新型コロナウイルス感染症で亡くなられた志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」
で3回目の出演をされていましたので写真紹介します。(5月14日に放送)
1回目と2回目の出演に関する記事にリンクしておきます。
志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に出演 on 2020-5-1
志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に2回目の出演 on 2020-5-6
ドラマ初出演の志村さんは昨年12月から亡くなる約3週間前の3月6日まで
撮影に参加されていたそうです。志村けんさんが演じた人物のモデルは山田耕作
実際のファクトでは
昭和5年(1930)1月23日付けの福島民報新聞などの地方新聞で「市内一青年の
作曲が認められて世界の舞台へ」と報じられ福島の川俣銀行勤務の古関祐而さん
にファンレターを書いた内山金子との文通が始まり恋に落ちます。
金子とのこと実家の破綻などもありイギリスの出版社チェスター楽譜出版社から
オファーされた無償の留学の話を断ることになります。
祐而は留学をあきらめ、金子との新婚生活のため川俣銀行に代わる新しい就職先
を探し始めた。そして東京のレコード会社コロンビアに譜面を送ると、学生時代
(福島商業高等学校)から交流のあった山田耕作の推薦でコロンビアの専属作曲家
として採用されることになります。
昭和5年の6月1日には祐而と金子の結婚の祝い事が行われ同年9月には上京し
杉並区阿佐ヶ谷にあった金子の姉の家に部屋を借り新婚生活が始まる。
前置きが長くなりました。早速、3回目の志村けんさんの出演場面を写真紹介します。
当日(2020-5-14)の放送内容は下記のとおりです。
裕一(窪田正孝)と久志(山崎育三郎)が再会を果たす。ところが、どうしても
裕一の作曲する曲はレコードには採用されず、裕一の前払いの契約料が3,500円
から1,700円に下げ且つヒット曲が出なければ返却してもらう話を言い渡される。
話を聞いた音(二階堂ふみ)はレコード会社に乗り込みディレクター(古田新太)
に談判する。
その中でレコード会社に入れてもらえたのは大御所の作曲家の小山田耕三(志村けん)
だということも知らされる。
一方、音(二階堂ふみ)が音楽学校のプリンスこと佐藤久志(山崎育三郎)に、
歌について相談をしているところに、裕一(窪田正孝)がやってきて、裕一と久志は
思いがけず久々の再会をする。裕一がレコード会社の専属作曲家になっていると
聞いた久志は、自分の目は正しかったと話す。曲が採用されない裕一に、
「いつか必ず道は開ける」と久志は励ますが、その機会が訪れないまま、
時が経っていた。
ここで、再びドラマの世界からファクトの世界に入って年別の出来事を
箇条書きで纏めていきます。ドラマの時代に呼応して昭和5年(1930)から
昭和12年(1937)までをまとめてみました。
昭和5年(1930)
1月 「福島の無名の青年(古関祐而21歳)が国際作曲コンクールで入賞」
この新聞記事を読んだ内山金子(18歳)がファンレターを書く
3月 内山金子との文通開始 全部で約110通
5月 内山金子を豊橋&浜松に訪ね、一緒に福島に帰郷
6月 内輪で結婚の祝い事を福島で行う
9月 上京
10月 コロンビア専属作曲家となる
昭和6年(1931) 古関祐而22歳 古関金子19歳
初のレコード 「福島行進曲」「福島夜曲」を発売
「紺碧の空」(早稲田大学応援歌)、「日米野球行進曲」を作曲
4月 古関金子が帝国音楽学校に入学 声楽を学ぶ 同級生に伊藤久男
昭和7年(1932) 古関祐而23歳 古関金子20歳
ミヤタ・ハーモニカ・バンドで指揮を担当
古関金子長女雅子を出産(音楽学校を退学)
「我等の満州」「肉弾三勇士の歌」を作曲
昭和9年(1934) 古関祐而25歳 古関金子22歳
古関金子 次女紀子を出産
「利根の舟歌」が大ヒット
昭和10年(1935) 古関祐而26歳 古関金子23歳
「船頭可愛や」が大ヒット
昭和11年(1936) 古関祐而27歳 古関金子24歳
大阪タイガースの歌「六甲おろし」を作曲
昭和12年(1937) 古関祐而28歳 古関金子25歳
「露営の歌」が大ヒット
ラジオドラマ「当世五人男」で菊田一夫と出会う
上述は下記の本から引用してまとめました。