一昨日(7月17日)は神戸旧居留地の返還の日でした。
明治32年(1899)7月17日10時、居留地38番居留地警察署楼上で行われた返還式には
日本側から兵庫県知事の大森鍾一、神戸市長の鳴滝幸恭など多くの関係者が出席した。
居留地側からは、副会頭のA.C.シム、居留地行事局長のヘルマン・トロチックをはじめ
居留地の住民も多く出席した。
病気で出席できなかったジョン・クーリー・ホールの代わりに挨拶に立ったのはフランス領事
de Lucy Fossarieuであった。彼の返還式でのスピーチの概要は以下のとおりです。
「30年前、日本当局が我々外国人に神戸の居留地を引き渡した時、その地は正真正銘の
砂地でした。私たちはその場所を、美しい建物が建ち並び、倉庫という倉庫には商品が
あふれている立派な町に変えて日本政府に返還いたします。この町こそ西洋諸国民の才能
を示す実例であり象徴であります。その旺盛な進取の気風、倦むことのない企業精神、
忍耐、倹約、そして商業経験、これらが神戸の発展に大きく寄与してきたのです。
居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるでしょう。この30年間、居留地内で
特筆されるような大きな紛争は一つもありませんでした。広く美しい並木通り、夜間ガス燈
が明るく照らし出す見事な煉瓦造りの歩道、石畳の十字路、今後さらに利用度が高められようと
している遊園地、この整然とした居留地は東洋一との評価を得ています。
絶えず下水道を点検し、街路や建物の清掃に心がけ、警察の維持や墓の管理などに注力
してきました。(以下略)」
居留地の返還は明治27年(1894)7月16日、第2次伊藤博文内閣の外相、陸奥宗光のもと
ロンドンで駐英公使、青木周蔵とイギリス外相キンバレーによって日英通商航海条約が
調印され施行されたことで実現しました。
この条約により外国人の居住や旅行の自由などを認める内地開放(内地雑居)を代償として、
ようやく領事裁判権が撤廃され、関税自主権も一部回復した。
政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。これら一連の
条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、神戸外国人居留地は日本側に返還された。
居留地会議から神戸市に引き継ぎが行われ、遊園地、墓地、消防用具、ガス燈などを
神戸市が管理することとなった。
返還以降、旧居留地の中に多くの日本人が入り込むようになりビジネスの中心地として
発展していくことになります。
上の写真は居留地38番の前での記念写真 神戸市文書館蔵
上の写真は神戸居留地38番の位置(ピンク印)を示した地図