礼拝宣教 フィリピ3章10-16節 24/9/1 召天者記念日
本日は召天者記念日として先に主のもとに旅立たれた兄弟姉妹のありし日をしのびつつ、十字架と復活の主をほめたたえ、揺るぐことのない希望が私たちにも与えられていることをおぼえてまいりたいと思います。
先ほど、フィリピの信徒への手紙の3章の箇所が読まれました。
このフィリピの教会は、パウロが東ヨーロッパで最初に建てた教会でした。その経緯は使徒言行録16章のところに記されております。パウロが第2伝道旅行の折にフィリピを訪れて伝道し、教会がたちあがります。パウロはその後、第3回目の伝道旅行の折にもフィリピの教会を訪ねています。
このフィリピは古代マケドニア王国があった当時のローマ帝国の植民地でした。そこには退役軍人が沢山おり、愛国主義者の多い事で知られていました。
パウロがその地で、「イエスは真の王」であると宣べ伝えようとすると、それはもう強い反発と非難中傷の標的にされたのです。フィリピの信徒たちもまた、パウロと同様の迫害を受けていました。しかし、フィリピの教会は信仰にしっかりと立ち、主イエスの教えに忠実でした。
フィリピの教会は決して経済的に豊かとはいえませんでしたが、後に投獄されたパウロのために、信徒の一人であったエパフロディトに支援金を託し、パウロへ届けさせていました。パウロはそのお礼と喜びの福音について伝える手紙を獄の中でしたため、エパフロディトに託したのが、このフィリピの手紙です。
この手紙の中心は次の2章6以降の言葉にあると言われています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
これはいわゆる「キリスト賛歌」と言われています。
ローマ皇帝下の植民地フィリピにおいて、真の王であるメシア、救い主、イエス・キリストの受肉とその生涯、死とよみがえり、昇天を高らかにほめたたえた彼ら。この賛歌から、迫害下にあっても、なおその信仰の道を辿り行こうとする人々の思いが聞こえてくるような気がします。
さらにパウロは、この手紙を通して、地上にあって「キリスト者として生きる」とは、どういうことかを説き明かします。今日の箇所からそのメッセージを共に聞いてまいりたいと思います。
まず、この手紙の背景でありますが。パウロは「イエスこそ救いの主(キリスト)」と、福音を伝えていった事で捕えられ、獄中に閉じ込められますけれども、思いがけないことに牢の番兵や兵営全体にも主イエスの福音を伝えることができ、キリストの救いに与る人たちが起こされていくのです。
さらに、投獄されてもなお愛をもって福音を伝えて生きるパウロの姿を知って、コロサイの教会の人々も信仰の確信が強められ、恐れることなく益々勇敢に、「イエスこそ救い主」と、宣べ伝えていくようになるのです。パウロは、自分が投獄されたことさえ、「福音の前進に役立った」と記しています。
また、パウロを妬み、敵対心、争いの念、不純な動機から伝道していた人たちもいました。しかしパウロはそれさえも、「キリストが告げ知らされていることを喜んでいる」というのです。
このようにパウロは逆境の中に働かれる主の御業を仰ぎ見て、心配してくれたフィリピの信徒たちを励まし続けるのです。
パウロはどうしてそのようにできたのでしょうか。
それはまさに、パウロ自身がキリストとその福音に捕えられていた者であったからです。彼は神の愛に生きる人生の意義と希望を見出し、喜びに満たされていたのです。その喜びはだれも奪うことはできません。
さて、本日のフィリピ3章10-11節でパウロはこう述べています。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
ここに「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とありますが。キリスト者はキリストと共に古き肉なる人に死んで、キリストの新しい命に与って生きていますが。それはキリストを信じバプテスマを受けて、はい、それで終りということではありません。
大事なことは、この命の日々がやがて来る神の国の完成に結びついているということです。
そして今も復活の主の力は聖霊を通して働いており、やがて訪れる主の来臨とともに朽ちる者が朽ちない者に変えられる(Ⅰコリント15章)とありますが、その大いなる希望は私どもにも与えられているのであります。
一方でパウロは12節以降にこう述べています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。」
パウロがこのように言ったのは、フィリピの信徒の中に「自分たちは既に救いを得ている、その上、割礼を受けて戒律を守っている」と、まあ自分たちは完璧なキリスト者だというふうに誇り高ぶっていた人たち、自己完結していた人たちがいたからです。しかしそれはキリスト者となる前のパウロ自身の姿でもあったのです。自分は正しいと、自己正当化してキリスト者とキリスト教会を激しく迫害していたのです。まさにその時、彼は真の救い主、キリストと出会い、それまでの誇りや高ぶりが如何に愚かなことであったかを思い知って心打ちのめされるのです。それは自分の力や業で救いを勝ち取っているなどとは言い難い自分を知っていたのです。
パウロは又、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです」と言っています。
