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聖家族の避難路

2024-12-29 14:10:57 | メッセージ
歳晩礼拝宣教  マタイ2・13-23 

2024年最後の主日礼拝を共に捧げております。
今年も、雨の日も風の日も、一度も礼拝、祈祷会が途切れることなく守られ、捧げられましたことを主に感謝します。主を慕い求める皆さまの信仰に共に励まされましたことをうれしく思います。
一方、今年は3人の方々が主のみ許に召されました。それぞれ長きに亘り、この地上にあって貴い信仰生活を歩み通され、主に祈り仕え続けて来られた方々でありました。地上の別れは寂しいですが、讃美歌「神ともにいまして・・・また会う日まで」の歌詞のように、主のみ許でまたお会いできる希望をもって、私どもも信仰の先達の歩みに倣う者でありたいと願います。

さて、先週は、救い主・御子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝とキャンドルサービスを喜びのうちに捧げることができ、ほんとうに感謝でした。
そのように、すべての人びとの希望、神の救いの到来を顕すクリスマスでありますが。今日の聖書個所を読みますと、世の力がそれに敵対して神の救いの御子を亡きものにしようとしていたことがわかります。
この新しい救いの王、メシアは本来、まずはもちろんユダヤの人々、エルサレムの住民、そしてヘロデ王の救いの喜びのためにお生まれになったのです。それにも拘わらずヘロデ王は自分の権力と地位を揺るがしかねないものと、恐れを抱きます。さらに、メシアを待ち望んでいたはずのエルサレムの住民も、なぜか同様の不安を抱くのです。
今の時代も不安定で様々な問題をはらんでいます。だれもが自分の生活を守ることで精いっぱいという現実がありますが。そこで、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればみな添えて与えられる。」とおっしゃった主の御言葉の真理、その奇しきみ業が多くの方々にも伝えられ、分かち合われていくようになると、本当にすばらしいなあと思います。

話を戻しますが。占星術の学者たちからの報告を待っていたヘロデ王は、その学者たちが戻って来なかったことに大いに憤り、ベツレヘム一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺す命令を軍隊に下します。
一方、占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」と告げます。
すると、それを聞いたヨセフはその主の天使の言われたとおり起きて、幼子イエスとマリアを連れてヘロデ王の恐ろしい追っ手から逃れ、エジプトに身を寄せるのです。(週報表にその光景を描いたレンブラントの2つの聖画を載せていますが。)
しかしその時、ベツレヘム一帯において軍隊による幼児虐殺の惨劇は起こされました。
なぜ、この子たちは殺されなければならなかったのか。それはわかりません。しかしこれは神さまの御心に反する人の罪のなせる仕業であります。今も世界各地で起っている戦争や紛争の悲劇が後を絶えません。同様に子どもや弱い立場の人たちが巻き沿いに遭い、又、人間の盾にされて無残にも殺されています。
幼子イエスがエジプトから再びイスラエルに戻られた後、彼はこの幼児虐殺の惨劇を知って、ご自分の身代わりになったとも言える多くの幼子の死と、人の罪のおぞましさに心を痛められたことではないかと想像いたします。

さて、この聖家族はエジプトからイスラエルに再び帰って来る折も、また主の天使がヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」とのお告げがなされました。その時もヨセフは起きて、子供とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来るのであります。
身重のマリアを妻に迎え入れたヨセフの大きな決断に際しても、主の天使が現れなさるのです。
神はご意志をもって主の天使をお遣わしになり、彼らを守り導かれるのです。これは主の者とされて生きる人たちも同様です。世にあって困難や苦難はありますが、その折に主はたえず導いて下さるのです。問題は、主の呼びかけに聞き、目覚めるかどうかです。
主の天使は寝ているヨセフに「起きなさい。」と声をかけました。それは単に寝入っているから起きろと言われたのではなく、「今、神の御心に目覚めて歩みなさい。」ということです。
ヨセフだってそれは故郷に帰りたいと思いながらも、幼子虐殺の恐ろしい記憶は消えず、この先家族はどう生きていけばよいのかと思いめぐらすこともあったことでしょう。このままエジプトにいれば安全かとも思えるところです。しかし彼は主の呼びかけに目覚め、恐れや不安を主にゆだねて起きあがるのです。
その姿は、神の救いと恵みを拒み、敵意をむき出しにしたヘロデ王とは対照的です。 
この「起きて。」という言葉。それは、イエスさまが「目を覚ましていなさい。」とお弟子たちにおっしゃった事と同じものです。それはまた、不安や恐れで心が揺れ動いている私たちに対しても、神さまは「起きよ」「目覚めよ」と呼びかけ、真に生きるべき道へ導こうとしておられるのです。大切なのは、主の呼びかけに心開いて応えるか 否かということであります。

