礼拝宣教 マタイによる福音書8章1-17節
この個所には、イエスさまが「重い皮膚病の人」、又「百人隊長の僕」「高熱のシモンのしゅうとめ」を、次々とおいやしになられたエピソードが記されています。
最初の「重い皮膚病を患った人」ですが。この当時のユダヤ人の社会では重い皮膚病は特に人々から忌み嫌われていた病の一つでした。
「汚れた」病気とみなされ、この病気にかかった人は社会や家族からも引き離されて町や村の外に住まなければなりませんでした。私たちの国においても、かつてはこの病に罹った人に対して予防法をもって非人道的な差別や偏見、隔離政策が長い間続けられました。先般ようやく国としての謝罪がなされましたが、当事者の痛みと苦悩は消えるものではないでしょう。
この重い皮膚病の人も社会の片隅に追いやられ、自分から人に会ったり交流することも気兼ねし、控えるほかないひっそりとした孤独な日々を過ごしていたことでしょう。
ところが2節を読みますと、「その人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」というのです。この人はなんと群衆に紛れこんでイエスさまに自ら近寄って行ったというのです。
その頃イエスさまは、4章23~24節「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされたという評判が広がり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とあります。
その人もうわさを聞いてそのイエスさまが身近なところにまで来られていることを知り、この機会を逃すものかとの思いで、集まった群衆の中に入っていくのです。
この人は大勢の群衆の一人に過ぎませんでした。しかしこの人の中で、「イエスさまによるなら自分に何かが起こるに違いない」という期待が大きく膨らんでゆき、人々の厳しい視線を受けながらも、イエスさまにどんどん近寄っていくのです。そして期待は遂に確信と変わりイエスさまの前に「ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言うのであります。主イエスへの全幅の信頼を言い表します。
この人が自分の願いだけが叶いますように、とイエスさまにそう求めてもおかしくない中、「御心ならば、なります」と言うのです。それは、すべてを御手のうちに治めておられる神を信じ、主イエスのうちにその権威(権能)を見たからこそ、言い得たからです。
するとなんと、「イエスさまが手を差し伸べてその人に触れ」られます。重い皮膚病の人に触れれば触れた人も「穢れ」ることになると、当時のユダヤ社会では言われていました。それにも拘わらずイエスさまは自らの手を差し伸べてその人に直接触れ、「わたしは強く望む。清くなれ。」と言われたのです。私たちの聖書には「よろしい。清くなれ。」と訳されておりますが。原語の直訳(岩波訳聖書引用)によれば、「わたしは強く望む、清くなれ。」なのです。
すると、「たちまち、皮膚病は清くなった。」アーメン。この人のうちにある信頼、イエスさまのうちに働かれる神の権威(権能)、その愛が一つに共鳴し、周りの人々にまで拡がり、神の栄光が顕されていくのですね。
この人はそのような信仰によって単に病が癒やされただけでなく、心も魂も全人的な救いと解放を受けるのです。
14節以降には、「イエスさまはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱で寝込んでいるのを御覧になり、その手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスさまをもてなした。」とありますが。それは主イエスに従うペトロの信仰、その祈りを通してもたらされたいやしでもあるでしょう。ペトロも主イエスとそのお言葉の権威(権能)を見聞きして、家族を置いて主イエスに従いましたが。それでも家族への愛情や心配はいつも祈りのうちにあったのでしょう。主イエスはきっとそれをご存じだったのでしょう。
そこでも、当時の慣習からすれば人が病人に触れればけがれを負うといわれていた社会の中で、苦しそうに寝込んでいるペトロのしゅうとめの手に触れていやされるのです。病人やケガ人に処置を施すことを「手当」と言いますが。他者の痛みや苦しみに手を当てずにはいられない、それはそういったとことから来ている言葉です。この主イエスによってあらわされた神の愛に本当に慰められます。
イエスさまにいやして頂いたペトロのしゅうとめは、その感謝と喜びをもってイエスさまをもてなして、愛なる神をほめたたえことでしょう。
次に「百人隊長の僕のいやし」のエピソードに目を向けてみましょう。
この百人隊長は、イエスさまの言葉が律法の教師や宗教的指導者たちとは違うこと。又イエスさまが分け隔てなく人と接し、いやしの業をなさる事を知り、それを心に留めていたのでしょう。
当時のユダヤはローマの支配下にありましたから、多くのユダヤ人はローマの兵隊長などと言えばうとましい存在でしたし、「神」を知らない異邦人とみなしていたわけです。
しかしその日、この百人隊長はイエスさまがカファルナウムに入られたことを聞きつけ、自分の立場をも置いて、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」とイエスさまに懇願するのです。
