本日は7月11日に放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」第22回「篤太夫、パリへ」で
登場のパリ万博関連人物をテーマに書いていきます。
慶応3(1867)年1月11日(新暦換算1867年2月5日)、後に「日本資本主義の父」と
称される渋沢栄一は、将軍徳川慶喜(1837-1913)の名代としてパリ万国博覧会に
出席する徳川昭武(1853-1910)に随行し、フランス帝国郵船アルフェー号で横浜を発った。
上の写真はアルフェー号の船上で船酔いに苦しむ渋沢篤太夫(吉沢享)、その右手には
日記をつけている杉浦愛蔵(志尊淳)、写真中央は同じく船酔いで苦しむ向山一履(岡森諦)
と向山を介抱している田辺太一(山中聡)
杉浦愛蔵については第21回の番組での人物紹介(下記ブログ)で記載しているので省略します。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」第21回「篤太夫、遠き道へ」で登場のパリ万博関連人物 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
一行は55日後の3月7日ようやくパリに到着します。
ここで、向山一履(岡森諦)、保科俊太郎(後藤田しゅんすけ)、田辺太一(山中聡)の
人物紹介をしておきます。
向山一履(岡森諦) 随行時42歳
向山一履 (むこうやま-かずふみ)はパリ万国博覧会に出席した全権公使。
一般的には、向山黄村として知られています。随行時の役職は御勘定奉行格外国奉行
上の2枚の写真は滞在先のグランドホテルで案内役の銀行家フリュリ・エラール(グレッグ・デール)
と通訳のメルメ・カション(ド・ランクザン望)から皇帝ナポレオン3世との謁見式まで
2週間しかない急ぎましょうとの声かけに通訳の保科 正敬(ほしな まさたか)が訳した
のに対して向山一履は承知と返答する場面
渋沢栄一は後に、銀行の仕組み他、色々なことをポール・フリュリ・エラールより学びます。
「フリュリ・エラールが軍人と対等に接するのを見て、身分制の打破と実業の地位向上の
必要を痛感したと」渋沢栄一は後年述べている。
保科 正敬(後藤田しゅんすけ)随行時25歳
上の写真は保科俊太郎(後藤田しゅんすけ)がフリュリ・エラールのメッセージを
外国奉行で全権公使の向山に伝える場面
田辺太一(山中聡) 随行時37歳
向山ら外国方は「琉球王国」の展示への対策を話し合い、外国奉行支配組頭の田辺太一に
薩摩との交渉を託した。田辺は薩摩藩家老の岩下佐治右衛門(俵木藤汰)と
シャルル・ド・モンブラン(ジェフリー・ロウ)と琉球王国の展示について問いただした。
岩下はすべてモンブランが琉球王国博覧会委員長として手配してくれたと答える。
モンブランの和名は白山、パリ万博会場で名刺を配布していた。モンブランは以前、
幕府に貿易及びパリ万博への出展に協力を申し出ていたが拒まれたことそれに対して
薩摩藩の五代才助(ディーン・フジオカ)はすべてを託してくれたと語った。
この場で田辺はモンブランに薩摩の旗を降ろして日の丸の下にすべての品を並べること、
そして薩摩の品の出品者が「琉球王国」となっているのを将軍を意味する「大君」に
書き換えることを求めた。それに対しモンブランは薩摩の旗を外すことは了承し、出品者
として「薩摩太守」とすると答えた。田辺はそれを了承した。
ところが問題はこれでは済まなかった3月18日付けの現地の新聞に「日本は一つの国では
なく連邦国」という記事が掲載されたのだ。モンブランは幕府の品に「大君グーヴェルマン」
薩摩の品に「薩摩太守グーヴェルマン」と記していた。グーヴェルマンとはフランス語で
政府のことだ。そのため将軍も薩摩藩主と同格の有力な一大名にすぎないと思われてしまった。
向山らは幕府を貶めようとする薩摩とモンブランの策略にかかったのだと気づいた。
上の2枚の写真はフランス語で書かれた「大君」と「薩摩太守」
上の写真はフランスの新聞(L’ILLUSTRATION)で紹介された徳川昭武
上の写真はフランスの新聞記事で「大君は日本の皇帝ではない」の記事
上の写真は「日本が一つの国ではなく連邦国」であるとするフランスの新聞記事
マルセイユでの記念写真。随行者31名のうち23名が写っています.
