2020年4月18日~5月31日に兵庫県立美術館で開催を予定していた「明治の金メダリスト
大橋翠石 虎を極めた孤高の画家」展は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で
中止となってしまいました。その後、岐阜県立美術館では開催されたがコロナの関係で
観覧できませんでした。
最近、神戸新聞ではオンライン美術展として無料公開(下記サイト)される事となった。
念のためYoutube動画をGooで共有させていただきました。
幻の美術展 大橋翠石 一度見たら忘れられない
また、濱田篤三郎が大正3年(1914)に著した『千里一走』 高嘯会をベースに大橋翠石
(1865-1945)の生涯を記載していきます。
大橋翠石の肖像
大橋翠石の一生
大橋 翠石(慶応元年4月〈1865年5月頃〉- 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、
明治中期から昭和前期にかけて日本で活動した日本画家で「虎の画家」として有名。
美濃国安八郡大垣町内(現・岐阜県大垣市新町2丁目)出身。
本名は 大橋 卯三郎( うさぶろう)。
通称として宇一郎(ういちろう)を用いた。
著名な親族として、大橋万峰こと実兄の大橋鎌三郎(日本画家)と娘婿で弟子の大橋翠邦(大橋翠峰)がいる。
15歳の時、地元大垣の南宋画家・戸田葆堂(とだ ほどう)に就いて画の手ほどきを受け
そののち、葆堂の師である京都の天野方壺(あまの ほこう)の下で学んだ。
しばらく方壷に師事した後、一時大垣に帰郷したが、1886年(明治19年)、母に諭されて東京に出、渡辺小崋門下に入った
ところが1887年(明治20年)12月10日、母が急死し、重ねて年末には師・小崋が旅先で急の病を得て亡くなってしまう。
1888年(明治21年)、翠石はやむなく大垣に帰郷するしかなくなったが、これを機に独学で写生画派へ転じた。
1891年(明治24年)10月28日には郷里に近い岐阜県本巣郡を震央とする巨大地震「濃尾地震」が発生して翠石の家族は被災し、父・亀三郎は家屋の倒壊に巻き込まれて圧死してしまった。
同年(明治24年)父の遺骨を納めるため、京都の大谷本廟を訪れた際、四条寺町の商店で円山応挙の虎図の写真を購入すると、精一杯の臨模に励んだ。
また、震災の焼け跡で開催されていた虎の見世物興行で本物の虎を目にする機会を得て日々通い、人々の噂に立つほど徹底した写生を積み重ねたという。
以来、翠石は虎画の制作を精力的に行うようになり、「虎の翠石」がここに誕生した。
世に「虎の翠石」と言われて名高く、その描くところの虎画は本物の虎がまるで生きているかのような躍動感がある。
翠石の前半生を著した濱田篤三郎によれば、若き日の翠石の手になる虎図を目にしたある人は驚嘆して次のように激賞したという。
円山応挙ハ虎皮ヲ写シ、岸駒は虎頭ヲ写ス、翠石ノ斯ノ画ニ於ケル、遥ニ、二者ニ超越シテ、全身ノ活現毫モ間然スル所ナシ、ソノ手法ノ非凡ナル、古人亦遠ク逮ハス。
濱田篤三郎、『千里一走』 高嘯会、1914年(大正3年)刊。
緻密な毛書きが施された翠石の虎図は、1900年パリ万国博覧会に出展されて絶賛され、優等金牌を受賞した。
セントルイス万国博覧会(1904年開催)と1910年日英博覧会でも同じく優等金牌を受賞し、国際博覧会において抜きん出た高評価を受けている。
また、金子堅太郎(子爵)は翠石の後見人となり、彼の作品を先の国際博覧会へ出展や宮中への献納に尽力した。
その結果、盛名を得て、時の天皇・皇后(明治天皇と昭憲皇后)や朝鮮の李王家などにも絵を献上している。
1912年(大正元年)には、結核ぼ治療のため郷里の岐阜県安八郡大垣町(現・大垣市新町)から兵庫県須磨町西須磨(現・神戸市須磨区西須磨)へ転居し、以降約30年間余服部一三、濱田篤三郎、村野山人他、神戸の政財界人の補助も受け須磨で制作活動をした。この地で、従来の日本画とは一線を画した濃密な背景表現に特色を持つ独自の作風「須磨様式」を完成させた。
即現(そくげん)は須磨時代の別号。観音菩薩像など崇敬の対象となる画題にしばしば用いている。
鉄拐山民(てっかいさんみん)は 須磨への移住以降に用いられた。西須磨にある鉄拐山に由来する。
石寿(せきじゅ)は1942年(昭和17年)に喜寿の記念として号したという。
千里一走の冒頭部
濱田篤三郎 著『千里一走』 (高嘯会、1914年)は
虎の画家として著名な日本画家「大橋翠石(1865-1945)」の前半生を描く
翠石画用の印影
上の写真は翠石画用の印影の一部です。
大橋翠石自筆の落欵
明治天皇へ献上の「虎の画」の下絵発見
明治35年(1902)に制作の明治天皇へ献上の「虎の画」の下絵が発見されたとの
ニュースが神戸新聞2020年3月23日 朝刊1面に掲載されていました。
大正2年(1913)にも宮内省の殊命で献上し350円を下賜されています。
大橋翠石の子孫は神戸市垂水区に在住されているとのこと。
下絵の上部には、パリ万博で金牌を得た翠石の経歴のほか、名声が宮中にまで届き、
絵の献上を命じられた経緯などが翠石の師の手で漢文で記されている。
また、神戸新聞は「虎を描く 須磨の画人・大橋翠石」という題名でシリーズ記事が
組まれ、2020年5月3日に第1回 5月6日に第4回まで掲載されました。
タテ174.5cm、横105.3cmで貼り合わせた紙に描かれたいたという。