大政奉還についてWikipediaでは次のように解説しています。
大政奉還(たいせいほうかん)とは江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に明治天皇へ奏上し翌15日に天皇が奏上を勅許した事。
ペリーの来航以来、外国に押されていた幕府に対し異論があった薩摩藩は武力による
倒幕を計画する「無益な争いを避けたい」と考えていた土佐藩の申し立てにより、
徳川慶喜は二条城で大政奉還の意思を表明した。
上の写真は元離宮二条城の展示
上の写真は大政奉還の上表文
出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page200
NHKが易しい解説サイトを作成されていますのでリンクさせていただきました。
大政奉還が行われた同じ年の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇により
王政復古の大号令が発せられ、摂関、幕府が廃止され、明治維新政府の最初の官職
となる三職(総裁、議定、参与)が創設されました。同日、京都御所内で開かれた
三職による小御所会議では徳川慶喜の内大臣辞任と領地の一部返納(辞官納地)が
決定された。
決定の過程で下記のようないきさつがあったと伝えられています。会議は大激論のまま
いったん休憩に、その間、薩摩藩の西郷隆盛は会議に出席した藩の家老に「いざとなったら
刀を使うしかない」と慶喜を守ろうとする一派と刺し違える意思を伝えたと言います。
それを伝え聞いた慶喜派は会議の再開後は口を閉ざし、慶喜への厳しい対応が決定された。
知らせを聞いた慶喜は二条城の裏門から出て大坂へと退き、新政府に敵意はないことを
示した。
上の写真は島田墨仙の画(聖徳記念絵画館壁画)に三職に選ばれた人物の名前を
挿入したものです。
出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page200
大政奉還は坂本龍馬が提唱した船中八策の第1)項によるものです。
以下、坂本龍馬の船中八策について概要を記しておきます。
坂本龍馬は慶応3年(1867)6月京都にいた前土佐藩主 山内豊信(容堂)は
薩長に対抗するような土佐藩の方針を模索していました。
そのため長崎にいた後藤象二郎を京都に呼び出します。
後藤象二郎とともに坂本龍馬も土佐藩船で上京しました。
船中で思案にくれていた後藤象二郎に説明し海援隊の長岡謙吉に筆録したのが
船中八策である。
1)天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
政権を天皇に奉還し、政令はすべて朝廷から発すること。
2)上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
上院、下院2つの議政局を設け、万機を合議によって決定すること
3)有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、
宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
有能な人材を広く選び、官爵を賜い有名無実の官は除くこと
4)外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべき事。
外国との交際を議会で決定し、新たに条約を結ぶこと
5)古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
古来の法律を改正し、「無窮の大典」を選定すること
6)海軍宜しく拡張すべき事。
海軍を整備拡張すること
7)御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
親兵(直轄軍)を置き帝都を守ること
8)金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
金銀物価を外国と平均すること
この船中八策を後藤象二郎は山内豊信(容堂)に説明しさらに後藤が加筆し
大政奉還の建白書として徳川幕府の老中に提出されました。
新政府建設の8つのビジョンで明治政府でも取り組まれた内容である。
この時期に大河ドラマの主人公の渋沢栄一はパリ万博、幕府代表の徳川昭武の随員として
フランスに滞在していました。第4回パリ万博への参加は初めてのこと。
渡欧期間は慶応3年(1867)1月から明治元年(1868)年末の丸2年間
渋沢栄一27歳から28歳であった。
上の写真はフランス入りした時の渋沢栄一
羽織袴に髷(まげ)を結い、刀を左手で地に突き、右手に編み笠を持つ。腰には脇指
上の写真はパリの床屋で髷を落とした渋沢栄一。
この写真を送られた妻の千代は返信で「なさけなき姿」と嘆いた
上の写真は派遣された徳川幕府の使節団の集合写真
上の写真は渋沢栄一のアップ