毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「『国民は自国政府の主張を支持するのが当然』と思うなかれ」 2012年10月11日(木) No.470

2012-10-11 15:45:09 | 中国事情
政治家は神様ではない。(ヾノ∀`)ナイナイ
優れた政治家と言われる人であっても、いつでも全く完璧な判断ができるわけではない。
政府についても同様である。
それだけは誰しも認めて欲しい。
そうでなければ批判的、自律的に物事を見ることができない。
外的権威から自由な立場で、自分の責任において深く考察し、判断をすること。
一人の人間がすべきことはそれだと、私は思う。

「それでも日本人(中国人)か!」
「売国奴!」
と叫ぶ人たちの頭には、
「自国政府の主張を支持するのが国民の務め」という考えがあるのだろうが、
国民には納税の義務はあっても、政府にひたすら従う義務はない。
事実に基づいて客観的に考えることこそ、
一人ひとりの国民がまず第一にしなければならないことだろう。

だから、である。
何が事実なのかを調べなければならない。
歴史上のことは文献等の資料が非常に重要だ。
そういう訳で、
あれこれ調べたことや、教えてもらったことなどをここに並べていきたい。
その資料を見比べて分析する中で、事実らしいものが浮かび上がってくるのを期待して。

前号(No.469)で紹介した北京の判さんが、
魚釣島に関する中国側の資料を、重要と思われる部分だけ日本語訳して送ってくれた。
「これを読んで日本の人たちが怒らないかとても心配です。」
と書いてあったが、このブログを読んでくれている人たちは、
間違っても(中国はまた嘘ばっかり言って!)と頭から否定しないことを信じる。
(以下中国側の主張資料;(あ)~(お)の下線はブルーはーと)

①古くから、中国福建省と台湾などの漁民は、釣魚島に雨風を避けるための建物をたてて、魚を獲り、何ヶ月間かそこで過ごしていた。中国沿海部の人々はそこに特産物を取りに行き来していた。

②明朝初期、島々は我が国の海防区域に入った。1556年、倭寇を防ぐため、胡宗憲は倭寇抵抗の総督に任命され、沿海部の各省の倭寇を防ぐ軍事を司った。(あ)明、清両朝は、琉球に派遣した使者の記録、また地誌史書の中で、それらの島々は中国に属すると述べている。中国と琉球との分割線は赤尾島と古米島(今の久米島)の間である。(い)1879年、清朝の北洋大臣李鴻章は、日本との会談で双方ともに、琉球の帰属問題について、琉球には36の島があり、釣魚島はその36の島に属さないことを合意した。釣魚島が中国に属してから百年後、日本人は1884年釣魚島を見つけた。(う)1895年、日清戦争のあと、清の敗北に乗じ、それらの島々を密かに盗みとった。その後、清朝政府はプレッシャーをかけられ『下関条約』にサインし、台湾及び付属列島、澎湖列島を日本に割譲した。第二次世界大戦後、(え)敗戦した日本政府は台湾及び付属の釣魚島を勝手にアメリカに渡し、アメリカ政府は一方的に島の施政権を有すると宣言した。1945年後、アメリカは釣魚島を占領した。

③70年代初期、日米は釣魚島を琉球群島に加えた。琉球群島を日本に返す背景の中、1970年7月、日本の海岸巡視船は釣魚島に接近し、非合法的に島を琉球群島に属するしるしを立てた。その後(お)佐藤政府は過去の中国への侵略を釣魚島の主権所有の根拠とし、また釣魚島は日本の固有領土であり、武力で守ると宣言した。1970年8月12日、駐日アメリカ大使館スポークスマンは「釣魚島は日本の一部であり、アメリカ政府は釣魚島を日本に帰すことを決めた。」と宣言した。
(《环球视野》摘自《中华人民共和国国史全鉴》第四卷1967—1976,团结出版社)


という主張である。
もし中国側の主張に詳しい人で、上記の内容に異論がある場合は教えて欲しい。
この内容に相違なければ、次に
(あ)琉球派遣の使者の記録、地誌史書の確認
(い)1879年合意内容の確認
(う)「密かに盗んだ」のかどうか当時の資料の確認
(え)「敗戦後日本政府が勝手にアメリカ政府に台湾及び付属の釣魚島を渡した」事実があるかどうか確認
(お)ちょっと意味がわからないんだけど、具体的にどういうことか確認

というのが、一読した私の課題意識である。(続く)




コメント (7)
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