吉川経家弔魂碑 Kikkawa Tsuneie's Memorialという題で以前にブログを書いています。
吉川経家弔魂碑 Kikkawa Tsuneie\'s Memorial - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
英文による紹介で判り難いと思われるので今回、再度記事としました。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変の1年前くらいの出来事でもあるので
テーマとして選びました。
天下統一を目指す織田信長は、天正8年(1580)6月、羽柴秀吉に中国地方の攻略を命じた。
天正9年(1581)6月25日、秀吉は姫路城から約2万の軍勢で鳥取城攻めを開始した。
鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。
豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家
を鳥取城の城督として秀吉の兵を迎え撃つことになった。城兵は約3千人。
秀吉軍は鳥取城が要塞堅固であることから、兵糧攻めの策に出た。
毛利水軍が海から鳥取城に兵糧の補給を図ったが、城内に撒入しようとする輸送船は、
すべて秀吉軍に捕獲された。やがて場内では餓死者が出始める程孤立無援の窮地に陥った。
この頃、毛利輝元・隆景らは備中・美作に出陣して、信長陣営の宇喜多直家と対峙し、
また吉川元春は伯耆で南条元続、小鴨元清らの討滅作戦を展開中で余力はなかった。
経家は籠城軍を鼓舞して鳥取城の包囲軍に頑強に抵抗したが、餓死者の出る惨状を前に
秀吉に使者を送り、自分の自刃の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日、
「天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という
遺書をしたため、城内広間において35才の命を断った。
同時に福光小三郎、若鶴甚右衛門、坂口孫次郎が殉死した。
元春は吉川元長、吉川広家、毛利元康ら6千余の兵を率いて、やっと伯耆の国境にまで
駆けつけたが、既に事後で間に合わなかった。秀吉は元春らとの決戦を避けて撤退し、
同年(1581)11月8日、姫路に帰還した。
経家の子孫は岩国藩で江戸時代を通じて家老として仕え、藩政に貢献した。
経家の英魂を弔うため、昭和14年(1939)10月、弔魂碑が建立されました。
礎石に鳥取城の石12個が使用されている。
吉川経家弔魂碑が建つ場所は、江戸時代にその石見吉川氏の屋敷のあった所である。
吉川経家弔魂碑の裏面の碑文は学習院大学副学長であった瀬川秀雄博士、
揮毫は同大学講師の木田政喜によるものである。
During Sengoku piriod,Oda Nobunaga was busy aiming his sights
toward uniting Japan.One of his conquests was Tottori Castle.
Mori Terumoto's main fortress.Nobunaga sent Hashiba Hideyoshi
to mount an attack on Tottori Casle in June 1580.
Yamana Toyokuni,the lord of Tottori,surrendered to Hideyoshi
without general agreement.
When Toyokuni left,Kikkawa Tsuneie took his place to continue
the battle against Hideyoshi in March 1581. Once Tsunaie took
power,he realized that the situation was grave and without
resolve.Hideyoshi had established a "net" to intercept any
supply ship comming to Tottori Castle.As the days went by,the
people of Tottori were starving and suffering horrible deaths.
Seeing what was happening to the people,Tsuneie was forced to
surrender himself.Tsuneie asked to Hideyoshi to save the people
and commited ritual suicide(Harakiri)the very next day.
Tsuneie left a note saying that he felt very honered with this
Harakiri.
参考として石見吉川家の吉川経家と岩国藩の初代藩主の吉川広家を中心とした
系図を添付しました。(下の写真)
さらに岩国藩の初代藩主に吉川広家公の肖像画も添付(下の写真)しました。