本日(2023年1月7日)は5時台と6時台の両方を聞きました。
本日は5時台と6時台の放送内容が若干、違っていました。
本日は5時台と6時台の放送内容が若干、違っていました。
標題黒字は5時台と6時台共通 表題緑字は5時台のみ 表題青字は6時台のみ
■1950年(昭和25年) 聖徳太子の千円札を発行
戦後初の高額紙幣の発行。裏面には法隆寺の夢殿がデザイン
聖徳太子のデザインは20年前に発行された100円紙幣にも採用
■1972年(昭和47年) 沖縄返還の日程決まる
5月15日に返還されることとなった
■1979年(昭和54年) 具志堅用高選手が7連続防衛に成功
具志堅用高選手はJr.フライ級でベネゼイラのマルカノ選手に勝利
■1989年(昭和64年) 昭和天皇崩御
87歳での逝去。翌日の1月8日から年号が「平成」となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/2f/cf68783b62b0bdaa1a799340b972a8b5.jpg)
上の写真は昭和天皇崩御の特集増刊「アサヒグラフ」の表紙
■2015年(平成27年) パリの新聞社でテロ
イスラムの風刺画を掲載の新聞社、ユダヤ教徒向け食堂が狙われた
17人死亡
日刊スポーツの「今日はどんな日」1月7日ではイタリア・ピサの斜塔が補修工事の為
一時閉鎖の話題を取り上げています。
1月7日は五節句の一つ人日(じんじつ)の節句で七草粥を食べる習慣があります。
我が家でも朝食にいただきました。
五節句は次の通りです。
1月7日 人日(じんじつ)七草粥
3月3日 上巳(じょうみ)ひな祭り
5月5日 端午(たんご)子供の日、菖蒲の節句
7月7日 七夕(たなばた)星祭り
9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句
1月7日 人日(じんじつ)七草粥
3月3日 上巳(じょうみ)ひな祭り
5月5日 端午(たんご)子供の日、菖蒲の節句
7月7日 七夕(たなばた)星祭り
9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句
お正月最後のこの日は、七草粥(七草がゆ)を食べて1年の豊作と無病息災を願います。
中国の古い習俗に由来。神戸市では灘区の泉隆寺の「若菜摘み」が有名で毎年「七草粥」
を振舞う行事が行われています。
を振舞う行事が行われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/51/8f1bf75763c163c39eea0adecf9d6d7b.png)
上の写真は摂津名所図会からコピーしたもので平安期(寛平期(889-897))から
七草を朝廷に献上していたとの説明書きがある。
同じく摂津名所図会巻之八の若菜調貢には下記のような説明書きがある。
「若菜調貢(わかなのみつぎ)菟原郡中尾村の人、生田の浦より若菜を採って
禁裏に献る。七種のその一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。字多天皇の
御時より始まるとかや。中頃、源平兵乱よりこの式例中絶しけり。
文明年中、本願寺蓮如上人この辺経回の時、この旧例を申し上げ、再興ありて、
今も臘月(しはす)二十五日には、例年生田川の東の浜より一町程沖の方、
海底に生ふる若菜を、中尾の村民これを取って、同村の道場泉隆寺より、
京師西六条東中筋花屋町仏照寺へ貽(おく)らる。またこの寺より
鏡餅を添へて、本殿寺御門跡へ進上す。またここより天子へ献らるる事にや。
『堀川百首』 旅人の道さまたげlこ摘むものは生田の小野の若菜なりけり
師輔
『夫木』 問はねどもたがためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん
経季
『公事根源』云ふ、
内蔵寮ならかに内膳司より、正月上の子日、若菜を奉るなり。寛平年中より始まれる事にや。延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供す。また(村上天皇)天暦四年二月二十九日、女御安子(安子、藤原氏師輔公の女なり)の朝臣、若菜を奉るよし李部王(りほうおう)の記に見えたり。若菜を十二種供する事あり。そのくさぐさは、若な・はこペら・苣(ちさ)・せり・蕨(わらび)・なづな・あふひ・芝(しば)・蓬(よもぎ)・水蓼(たで)・水雲(イに薊)・松とみえたり。この松の字の事、白川院の御時、師遠に御尋ね有りしかば、若松と書きてこほねと読むなり、もしこの事にて侍るかと申しき。松をそへて奉る、さてはひが事なりと上皇仰せられ侍りき。尋常は、若菜は七種の物なり。薺・はこべら・芹・菁(あをな)・御形(ごぎょう)・すずしろ・仏の座などなり。正月七日に七種の菜羮(さいこう)を食すれば、その人万病なし、また邪気をのぞく術侍ると見えたり云々。
『源氏』若菜巻、
小松ばらすゑのよはひにひかれてや野べのわかなもとしをつむべき
按ずるに、生田の若菜は磯菜なるペし。『八重垣』に日く、磯辺の若菜なり。十二種の中に水雲(もずく)あり。海藻の類も磯菜ならんか。
『新古今』 けふとてや磯菜つむらんいせ島やいちしの浦の海士の乙女子 俊成
七草を朝廷に献上していたとの説明書きがある。
同じく摂津名所図会巻之八の若菜調貢には下記のような説明書きがある。
「若菜調貢(わかなのみつぎ)菟原郡中尾村の人、生田の浦より若菜を採って
禁裏に献る。七種のその一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。字多天皇の
御時より始まるとかや。中頃、源平兵乱よりこの式例中絶しけり。
文明年中、本願寺蓮如上人この辺経回の時、この旧例を申し上げ、再興ありて、
今も臘月(しはす)二十五日には、例年生田川の東の浜より一町程沖の方、
海底に生ふる若菜を、中尾の村民これを取って、同村の道場泉隆寺より、
京師西六条東中筋花屋町仏照寺へ貽(おく)らる。またこの寺より
鏡餅を添へて、本殿寺御門跡へ進上す。またここより天子へ献らるる事にや。
『堀川百首』 旅人の道さまたげlこ摘むものは生田の小野の若菜なりけり
師輔
『夫木』 問はねどもたがためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん
経季
『公事根源』云ふ、
内蔵寮ならかに内膳司より、正月上の子日、若菜を奉るなり。寛平年中より始まれる事にや。延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供す。また(村上天皇)天暦四年二月二十九日、女御安子(安子、藤原氏師輔公の女なり)の朝臣、若菜を奉るよし李部王(りほうおう)の記に見えたり。若菜を十二種供する事あり。そのくさぐさは、若な・はこペら・苣(ちさ)・せり・蕨(わらび)・なづな・あふひ・芝(しば)・蓬(よもぎ)・水蓼(たで)・水雲(イに薊)・松とみえたり。この松の字の事、白川院の御時、師遠に御尋ね有りしかば、若松と書きてこほねと読むなり、もしこの事にて侍るかと申しき。松をそへて奉る、さてはひが事なりと上皇仰せられ侍りき。尋常は、若菜は七種の物なり。薺・はこべら・芹・菁(あをな)・御形(ごぎょう)・すずしろ・仏の座などなり。正月七日に七種の菜羮(さいこう)を食すれば、その人万病なし、また邪気をのぞく術侍ると見えたり云々。
『源氏』若菜巻、
小松ばらすゑのよはひにひかれてや野べのわかなもとしをつむべき
按ずるに、生田の若菜は磯菜なるペし。『八重垣』に日く、磯辺の若菜なり。十二種の中に水雲(もずく)あり。海藻の類も磯菜ならんか。
『新古今』 けふとてや磯菜つむらんいせ島やいちしの浦の海士の乙女子 俊成
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