2018年6月17日、神戸電鉄を利用して三田へ出かけていました。
城下町 三田の街めぐりと題して第1回は三田天満神社を取り上げました。
過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
シリーズ2回目として「天神公園の石碑」をテーマに記事を書いていきます。
三田天満神社は懸社の社格をもつ九鬼藩の代々藩主の祈願所だった由緒ある神社である。
そのすぐ裏に天神公園がある。九鬼男爵の記念碑をはじめ多くの石碑が立ち並ぶ
史跡公園ともいうべき風情である。市の中心部の西側の高台にある公園は、三田盆地を
囲む有馬冨士をはじめとした山並みと市街地を望む絶好のビューポイントでもある。
桜の名所でもある
三田 天神公園の基本情報
住所:三田市天神3丁目34-5(三田天満神社) TEL:079-563-1111(三田市役所代表)
公園関係直通は079-563-0039
天神公園の石碑
上の写真は天神公園の石碑
小寺泰次郎翁頌徳碑
上の写真は小寺泰次郎翁頌徳碑
小寺泰次郎(1836-1904)は三田では三田学園の創始者として著名である。神戸では
宅地造成の先駆者として有名で現在の相楽園が本邸であった。
相楽園は第11代神戸市長小寺謙吉氏の先代小寺泰次郎氏の本邸に設営された庭園で
明治18年(1885)から築造が開始され明治末に完成しました。
昭和16年(1941)以降は神戸市の所有となり相楽園と名付けられ一般公開される
ようになりました。
廃藩置県後、第13代三田藩主の九鬼隆義は家老の白洲退藏(白洲次郎の祖父)、藩士の
小寺泰次郎らとともに神戸に出て実業家に転身、やがて輸入商社「志摩三商会」を設立。
志摩三商会の「志摩」は九鬼家(九鬼水軍)発祥の地、「三」は三田の三である。
小寺泰次郎は天保7年(1836)、三田藩の足軽小寺弥五太夫の次男として生まれました。
幕末の安政6年に藩主になった九鬼隆義は、進取の精神に富み、藩校「造士館」の教授から
取り立てた郡奉行・白洲退蔵(後の横浜正金銀行頭取、白洲次郎の祖父)の助言の下、
藩改革に取り組みました。福沢諭吉と知遇を得た九鬼隆義は、西洋文明を積極的に取り入れ、
藩士に学問を勧め、商業や農業など実業への転身を促しました。
九鬼成海の碑
九鬼隆一の号 九鬼成海の名で天神公園内に石碑が建てられていますのでその
説明板と共に写真を添付しておきます。(上の2枚の写真)
九鬼隆一男爵(1852-1931)についてWikipediaより略歴を記載しておきます。
九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日(1852年9月12日)- 昭和6年(1931年)
8月18日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。男爵。
号は成海。摂津国三田出身。慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し、若くして文部少輔
(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、
1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、
帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。
1900年(明治33年)に総長を退いてからは枢密顧問官を長く務めた。
1914年(大正4年)には郷里に三田博物館を設立し、自らの美術コレクションを展示・公開
している。息子は哲学者の九鬼周造。
九鬼隆一のお墓は心月院の中にあります。(下の写真)
貫誠社記念碑
上の2枚の写真は貫誠社記念碑と説明板
貫誠社は三田藩の下級武士階級の結社である。(上級武士階級の組織は懐旧会)
記念碑は昭和10年(1935)に旧藩士の子孫により建立されたものである。
上の写真は貫誠社記念碑の裏面で記念碑建立に寄付した人の名が記載されています。
句碑
上の写真は句碑。読みが間違えているかもしれませんが記載しておきます。
「有馬富士 まながいして 秋日踏む」
天神公園からの眺望
上の写真は天神公園からの眺望です。
木が邪魔をして眺望が開けていないので三田天満神社の一の鳥居付近からの
眺望を添付しておきます。
上の写真は撮影地点の三田天満神社の一の鳥居
上の写真は三田天満神社の一の鳥居付近からの眺望