文章をよんでいるのは山内文次郎。
上の写真はパリ万国博 使節団(随員)の集合写真 マルセイユにて(23名)
随行者31名のうち23名が写っています。出典:NHK BSP「英雄たちの選択」
1867Delegation.jpg (1200×800) (wikimedia.org)
前列向かって左からアレキサンダー・シーボルト、保科俊太郎(歩兵頭並)、
山高石見守(昭武守役)、井坂泉太郎(小姓頭取・水戸藩士)、徳川昭武、
菊池平八郎(小姓頭取・水戸藩士)、向山隼人正(全権公使)、田辺太一(外国奉行支配組頭)、
レオン・デューリー、後列、左より渋沢栄一、山内文次郎、高松凌雲(奥医師)
木村宗三、服部潤次郎(水戸藩士)、皆川源吾(水戸藩士)、加治権三郎(水戸藩士)
大井六郎左衛門(水戸藩士)、三輪端蔵(水戸藩士)、杉浦譲、山内六三郎(通弁御用)
生島孫太郎(外国奉行並出役)、日比野清作(外国奉行調役)、箕作麟祥(御儒者次席・翻訳方頭取)
出典:戸定歴史館(松戸市) 編『将軍のフォトグラフィー : 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟』
松戸市戸定歴史館(1992)Page164
上の2枚の写真はパリに到着直後の渋沢篤太夫と一行が見たパリの街並み
上の2枚の写真はアレキサンダー・シーボルト(アレキサンダー・サガラ)の案内で
訪れたパリ万博の会場です。保科俊太郎については前述し、高松凌雲については
第21回の番組での人物紹介(下記ブログ)で記載しているので省略します。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」第21回「篤太夫、遠き道へ」で登場のパリ万博関連人物 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
アレキサンダー・シーボルトは渡仏の航海中に通訳をかって出て、全権公使の向山に
気に入られていたがイギリス政府が幕府使節団(仏政府から600万ドル借款の役目を担う)
の状況を探るために派遣したスパイであった。公には在日英国公使館の通訳。
上の2枚の写真はイギリス政府外務次官宛ての手紙を書くシーボルト
山内六三郎(松永拓野) 派遣時29歳
渋沢篤太夫(吉沢享)は山内六三郎(松永拓野)に通訳してもらい、ホテルの人から
ろうそく1本が1フランだと確認していました。
山内六三郎(1838~1923)は文久3年(1863)、遣仏使節・池田長発 に随行。
慶応3年(1867年)、パリ万国博覧会には2回目の渡仏で徳川昭武の通訳として随行。
実際の人物の写真は下記サイトで見れます。
横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真. 写真(山内六三郎) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
山内文次郎(渋谷謙人)派遣時は19歳
民部公使・徳川昭武が泊まるホテルの料金を武士だからという理由で絶対に値切ろうと
しない通訳の山内文次郎(渋谷謙人さん)と喧嘩になりかけ、結局、根切交渉に
応じなかった。
田辺太一とともにモンブラン伯爵との交渉に関わっています。(写真は前に添付)
Wikipediaによれば、山内文次郎(1848-1912)は維新後、沼津兵学校で教授を務める。明治6年(1873年)外務省の官僚となり、ロシア臨時代理公使、イタリア臨時代理公使を歴任。後に宮内省に移って大膳亮。式部官兼宮中顧問官在任中の大正元年(1912年)に死去した。
実際の人物の写真は下記サイトで見れます。
横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真. 写真(山内文次郎勝明) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
