今どき偉人伝は流行らず、パンダ情報の方が大切と思う人もいるとは思う。
だが、ひとりの人間として、
どうしても知っておかなければならないことや人物が存在する。
とりわけ昨今の中日関係を考えるに、
この岡崎嘉平太、周恩来が共同で実現したことを振り返る作業は決して無意味ではないだろう。
偉そうに言っている私も、実は昨日まで知らなかった。
昨日私は偶然、下のブログを見つけたのだが、文を読みながら泣けて仕方がなかった。
学校で商務日語クラスを担当しているので、
「LT貿易」「日中覚書貿易」「岡崎嘉平太」という‘語句’は見知っていたが、
正直、ここまでしてくれはった人とは!
不勉強を恥じ、ここに紹介する次第である。
いいな、と思ったら即行動!これ、私の長所かな。(´∀`*)
(以下、青字がブログ引用文)
―――――――――――――――――――
英考塾―現代に思い、未来を想う。灰中に炭火あり― 2012年09月26日
「岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人」 ブログ人:二代目・風虫
「中国には、『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」
中国の元首相「周恩来」は、そう話し始めた。
時は今から40年前(1972)、戦争により国交を断絶していた日本と中国が、まさに国交を正常化させんとする、その2日前の夜のことである。それはすなわち、歴史的な「日中国交正常化」の前夜であった。
「まもなく田中角栄総理が中国に来られて、日中国交は正常化します。しかし、田中総理が来られたから国交が回復するのではありません。これまでの長い間、困難な時期にも日中間の友好に尽力された方々があったからこそ、正常化という念願が叶うのです」
日中国交正常化という「甘い水」が湧きいでたのは、それまでに汗を流して「井戸」を掘ってくれた人たちがいたからこそである、そう周恩来は言うのであった。
そして、その井戸を掘ってくれたと周恩来が感謝する人物、その一人が「岡崎嘉平太」であった。
◎暗黒の日中関係
「岡崎さんが今の中国と日本の様々な問題を知ったならば、間違いなく心配で、居ても立ってもいられなくなるでしょう」
岡崎嘉平太を心から尊敬するという、ある中国人はそんなことを言った。
岡崎の生きた時代は、日中関係が暗黒の時代。1894年の日清戦争、1937年からの日中戦争(第二次世界大戦)、そして日本の敗戦…。今とは比べようもないほど、日本と中国の関係は暴力的で険悪な状態が続いていた。
そんな交戦・断絶の関係の中、岡崎嘉平太は日中関係の改善に生命を賭け、そしてそれをまさかまさか、成し遂げたのである。
「隣りの国と、いつまでも敵対しているのはおかしい。主義の違う者の悪口を言って、蹴飛ばして済むか、そういうわけにはまいりません。いつかは友好親善をやらなきゃいかん。それは朝になれば東から太陽が昇るのと同じようなことなんです」
そうした信念を持っていた岡崎は、日本人と中国人がお互いを知り合うことが何よりも大切だと考えた。
「まず、相手を知る。とにかく行ってみる。向こうの人と直接会って、話をしてみる。そうすれば、戦争によって『カラカラに乾いてしまった感情』もいずれ戻ってくる」
生涯を通して、岡崎嘉平太は100回以上も中国へ足を運んでいる。まさに死ぬまで中国へ直接行き、中国人と会い、そして話をしてきたのであった。
以下、あまりに長いので省略。続きの項目だけ書くと、
◎中国人・留学生との出会い
◎泥だらけの額
◎貿易構想
◎親友
◎抗議
◎唯一のパイプ
◎粘り
◎新たな風
◎ささやかな食事会
◎友の死
◎雨中嵐山
◎中国古来の徳
◎100回くらいでは分からない
◎井戸の水
最後に、このブログ人「二代目・風虫」さんはこう書いている。
ぜひ「岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人」(seesaaブログ 英考塾)
を読んで欲しい。
海を挟んで国境を接する日中両国、時には風波も立つだろう。
それでも、両国2000年の歴史のその大半が平和的であったことは、偉大なる事実である。
それは岡崎嘉平太や周恩来のような人々が、永い歴史に点在してくれていた、そのお陰でもあるのだろう…。
時おり、埋まりかける井戸。
それをますます埋めようとする人々もいるかもしれない。それでも、岡崎嘉平太は掘り続けた。上から泥をぶっかけられても…。
あれから40年。
今の日中関係に、岡崎ならば何を想い、何を成すのであろう?
出典:NHKアーカイブス 「命をかけた日中友好 岡崎嘉平太」
http://eikojuku.seesaa.net/article/294242919.html
だが、ひとりの人間として、
どうしても知っておかなければならないことや人物が存在する。
とりわけ昨今の中日関係を考えるに、
この岡崎嘉平太、周恩来が共同で実現したことを振り返る作業は決して無意味ではないだろう。
偉そうに言っている私も、実は昨日まで知らなかった。
昨日私は偶然、下のブログを見つけたのだが、文を読みながら泣けて仕方がなかった。
学校で商務日語クラスを担当しているので、
「LT貿易」「日中覚書貿易」「岡崎嘉平太」という‘語句’は見知っていたが、
正直、ここまでしてくれはった人とは!
不勉強を恥じ、ここに紹介する次第である。
いいな、と思ったら即行動!これ、私の長所かな。(´∀`*)
(以下、青字がブログ引用文)
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英考塾―現代に思い、未来を想う。灰中に炭火あり― 2012年09月26日
「岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人」 ブログ人:二代目・風虫
「中国には、『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」
中国の元首相「周恩来」は、そう話し始めた。
時は今から40年前(1972)、戦争により国交を断絶していた日本と中国が、まさに国交を正常化させんとする、その2日前の夜のことである。それはすなわち、歴史的な「日中国交正常化」の前夜であった。
「まもなく田中角栄総理が中国に来られて、日中国交は正常化します。しかし、田中総理が来られたから国交が回復するのではありません。これまでの長い間、困難な時期にも日中間の友好に尽力された方々があったからこそ、正常化という念願が叶うのです」
日中国交正常化という「甘い水」が湧きいでたのは、それまでに汗を流して「井戸」を掘ってくれた人たちがいたからこそである、そう周恩来は言うのであった。
そして、その井戸を掘ってくれたと周恩来が感謝する人物、その一人が「岡崎嘉平太」であった。
◎暗黒の日中関係
「岡崎さんが今の中国と日本の様々な問題を知ったならば、間違いなく心配で、居ても立ってもいられなくなるでしょう」
岡崎嘉平太を心から尊敬するという、ある中国人はそんなことを言った。
岡崎の生きた時代は、日中関係が暗黒の時代。1894年の日清戦争、1937年からの日中戦争(第二次世界大戦)、そして日本の敗戦…。今とは比べようもないほど、日本と中国の関係は暴力的で険悪な状態が続いていた。
そんな交戦・断絶の関係の中、岡崎嘉平太は日中関係の改善に生命を賭け、そしてそれをまさかまさか、成し遂げたのである。
「隣りの国と、いつまでも敵対しているのはおかしい。主義の違う者の悪口を言って、蹴飛ばして済むか、そういうわけにはまいりません。いつかは友好親善をやらなきゃいかん。それは朝になれば東から太陽が昇るのと同じようなことなんです」
そうした信念を持っていた岡崎は、日本人と中国人がお互いを知り合うことが何よりも大切だと考えた。
「まず、相手を知る。とにかく行ってみる。向こうの人と直接会って、話をしてみる。そうすれば、戦争によって『カラカラに乾いてしまった感情』もいずれ戻ってくる」
生涯を通して、岡崎嘉平太は100回以上も中国へ足を運んでいる。まさに死ぬまで中国へ直接行き、中国人と会い、そして話をしてきたのであった。
以下、あまりに長いので省略。続きの項目だけ書くと、
◎中国人・留学生との出会い
◎泥だらけの額
◎貿易構想
◎親友
◎抗議
◎唯一のパイプ
◎粘り
◎新たな風
◎ささやかな食事会
◎友の死
◎雨中嵐山
◎中国古来の徳
◎100回くらいでは分からない
◎井戸の水
最後に、このブログ人「二代目・風虫」さんはこう書いている。
ぜひ「岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人」(seesaaブログ 英考塾)
を読んで欲しい。
海を挟んで国境を接する日中両国、時には風波も立つだろう。
それでも、両国2000年の歴史のその大半が平和的であったことは、偉大なる事実である。
それは岡崎嘉平太や周恩来のような人々が、永い歴史に点在してくれていた、そのお陰でもあるのだろう…。
時おり、埋まりかける井戸。
それをますます埋めようとする人々もいるかもしれない。それでも、岡崎嘉平太は掘り続けた。上から泥をぶっかけられても…。
あれから40年。
今の日中関係に、岡崎ならば何を想い、何を成すのであろう?
出典:NHKアーカイブス 「命をかけた日中友好 岡崎嘉平太」
http://eikojuku.seesaa.net/article/294242919.html