城下町 三田の街めぐりと題して第1回は三田天満神社を取り上げました。
過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
シリーズ2回目として「天神公園の石碑」をテーマに記事を書いていきます。
三田天満神社は懸社の社格をもつ九鬼藩の代々藩主の祈願所だった由緒ある神社である。
そのすぐ裏に天神公園がある。九鬼男爵の記念碑をはじめ多くの石碑が立ち並ぶ
史跡公園ともいうべき風情である。市の中心部の西側の高台にある公園は、三田盆地を
囲む有馬冨士をはじめとした山並みと市街地を望む絶好のビューポイントでもある。
桜の名所でもある
三田 天神公園の基本情報
住所:三田市天神3丁目34-5(三田天満神社) TEL:079-563-1111(三田市役所代表)
公園関係直通は079-563-0039
天神公園の石碑
上の写真は天神公園の石碑
小寺泰次郎翁頌徳碑
上の写真は小寺泰次郎翁頌徳碑
小寺泰次郎(1836-1904)は三田では三田学園の創始者として著名である。神戸では
宅地造成の先駆者として有名で現在の相楽園が本邸であった。
相楽園は第11代神戸市長小寺謙吉氏の先代小寺泰次郎氏の本邸に設営された庭園で
明治18年(1885)から築造が開始され明治末に完成しました。
昭和16年(1941)以降は神戸市の所有となり相楽園と名付けられ一般公開される
ようになりました。
廃藩置県後、第13代三田藩主の九鬼隆義は家老の白洲退藏(白洲次郎の祖父)、藩士の
小寺泰次郎らとともに神戸に出て実業家に転身、やがて輸入商社「志摩三商会」を設立。
志摩三商会の「志摩」は九鬼家(九鬼水軍)発祥の地、「三」は三田の三である。
小寺泰次郎は天保7年(1836)、三田藩の足軽小寺弥五太夫の次男として生まれました。
幕末の安政6年に藩主になった九鬼隆義は、進取の精神に富み、藩校「造士館」の教授から
取り立てた郡奉行・白洲退蔵(後の横浜正金銀行頭取、白洲次郎の祖父)の助言の下、
藩改革に取り組みました。福沢諭吉と知遇を得た九鬼隆義は、西洋文明を積極的に取り入れ、
藩士に学問を勧め、商業や農業など実業への転身を促しました。
九鬼成海の碑
九鬼隆一の号 九鬼成海の名で天神公園内に石碑が建てられていますのでその
説明板と共に写真を添付しておきます。(上の2枚の写真)
九鬼隆一男爵(1852-1931)についてWikipediaより略歴を記載しておきます。
九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日(1852年9月12日)- 昭和6年(1931年)
8月18日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。男爵。
号は成海。摂津国三田出身。慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し、若くして文部少輔
(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、
1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、
帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。
1900年(明治33年)に総長を退いてからは枢密顧問官を長く務めた。
1914年(大正4年)には郷里に三田博物館を設立し、自らの美術コレクションを展示・公開
している。息子は哲学者の九鬼周造。
九鬼隆一のお墓は心月院の中にあります。(下の写真)
貫誠社記念碑
上の2枚の写真は貫誠社記念碑と説明板
貫誠社は三田藩の下級武士階級の結社である。(上級武士階級の組織は懐旧会)
記念碑は昭和10年(1935)に旧藩士の子孫により建立されたものである。
上の写真は貫誠社記念碑の裏面で記念碑建立に寄付した人の名が記載されています。
句碑
上の写真は句碑。読みが間違えているかもしれませんが記載しておきます。
「有馬富士 まながいして 秋日踏む」
天神公園からの眺望
上の写真は天神公園からの眺望です。
木が邪魔をして眺望が開けていないので三田天満神社の一の鳥居付近からの
眺望を添付しておきます。
上の写真は撮影地点の三田天満神社の一の鳥居
上の写真は三田天満神社の一の鳥居付近からの眺望
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます