私が働くこの大学の学生は地元江西省出身者が最も多いが、
他にも、安徽省、湖北省、雲南省、広西チワン族自治区など、内陸省出身者がたくさんいる。
内陸と言えば改革開放経済政策から取り残され、農業が中心産業で、農民の生活は都市部の一般労働者層とはっきり差がある。
貧富の差、インフラ、教育、社会、医療施設設備の格差・・・。
(これでも社会主義国家と言えるのか?!)と呆然となることもある。
それでも学生の生活を綴った作文を読むと、ある種の憧れのようなものを感じるのだ。
幕言さんの「紅いコーリャン」の後に続くかも、と身びいきしたくなる文もある。
今日は、広西チワン族自治区のある村の様子が浮かんでくる名文を紹介。
この文は、大学に入ってから初めて日本語を習い始めた3年生、奉さんの作品だが、
どうやって2年間でここまで日本語をマスターしたのか、私が聞きたいぐらいだ。
「今年の夏」 奉えんれい
「鷹が空を飛ぶには、必ず風雨の洗礼を受ける。人間が成長するには、いろいろ経験しなくちゃいけないんだぞ。」
と、年配の人たちは言う。私はその話を聞くたびに、不愉快に感じていた。なんとなく、無意味な話に思えたのだ。しかし、今年の蒸し暑い夏のある出来事を通じて、私の考えが完全に間違っていることに気がついた。
今年、私の夏にある人が登場した。彼は私の親戚だった。私より2歳年上で、子どもの頃から村の人々に「坊主頭」と親しく呼ばれている。小さい頃から一緒に遊んだり、勉強したりして、何でも話し合えた。いわゆる幼馴染という間柄だった。そうは言っても、高校に入るとインターネットに夢中になった彼は、よくネットバーに行くようになった。従って、会う機会も少なくなった。さらに、彼が悪い人と付き合っていることを知ってから、私は彼とは遠く離れようとした。(不良少年だ)と、ずっと思っていた。たまに出会っても、挨拶すらしたくなかった。
今年の夏、故郷に帰ったその日に叔父さんの家で1年ぶりに彼に会った。外から帰ってきたばかりだろうか、全身汗だくで、正直、汗臭かった。日焼けで皮膚が黒くなり、どこの人か分からないほどだった。
「お帰りなさい。」
彼はニコニコしながら、少しおじさんっぽい口調で言った。
去年は我が家を新築したが、今年は叔父の家だ。「坊主頭」は7月のはじめに家に帰ってからというもの、ずっと叔父の家で手伝っていた。私が帰るまで彼はもう1ヶ月以上働いていた。朝、汽車から降りて帰ったばかりの私に、叔父は、
「今年はずいぶん遅く帰ってきたのだから、どんどん働きなさい。」
と言ったので、仕方なく、私も帰った日の午後から一緒に働くことになってしまった。建築材料を運ぶ。睡眠不足のせいか、材料を運ぶ途中で頭がフラフラして、力も出せなかった。
「ちょっと休憩。」
と私は木陰の下に座り込んだ。木の上で蝉が相変わらず鳴いていた。その時、肩に材料を担ぎ、汗を拭きながら後ろから歩いてきたのが、彼だった。もう、このような肉体労働に慣れた様子で、休まずに運び続けていた。その時の姿を見たら、誰も彼がまだ大学一年生だとは信じかねるだろう。
なぜ彼はこのように一生懸命働くのかというと、恩返しをしていたのだ。2年前の夏、遊んでばかりいた彼は大学試験に落ちた。お兄さんの説教によって、また1年勉強し、去年の夏に広西大学に合格した。そして、お兄さんもちょうどその夏に大学を卒業した。どんなに目出度いことだっただろう。しかし、その夏、彼の父親も病気で亡くなった。二人の息子のために命も顧みず、父親はせっせと仕事をしていた。その結果、たいへんな病気になってしまった。半年ぐらい治療を受けたが、結局、治してもらえなかった。その夏は彼にとって一生忘れられないものだろう。彼の母親は、親戚から色々な助けをもらったからと、恩返しに自ら親戚の家へ手伝いに行った。お兄さんは、銀行の借金を早く返すために働いている。そして、彼も家に帰ってきたら、母親に変わって恩返しをし続けていたのだ。
「親を養いたい時に、親はもういなくなった。」
これが去年の夏以降、よく彼のブログで見た言葉である。今年は一緒に叔父の家で手伝ったので、私たちは何年ぶりかで友達同士の話ができた。彼は今、政府からもらった奨学金と親戚からのお金を使って学校で勉強している。話し合っているうちに、子供時代のことも出た。よく芝生の中でゴロゴロしていた私たち、牛も一緒に入っている池の中で泳いでいた私たち、よく他人の畑で大根を盗んだ私たち、また、風と霧の中でスキーをしていた私たち・・・。二人とも笑った。
「もう子供じゃない。そんな子供じみたことはやれない。」
彼は真剣な顔になった。
「そうね。」
彼の話を聞いた私は頷きながら、自分がまだ村の子供と遊んでいたり、姉に甘えているのを恥ずかしく感じた。叔父の家で働くので、当然叔父の家で食事をする。しかし、食事のあと、従兄弟と遊ぶ私と違って、彼はすぐ自分の家に帰った。母親と一緒にいられる時間を大切にしたかったのだ。暑苦しい夏は、彼を成長させていた。
人によって、人生の道は違っている。一人ひとりの人生は爽やかであったり、悲しみに満ちていたり、様々だ。私は(なんで自分は貧しい家に生まれたのよ)と恨んだこともある。家族や友達も大切にしていなかった。しかし、今は彼のように周りの人達を大切にしたい。貧乏でも、家族と一緒にいれば幸せだ。
