礼拝宣教 コヘレト11・1-6
先日、ある方が著名な医師の直近のビデオをご覧になっていると「コロナ禍の終息が見通せず今後も暫くこういった状況が続くと、さらに人と人とが出会い交流する機会が少なっていき、病になる方も増えて来るというようなことをおっしゃっていた」ということを伺いました。又、別の方からは「コロナ禍の状況下で多くの事件や事故が増加してきています」とおっしゃっていましたが。人との交流やコミュニケーションが不足しますと、ストレスが強くなり、苛立ったり逆に憂鬱になったりする場合が多くなるのでしょうか。さらにそれが続くと心だけでなく体にも不調が表われ、生きる力や魂まで萎えてしまうことにもなりかねないということです。さらなる社会的セーフティーネットも必要とされていることでありますが。
私たちにとりましては、まず、どんな時も共におられる主なる神さまと、又こうして主にあってつながる兄弟姉妹と共に礼拝を捧げ、祈り合うことができる世にはない平安と幸いを与えられていることは、実に尊い恵みであるといえます。
本日はコヘレトの言葉11章1-6節より「あなたのパンを水面に投げよ」と題し、御言葉に聞いていきます。まあこの聖句は比較的よく知られていると思うのですが。この聖句を聞いてまず思うのは、「私が何か行動を起こすことによって結果が生まれる」という人の働きや業についてでありましょう。
ただこの5節に「すべてのことを成し遂げられる神の業」とありますように、そこには人の働きや業に先立つ神の業に信頼をしてゆく信仰が、今日の御言葉の根底にございます。まずそのことを念頭おきながら読んでまいりたいと思います。
1節でコヘレトは「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」と語ります。
「コヘレトの言葉」が編纂された時代はヘレニズム文化が栄え商業、海上交易が盛んでありました。そういう中、如何に利益を得、それを守り管理しながら運営するかということは、現代の企業や事業も同様といえましょう。まあこのパンを水に浮べて流すという表現は海上交易を連想させますが。パンを水に浮かべればふやけて沈んでしまいやすいということを考えますと、海を渡る交易には危険が伴うことをも表しています。しかしそういったリスクを負ってでもなしたことに対しては、月日が経ってから得るものを見出すと、そんな風にも読めます。ただパンは単なる商品に限ったものではないでしょう。人が生活するうえで必要なすべての糧、衣食住然りであるといえるでしょう。
コヘレトは「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」と言いますが。聖書で水、あるいは海は、しばしば不安なもの、恐るべきもの、危険なものを象徴して用いられます。私たちもよく「大海に投げだされた気持ち」などと言いますが。「恐れ」や「不安」は、私たちの心のうちにつきまといます。
最初に申しましたように、このコロナ禍では社会全体に恐れや不安が増幅してゆくような感覚を持たれる方も少なくないかと思います。けれど、今日の御言葉は、私たちに恐れや不安、思い煩うことを神にゆだね、人生に漕ぎ出す積極的生き方へと私たちを促します。
マタイ福音書6章25節以降において主イエスはこうおっしゃいます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥も養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・・信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
この「これらのもの」とは、私たちに必要なパン・生活のすべてであります。生きがいや人生の充実もそうです。今日の5節にありますとおり「すべてのことを成し遂げられる神の業」を主に求め、期待し、神にゆだね、信頼して行く人には不安と恐れからの解放と共に、主がその人の必要を必ず備え、満たしてくださるのです。
又、コヘレトは2節「七人と、八人とすら、分かち合っておけ/国にどのような災いが起こるか分かったものではない」と語ります。
これは、たとえば1隻の舟にパン・財産をすべて載せてしまうと、万が一その船が事故に遭えば財産のすべてを失うことになる。だから、7、8隻の船にパン・財産を分けて交易を行えば先行き何かあっても対処できる、そういう賢明な奨めとも読めます。
まあ、担保するわけですね。これは現代においても当てはまることでしょう。それを一言でいうなら「分かち合っておけ」ということであるかと思います。信仰する者が万が一にも担保するのだの、備えて分かち合っておけだの打算的なことを言うのかと、いう意見はあるかも知れません。けれども、ここで言おうとしているのは、自分と人を生かすための信仰者に向けた教訓であります。
