は荒れ果て闇に包まれているかのようでありますが。しかし、イエスさまはだからこそ、この「主の祈り」を私たちの祈りとして祈るように、祈り続けるようにとお教えになられます。
「御名が崇められられますように。」と祈ります。この荒れ果てていくような地に、なお「御国を来ますように。」と祈ります。そして「御心が行われますように。」と祈ります。さらに、すべての命とその関係性が損われないように、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」と祈ります。
この前、台湾中部の地域で震度6の地震が発生しましたが。LINEで台中や高雄に住んでいる大阪教会の礼拝に出席していた台湾の青年の方々に安否確認と祈りのメッセージを送り、無事であるとの報告と感謝の応答があり、ホッといたしましたが。祈りは私の願いを超え、さらに隣人、他者、社会、この広い世界にまで及んでいきます。時には海を越え、又ある時には世からも忘れ去られたような処にまでも主の愛と義、御救いをもたらせたまえ、と祈ることができるのであります。この祈りは、主の救いと愛に生かされている証しであるからです。
実は、ルカ福音書11章にもイエスさまが、弟子たちに「主の祈り」について教えておられる箇所があるのですが。その主の祈りの特徴は、自分にとって必要なことを天の神さまはご存じでなのだから、あなたも隣人や他者が今必要としているものが備えられ、満たされるように求めて祈りなさい。と、ここではさらに積極的に他者のことを覚えて、とりなし、祈るよう強く求めておられるのです。
イエスさまが教えて下さった主の祈りが、世界共通の祈りとなって、地上に「御国が来ますように」というビジョンが実現されていくことを願い、祈り続けてまいりましょう。
この主の祈りを一つひとつ見ていきますと、私たちが神に呼びかける「私たちの父よ」という言葉。それは先ほど申しましたように、それはどこか遠い存在としではなく、イエスさまより赦しと和解を得た私たちに、「わが子よ」と呼びかけて下さる、神の絶対的愛に応え、「私たちの父よ」、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行なわれますようにと、まず父なる神の栄光を讃美し、この地にも神の国の到来と御心が行なわれることへの期待を篭めて祈るのです。それはキリストによって与えられた父の神とのむつましい関係、交わりによる祈りであります。
その後に続く11節以降は、私たち人と人との関係における祈りですが。始めに、「私たちに必要な糧を今日与えてください。」とありますけれども、食物は命と直結する問題です。それは大地の実りや海山の産物への祈りでありましょう。今日の時代益々深刻になってきた日々の糧の必要を求める祈りです。又それは、肉の飢え渇きに限らず、魂の糧という霊的な糧をも含んでいます。聖書にあるとおり、「人はパンだけで生きるものでなく神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる。」ものであるからです。
そして私たちは、今日の糧が今私に与えられているように、この同じ時に世界中で飢え渇き、肉の糧を必要としているすべての人たちに必要が与えられたように」と、とりなし祈ります。
8節に、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とイエスさまがおっしゃったように、父なる神は私だけの必要をご存じであられるだけでなく、今飢えと渇き、欠乏と不足の中で苦しむすべての人の必要もすべてご存じなのです。「私たちに与え下さい。」と祈る時、他者の欠乏にも目を向ける思いへと招かれ、導かれます。
またイエスさまは、12節「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と赦しの祈りを教えられます。けれども人を許すというのはなんとも難しいことです。
ユダヤ教の教典タルムードの中にこういう小話があります。
ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれと」と言うと、その男は「お前は鎌を貸してくれなかったから、俺は馬を貸さない」と断って来た。これは復讐である。また同じように、ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれ」と言うと、その男は馬を貸したが、貸す時に「あなたは鎌を貸してくれなかったが、わたしはあなたに貸してやる」と言った。これは憎悪である。そういう話です。まあ馬を貸しても、嫌みを言いながら貸すということは、本当には赦していない憎悪の心の表れというのです。
つまり、人間には何の見返りも報いもない赦しというのはなかなか考えることはできない生きものであるという事です。本心から人はゆるすことが出来るのか否かを考えさせられる逸話でありますが。そうですよね、実際私たちは人から被害に遭った事や人から非難中傷された事は、ずっと憶えており、忘れることができません。が、一方で私が人に危害を与え、人を傷つけている事については何と鈍感な者でしょう。しかし、この主の祈りを祈る度主は私たちに「ゆるし」ということを思い起こさせて下さいます。
この祈りの肝心なところは、「まず、わたしたちの負い目を赦してください。」と祈ることにあります。それは又、わたしの負い目を主イエスが負われ、ゆるされている、と確認する事はとても大切であります。そこから私たちが他者をゆるすという事へと導かれていくのです。
実はこの「ゆるす」ことと、次の13節の「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」とのイエスさまが教えた祈りにも通じるものです。
唯、その祈りを教えられたイエスさまこそ、その「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」というのは、つながっているのです。
「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」人を恨んで憎むその憎悪の応酬の酷さに陥ることがないよう主は願われるからです。憎しみの連鎖は人を不幸にし、魂を滅ぼすほどの破壊力をもっています。そこから救われるには自らその憎しみに決別するほかありません。
イエスさまはゴルゴダの丘で十字架に磔にされたとき、十字架につけろと嘲り叫ぶ人々に対して、ただ、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23:34)と御父に祈りとりなされました。この主の祈りをイエスさまご自身が最後まで生き抜かれました。そのイエスさまの父の神へのとりなしと祈りによって、私は罪ゆるされているのだ。その神の愛を知るとき、私もまた、救われながらゆるし祈る者とされるのですね。今日も主は私たちの祈りの只中におられます。日々私が「主の祈り」を祈る時、実は私も又、祈られています。それは主の教会、主にある姉妹兄弟、又神の御心を行い生きるすべての人たちとつながる神の国と神の義の実現を希求する祈りなのです。これからも日々、「私たちの主の祈り」を共に祈り、主に倣いつつ歩んでまいりましょう。
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