この百人隊長は、部下がひどく苦しんでいることがいたたまれず、見るのに忍びなかったのでしょう。僕の痛み苦しみをまるで自分のことのように心痛め、人にどう見られようがお構いなしにイエスさまの前に願い出るこの異邦人の百人隊長。きっとイエスさまはそこに律法の精神、隣人愛をご覧になられたのではないでしょうか。
その彼にイエスさまは、「わたしが行って、いやしてあげよう。」と即答なさるのです。
ところが百人隊長は、「いや、それにはおよびません」と、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えます。
普通に考えると、イエスさまに来て頂くほうがありがたいように思います。確実にいやしていただけると考えるのではないでしょうか。しかし百人隊長は軍人としての職業柄人一倍「権威」のもつ効力とその「言葉の力」を知っていました。
彼は言います。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、僕はいやされます。」
なんとこの異邦人の百人隊長はイエスさまの言葉と行いが、神からの権威によるものだと確信していたのです。権威ある者の「言葉」の重みを知る彼は、ただひと言、主イエスがお命じになることを求めたのです。イエスさまのお言葉は必ず効力をもってそのとおりになると、信じていたからです。
イエスさまは、その百人隊長の言葉を「聞いて感心し、従っていた人々に言います。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西(異邦人の地)から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
このイエスさまのお言葉は、前7章21節以降で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」とおっしゃったお言葉とも相通じているといえるでしょう。
聖書をどんなに勉強し研究しても、又何か立派な働きや大きな業績をなしたとしても、神の御心、その主の御言に生きるのでなかったら虚しいといっているのです。大切なことは神の御言であられる主イエスを信じて生きるところにあるのです。
始めに重い皮膚病の人が、「主よ、御心ならば、おできになります。」と主イエスを信頼したように。又、百人隊長が「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、僕はいやされます。」と主イエスを信じ、「唯お言葉を下さい。」と願ったように。さらに、ペトロが主イエスを信じ従い、主イエスにしゅうとめをいやしていただいたように。主イエスに信頼し、御言葉に生きる人の歩みを確かなものとしてくださるのです。
本日礼拝の招詞として107編20-21節の御言葉が読まれました。
「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」
この詩編の御言葉はイエス・キリストによって実現されました。
8章16節「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤ(53章)を通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担た。』」
そこにはさらにこう記されています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
この彼こそ、「メシア」「キリスト」なのです。
最後に、13節で「主イエスが百人隊長に、『帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように。』と言われたちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」とありますが。
先週の水曜日午前中の祈祷会で、今日の礼拝の箇所の予習も兼ねた聖書の学びを共にした後、祈りの時に、礼拝にも集っておられるNさんが、近所で「路上生活をされている方の足の皮膚の状態がかなり悪く、どんどん衰弱して危ない状態なので「病院に行きましょう。」と何度も何度もお声をおかけしているのだけれど、その人は一切言うことを聞いてくれないので困っていますので、どうかお祈りくだい。」とのことでしたので、そこに集われた方々と共に祈りました。そうしたところが、その日の夕方にNさんからのメールが届いたのです。メールを開くと、「グッドニュースです。お祈りいただきましたガード下のおじさんはさっき病院に行ったとの事です。このところ神の摂理を考えています。」とのメッセージでした。
その2日後、私も越冬夜回りに参加させていただいた折、この救急の病院に行かれた方の報告を聞きました。そこにはNさんもそうですが、いろんな方々がこのおじさんを見守り続けてきて、この方の状況が皆で共有され、つながったことが救助になっていったということでした。
いずれにしましても、神の御心を信じ、祈り求めていく大きな恵みが私たちに与えられていることは本当にグッドニュース。福音ですね。
私たちは愛といつくしみ深い神を信じ、「御心ならばあなたはおできになります。」との信頼をもって御言に生きる幸いを、今日のエピソード、主イエスのお言葉から示されました。思い通りにしてくださった時も、自分の思うようではなかったとしても、神さまの御心は私たちに最善であることに信頼し、御言葉に生きてまいりましょう。
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