コヘレトの言葉4章では、人間の心の内に潜在する「孤独」について取り上げられていました。「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない(これは人との関わりを拒む人のことですが)。際限なく労苦し、彼の目には富に飽くことがない。自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのかと思いもしない。これまた空しく。不幸なことだ」。
コヘレトはここで自我に欲求を満たすため富に執着し、富を手元に集めることばかりを追い求め、人との関りを疎んじる人の結末の空しさを示します。そこで、コヘレトはこうした孤独な人に対してこう語るのです。「ひとりよりはふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れてれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のいない人は不幸だ」。なぜならそこには「慰める者」がいないからです。コヘレトは人としての人生に不可欠な他者との関り、分かち合いの大切さを語っているのです。神は人間が孤独であることを決して望まれません。分かち合える友がいるなら「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」とコヘレトは語るのです。
三つよりとありますのは、そこにその人と人の間に神さまが共におられるという恵みと幸いの確かさを表しています。そのことを踏まえつつ、本日の「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」との言葉を読みますなら、主から与えられています私のパン、それは富に限らず、才能や時間、知恵や知識や労力を惜まず分かち合う「交わり」の中に、主ご自身が3つめの糸となって力強く、又ゆたかにお働きくださるということであります。
さて、コヘレトは4節、6節で次のように語ります。
「風向きを気にすれば種を蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、わからないのだから」。
先の海上交易の情景からここでは農作業の情景へと移りますが。ここも同様に「主なる神にゆだね、信頼する生き方」について物語っています。
古来よりパレスチナでは農夫は風向きをよんで種を放り上げ、風に乗せて地に種を蒔きます。風向きばかり気にしすぎれば何ヘクタールもの広大な地に種はまけやしません。それはリスクばかりを考え、それで頭がいっぱいになり何もできなくなってしまう人のことを示しています。又、せっかくの刈り入れ時に、雲行きばかりを気にしていますと刈りとることがでません。それも、人の意見やデータばかりが気になり、せっかくの機会を失ってしまう人のようです。そのような機会、チャンスを逸してしまっている人に、コヘレトは5節でこう語ります。「妊婦の胎内で霊や骨組みがどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」。人間の憶測が最善ではなく、すべてを司られるのは神なのだ、とさとします。それだから6節「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから」。
先にも申しましたイエスさまが「思い悩むな」と言われた文末には、「それだから、まず神の国と神の義を求めなさい」と語られています。時が良くても悪くても、その風向きや雲行きに左右されることなく、まず神の国と神の義を祈り求めつつ、前へ歩みだすとき、必要なものすべてをご存じの主がその必要を満たし、備えてくださるのです。この私たちを罪の滅びから守り、必要を満たし備えてくださるいのちの言葉に堅く信頼してまいりましょう。
イエスさまは、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である」と、おっしゃいました。私たちはつい明日の事まで考え、いろいろと思い悩むことがいっぱいです。しかし今日という日を精いっぱい生きることこそが大事、それで十分だとイエスさまはおっしゃるのです。明日のことは神さまが心配くださる。だから、明日のことは神さまにお任せして、私たちは「今日」というこの時この一日を、主に信頼して歩めば良いのです。この「その日の労苦は、その日だけで十分である」と訳された「労苦」の原語は、「悪」とか「災い」とも訳すことができます。
コロナ禍の先行きが見えないような状況に私たちは確かにございますけれども、大事な点は、その「労苦」「悪」「災い」を明日のことまで思い煩い囚われてしまうのではなく、「明日を守られる主イエスがおられる」と、そんな賛美がありましたが。
このように主に信頼して、今を精いっぱい生きる。そこに「あなたのパンを水面に投げよ」と、コヘレトは私たちにいのちの言葉を投げかけます。
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