上の写真は渋沢篤太夫、杉浦愛蔵、保科俊太郎らが泊まるシャルグラン通り30番地のアパートで
そこの住人からポトフをもらって持ってきた山内六三郎(松永拓野)の姿を見て篤太夫は
山内六三郎とともに徳川昭武が泊まる宿舎の料金根切り交渉をすることとなる。
上の2枚の写真は渋沢篤太夫と高松凌雲がパリ万博もメイン会場の屋上へ水力エレベーターと
階段で登り次の言葉を語る場面です。
参った!物産会(ぶっさんえ)どころか何日かけても見切れねぇ品ばかりだい。にもかかわらず、ちっぽけな俺は言葉も通じず、その品々を見定める目も、考える頭すらねぇや。夢の中にいるみてぇだ。(篤太夫)
上の写真はナポレオン3世に謁見する徳川昭武(15代将軍徳川慶喜の名代)の一行
民部公子・徳川昭武(板垣李光人さん)は、ナポレオン三世に謁見し、第15代将軍
徳川慶喜(草彅剛さん)の名代としての役目を見事に果たしました
慶応3年3月24日、徳川昭武、外国奉行向山一履(隼人正)等ヲ随ヘテ仏国皇帝
ナポレオン第三世ニ謁ス。栄一陪セザリシモ、仏国皇帝ヘノ献上品ヲ宮中ヘ
送致スル事ニ当ル。尋イデ同月二十八日軽気球ヲ観ル。
上の写真はナポレオン3世(ジュリアン・ジョラン)とウジェニー皇后(マリー・モリエット)
上の写真は謁見会場のチュイルリー宮殿
慶応3年4月12日(新暦換算1867年5月15日)
渋沢栄一、書記官の木村宗三と杉浦譲(露人)の3名は、シャルグラン通り30番地のアパートへ
番組では保科俊太郎もこのアパートに投宿との場面がありました。
山高信離(山本浩司)
徳川昭武の教育係を務めた人物です。番組では今後も出演の場面があると思います
実際の写真は下記サイトで見れます。
横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真. 写真(〔山高石見守〕) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
以下はWikipediaより
幕臣として生まれる。号は紫峰、紫山。官途は石見守。慶応3年(1867年)パリ万国博覧会に参列する徳川昭武に随行する。維新後はウィーン万国博覧会など、各地の万博に派遣されて事務局などに勤めた。後年は帝国博物館長、京都・奈良帝国博物館長を歴任。また椿椿山に学び、文人画を描いた。
慶応3年5月11日(新暦換算1867年6月13日)
徳川昭武らがグランドホテルからベルゴーレ街53番地に移る(経費節減)
上の写真は渋沢篤太夫と山内六三郎が根切交渉に成功した新しい宿舎での場面
5人の水戸藩士(徳川昭武の護衛)実際に同行した水戸藩士は7人
井阪泉太郎(林雄大) 派遣時30歳
上の写真はホテルのボーイの挙動を非礼だとして大声叱責する場面
Wikipediaによれば井阪泉太郎(1837~1897)の諱は貞行。 主君徳川慶篤の弟徳川昭武の小姓頭取を務め、1867(慶応3)年、昭武が将軍名代としてパリ万国博覧会に派遣された際、これに随行した。 明治以後は泉と称して水戸家の事務局に入り家扶(もしくは家令)となって最後まで主家につかえ明治30年に没した。享年63歳。
菊池平八郎(町田悠宇) 派遣時32歳
加地権三郎(尾関伸次) 派遣時32歳
服部潤次郎(石川啓介) 派遣時34歳
三輪端蔵(川端康太) 派遣時33歳
パリ万博関連サイト:
Japan and the 1867 Paris Exposition | TJJ ONLINE (japanjournal.jp)
NHKBS3の番組「渋沢栄一 in パリ万博」を視聴して on 2021-2-20 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)