以前にもお話しいたしましたが。スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴェという方が書いた『ともしび』という小説をご紹介します。この小説をもとに絵本が邦訳されています。この主人公は、神の与えられた自分の人生を真に見出すものとなった、そんなお話であります。 少し長いですが、おつきあいください。
昔、イタリアのフィレンツェに住んでいたラニエロは、勇ましく力も強く、喧嘩ぱやい い男で、彼はその勇気と豪傑ぶりとをいつもみんなに認められたがっていました。ところが、彼が人の気を引こうといろいろとやらかすので、町の人々は彼を乱暴で傲慢な男だと思っていたのです。「みんなに認められるためには兵士になって、戦で手柄を立てるのが一番だ。そして、いくさの戦利品をフィレンツェのマリアさまの前にささげれば みんなのうわさにのぼるだろう。」そう考えたラニエロは兵士となり、その名を国中にとどろかせます。その後彼は大きな手柄を立てたため、キリストのお墓の前に燃える尊いともしびを最初にろうそくに移すことをゆるされるのです。
「ラニエロ、いくらなんでもそのともしびをフィレンツェまでお届けするわけにはいくまいな」「ともしびは消えてしまうに違いないな」と言ってみな笑います。それを聞いたダニエロはむきになって、思わず「よし、このともしびを、おれさま一人でフィレンツェまで運んでみせるぞ」と宣言してしまいます。 あくる朝早く、ラニエロはマントの下に鉄のよろい、刀とこん棒を着け、馬にまたがってともしびを手にエルサレムを出発します。
「な-に、こんなことは簡単なこと。」と、たかをくくっていたラニエロでしたが。そうやすやすとはいきません。馬が足早になるとともしびは揺らめき、今にも消えそうになりマントでかばったり、後ろ向きに乗ってなんとかともしびを守ろうとします。山辺ではおいはぎに襲われ、取り囲まれて、ふだんなら簡単に腕力で追い散らすことが出来るのですが、そんなことしたら、ともしびが消えてしまうかもしれません。彼は無抵抗のまま身ぐるみ剥がれ、残されたのはおいはぎのひどいやせ馬と、ぼろぼろの着物、そして二束のろうそくだけです。なんとかともしびは無事だったということで旅を続けます。途中、エルサレムを目指す人のむれに出くわします。ともしびを手にみすぼらしい格好をしてうしろ向きでやせ馬に乗っているラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいます。ラニエロはさすがにかっとなって彼らになぐりかかろうとした時、気がつくと、ともしびが枯草に燃え移っています。ああ大変だ、慌てて火をろうそくにともし、また旅を続けます。ひとふきの風、ひとしずくの雨でも、ともしびは消えてしまうので、何とか消えないようにと、そればかりを願いながら、彼は思うのです。「こんなかよわいものを必死で守ろうとするなんて、生まれて初めてのことだ。」とうとう替えのろうそくがなくなってしまい、もうこれで終わりだと思ったその時でした。巡礼たちが岩山を登って来て、その中の年取った女の人をラニエロは助けて山の上まで登らせてあげます。するとその人はお礼に自分の持っていたろうそくをくれたので、ともしびは守られました。彼はそうやってともしびを大事に守って、旅を続けるうちに、いくさでの数々の手柄や名誉や戦利品など、もうどうでもよくなってきました。荒々しいいくさより、優しく和やかなものを喜ぶようになっていくのです。そしてとうとうフィレンツェに着き、その城門から入っていくと、町は大騒ぎになり、ラニエロはともしびが消されるのをふせぎ、高くかかげながらようやく祭壇の方へと進んでいきます。前のラニエロを知る人々は、「エルサレムからともしびを運んで来たなんてうそだ、証拠を見せろ。」と騒ぎ、ラニエロを取り囲みます。
その時です、急に一羽 の小鳥がまいこんできて、ともしびにぶつかり、火を消してしまうのです。ラニエロの目に涙がにじみます。ところがその時だれかが、「小鳥が燃えている、羽に火が燃えついたぞ。」と叫びます。小鳥はひらめく炎のように、聖堂の中を飛びまわり、遂に祭壇の前に落ちて、息が絶えるのですが。ラニエロはかけよって、小鳥の翼を燃やした残り火で、祭壇のとうそくに遂にあかりを灯すのであります。

私がこのお話を初めて聞いたのは40年前でした。ラニエロが新しい人に変えられていく過程がとても印象的で、それ以降このお話がずっと好きになり私の心のうちにも生きています。今の時代もそうですが。もっと強くならなければ、もっと頑張らなければ、乗り越えなければという思いで逆に押しつぶされそうになっている人がたくさんいると思うのです。また、世の力、社会のひずみによって弱い立場に立たされたまま切り捨てられる人も多くおられます。よく小さい命、かよわき命を脅かし蔑ろにするなら、その者もその社会全体も危ぶまれ。損われてしまうことになると云われますが。
あのヘロデ王によるジェノサイドが、クリスマスのキリスト誕生の喜びを奪おうとしたように、今日の時代においても暗く息苦しいような出来事が多々起こっています。しかし、希望のともし火を保ち続けたい、と願います。

礼拝の始めに、招詞としてマタイ25章40節の御言葉が読まれました。
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さき者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
あの、荒々しさと主義主張の鎧を身にまとっていたラニエロが、今にも消えそうな小さなともし火をそっと包み守る中で、柔和で優しい心をもつ人に変えられていったように、そのような人たちで地が満ちますように祈ります。
最後に、本日の箇所は、ヨセフとマリアが小さくか弱き幼子イエスの命を守りぬいていったその旅路でありますが。けれどそれは、ヨセフもマリアも実は幼子イエスの存在に守られ、導かれながらの信仰の旅路であったのではないでしょうか。
あの「ともしび」の物語がそうであるように、生ける神さまはこの時代、私たちの日常の中に、共におられます。確かな希望のともし火を新たな年に向かって掲げてまいりましょう。
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