この「後ろのものを忘れ」と述べたのは、単に過去のことを忘れ去りなさい、と言っているのではありません。この「後ろのもの」とは、自分の才能や能力、地位や立場、また世の中の基準に価値をおき、それらを頼みとしていた古き自分、キリストを知る以前の人生のことです。それらを、もうかなぐり捨て、「前のもの」、すなわち十字架と復活のキリストを深く知り、キリストに倣って生きる人生を目指しましょう、と言っているのです。
パウロは信仰の生涯を、陸上競技に参加するランナーにたとえます。そのスタートは、キリストの十字架と復活の福音を信じた時点であり、そして目標を目指して、ヨーイドン!で走り出したのです。ここにいらっしゃるお一人お一人それぞれ、そのスタートから走り出して、そして今がございます。今日までに本当に様々な出来事があり、時には信仰の歩みが停まってしまうような事があったかも知れません。けれども、今ここにいらっしゃるということは、ご自分の信仰の生涯を走り続けておられることにほかなりません。すばらしい恵みです。
また、私たちの今現在は、ゴールに向けたその途上であります。中には走っているのでなく、歩くのが精いっぱいという方もいるかも知れませんが。でも心配はいりません。聖書には、年老いても、主が背負っていて下さるとあります。大切なのは、ひたすら主と共に歩み通すということです。ゴールを目指す道は山あり谷あり、その時には苦しさ、しんどさ、つらさも経験します。又、内に外にと闘いも起ってまいります。けれどもそれは理由もなく、意味のない苦しみや闘いではありません。何よりも、主はそこで共におられ、私たちが忍耐強く、ひたすら目標を目指して日々歩むようにと、御言葉をもって闘うすべを教え、励まして下さいます。私たちはそこで練られ、さらなる希望へと導かれます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むというということを、わたしたちは知っているのです」(ローマ5章)と聖書にある通りです。
そのようにゴールを目指す者にとって大切なことは、その途上にあるのです。
ヨハネの黙示録1章17節には「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と記されていますが。その主は、ヨハネ福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、おっしゃいました。
主は初めと終り、スタートとゴールにおられるだけでなく、その道そのものが、主イエス・キリストなのです。主ご自身こそが、御父(御神)のもとに行く道であるのです。
それは、フィリピ3章20節に「わたしたちの本国は天にあります。」その御神へ至る道なのです。完走者に与えられる栄冠は地上の朽ちるものでなく、天の御国で主御自身から戴くものとの希望が私たちに与えられているのです。
日々の歩みの中で、主イエスに信頼し、主イエスを追い求め、主イエスの道を進みゆく人を、神さまは新しい命に生かし、守り、導いて下さいます。そして遂には復活の新しい体、栄光の姿に変えてくださる。それはキリストの教会に連なる私たち共通の希望であります。
だから、パウロは信徒たちに向け、4章1節「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と語りかけます。
パリでオリンピックが開催され、今はパラリンピックが行われておりますが。選手たち、アスリートたちには「勝者」と「敗者」と、はっきりと勝敗がつきます。金メダルは最後まで勝ち抜いた勝者にしか与えられません。この勝者にはサクセスストリーや英雄伝説が生まれます。敗者はどうでしょうか。再起をかけた再チャレンジでしょうか。あるいは引退という幕引きでしょうか。
先にも申しました。パウロは、「きょうだいたち、なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と記していますが。
ここに「目標をめざして」とあります。私たちの人生の折々においても、私たちは目標を立て、その目標を達成するための計画をたて、日々なすべきことを定め、それに向かって努め、時にはそのために自己規制や節制もしなければならないでしょう。自分の好き勝手なことをやっていればその目標を達成することは困難だからです。
パウロはⅠコリント9章でも「競技する人は、皆、すべてに節制します」と、記しています。
パウロはさらに、「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だからわたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」と、こうも記します。
重要なのは、パウロがここで「目標をめざして」と述べた目標は、「朽ちてしまうような冠を得るのではなく、朽ちない冠を得る」ことであります。
それはまさに、私たちの人間の姿となって地上に生まれ、死よりよみがえり、復活のからだの初穂となられたキリストが、わたしたちの朽ち果ててしまうような体を、「御自分の栄光ある体に変えてくださる」ということなのです。そこに私たちの真の希望がございます。この朽ちない冠を得るために、主イエス・キリストの命の道をひと足ひと足ふみしめてまいりましょう。