今年の夏、彼に会えてよかった。
他にも、安徽省、湖北省、雲南省、広西チワン族自治区など、内陸省出身者がたくさんいる。
内陸と言えば改革開放経済政策から取り残され、農業が中心産業で、農民の生活は都市部の一般労働者層とはっきり差がある。
貧富の差、インフラ、教育、社会、医療施設設備の格差・・・。
(これでも社会主義国家と言えるのか?!)と呆然となることもある。
それでも学生の生活を綴った作文を読むと、ある種の憧れのようなものを感じるのだ。
幕言さんの「紅いコーリャン」の後に続くかも、と身びいきしたくなる文もある。
今日は、広西チワン族自治区のある村の様子が浮かんでくる名文を紹介。
この文は、大学に入ってから初めて日本語を習い始めた3年生、奉さんの作品だが、
どうやって2年間でここまで日本語をマスターしたのか、私が聞きたいぐらいだ。
「今年の夏」 奉えんれい
「鷹が空を飛ぶには、必ず風雨の洗礼を受ける。人間が成長するには、いろいろ経験しなくちゃいけないんだぞ。」
と、年配の人たちは言う。私はその話を聞くたびに、不愉快に感じていた。なんとなく、無意味な話に思えたのだ。しかし、今年の蒸し暑い夏のある出来事を通じて、私の考えが完全に間違っていることに気がついた。
今年、私の夏にある人が登場した。彼は私の親戚だった。私より2歳年上で、子どもの頃から村の人々に「坊主頭」と親しく呼ばれている。小さい頃から一緒に遊んだり、勉強したりして、何でも話し合えた。いわゆる幼馴染という間柄だった。そうは言っても、高校に入るとインターネットに夢中になった彼は、よくネットバーに行くようになった。従って、会う機会も少なくなった。さらに、彼が悪い人と付き合っていることを知ってから、私は彼とは遠く離れようとした。(不良少年だ)と、ずっと思っていた。たまに出会っても、挨拶すらしたくなかった。
今年の夏、故郷に帰ったその日に叔父さんの家で1年ぶりに彼に会った。外から帰ってきたばかりだろうか、全身汗だくで、正直、汗臭かった。日焼けで皮膚が黒くなり、どこの人か分からないほどだった。
「お帰りなさい。」
彼はニコニコしながら、少しおじさんっぽい口調で言った。
去年は我が家を新築したが、今年は叔父の家だ。「坊主頭」は7月のはじめに家に帰ってからというもの、ずっと叔父の家で手伝っていた。私が帰るまで彼はもう1ヶ月以上働いていた。朝、汽車から降りて帰ったばかりの私に、叔父は、
「今年はずいぶん遅く帰ってきたのだから、どんどん働きなさい。」
と言ったので、仕方なく、私も帰った日の午後から一緒に働くことになってしまった。建築材料を運ぶ。睡眠不足のせいか、材料を運ぶ途中で頭がフラフラして、力も出せなかった。
「ちょっと休憩。」
と私は木陰の下に座り込んだ。木の上で蝉が相変わらず鳴いていた。その時、肩に材料を担ぎ、汗を拭きながら後ろから歩いてきたのが、彼だった。もう、このような肉体労働に慣れた様子で、休まずに運び続けていた。その時の姿を見たら、誰も彼がまだ大学一年生だとは信じかねるだろう。
なぜ彼はこのように一生懸命働くのかというと、恩返しをしていたのだ。2年前の夏、遊んでばかりいた彼は大学試験に落ちた。お兄さんの説教によって、また1年勉強し、去年の夏に広西大学に合格した。そして、お兄さんもちょうどその夏に大学を卒業した。どんなに目出度いことだっただろう。しかし、その夏、彼の父親も病気で亡くなった。二人の息子のために命も顧みず、父親はせっせと仕事をしていた。その結果、たいへんな病気になってしまった。半年ぐらい治療を受けたが、結局、治してもらえなかった。その夏は彼にとって一生忘れられないものだろう。彼の母親は、親戚から色々な助けをもらったからと、恩返しに自ら親戚の家へ手伝いに行った。お兄さんは、銀行の借金を早く返すために働いている。そして、彼も家に帰ってきたら、母親に変わって恩返しをし続けていたのだ。
「親を養いたい時に、親はもういなくなった。」
これが去年の夏以降、よく彼のブログで見た言葉である。今年は一緒に叔父の家で手伝ったので、私たちは何年ぶりかで友達同士の話ができた。彼は今、政府からもらった奨学金と親戚からのお金を使って学校で勉強している。話し合っているうちに、子供時代のことも出た。よく芝生の中でゴロゴロしていた私たち、牛も一緒に入っている池の中で泳いでいた私たち、よく他人の畑で大根を盗んだ私たち、また、風と霧の中でスキーをしていた私たち・・・。二人とも笑った。
「もう子供じゃない。そんな子供じみたことはやれない。」
彼は真剣な顔になった。
「そうね。」
彼の話を聞いた私は頷きながら、自分がまだ村の子供と遊んでいたり、姉に甘えているのを恥ずかしく感じた。叔父の家で働くので、当然叔父の家で食事をする。しかし、食事のあと、従兄弟と遊ぶ私と違って、彼はすぐ自分の家に帰った。母親と一緒にいられる時間を大切にしたかったのだ。暑苦しい夏は、彼を成長させていた。
人によって、人生の道は違っている。一人ひとりの人生は爽やかであったり、悲しみに満ちていたり、様々だ。私は(なんで自分は貧しい家に生まれたのよ)と恨んだこともある。家族や友達も大切にしていなかった。しかし、今は彼のように周りの人達を大切にしたい。貧乏でも、家族と一緒にいれば幸せだ。
今年の夏、彼に会えてよかった。