2018年2月17日、高砂市十輪寺の墓地にある田中布舟(ふしゅう)・高砂の酒造家で俳人
の墓碑の写真を撮ってきましたので紹介します。
田中布舟(1734-1808)
上の写真は高砂の俳人で与謝蕪村や小林一三とも交流のあった田中布舟(ふしゅう)の墓
墓碑には「敬空宗君布舟居士」と刻まれています。
上の写真は平成元年(1989)12月に建てられた現地の説明板。
田中布舟は享保19年(1734)に高砂町材木町の酒造業を営む家に生まれました。
本名は田中左太夫、通称、鍵屋孫右衛門、別号、暮桜亭、俳号、布舟。
若いころから加古川別府の滝瓢水と交わり33歳の時に松岡青羅の門人となります。
松岡青羅は1740年生まれ1791年没 加古川の幽松庵におり常に京都を往復。
のちに菊岡布仙にも師事します。
田中布舟と蕪村
与謝蕪村(1716-1783)との交流では田中布舟に宛てた手紙が2通残っています。
「愚老半臂(はんぴ)を殺(そ)がれ候心地」という黒柳召波の死をおしんだ蕪村の手紙は
布舟に送られたもの。
蕪村が高砂に訪れた時に「双句集」には「霧晴れて高砂の町ものあたり」と蕪村の句が
残されています。
安永2年(1773)布舟39才、俳書「明がらす」で布舟は「遅桜梨に交りて咲にけり」と
詠んでいます。蕪村が天明3年(1783)に没するまでの10年余の期間、布舟と蕪村の
交友が続いています。
田中布舟と高井几菫
それ以上に親密だったのは蕪村の高弟だった高井几菫(きとう)(1741-1789)との交流で
几菫が布舟の家に寄った時に次の句を残しています。「花瓶に霜の野菊のやどり哉」
田中布舟と一茶
小林一茶(1763-1828)との交流では一茶が寛政4年(1795)西国行脚の途中、
曽根天満宮を訪れ次の句を詠んでいます。「散り松葉昔ながらの掃除番」
この時、一茶は布舟の家に宿泊しています。
文化5年(1808)9月2日死去。享年75歳。
田中布舟の俳句
「眉にこもる年立亀の契りかな」 布舟23歳の作
「かへりみよ我名月は五湖の舟」 布舟27歳の作
「此塚にうつすや月の枯尾ばな」
「片枝ははや日かげ也冬の梅」 安永5年(1776)布舟42歳の作
「つつじ皆むらさき咲きてほとぎす」安永6年(1777)4月10日布舟43歳の作
布舟が高井几菫を訪ねて詠んだ句
「花の都より高砂の古郷へ帰りて春をむかふ 都にも中々かへじ宿の春」
寛政元年(1789)布舟55歳の作
寛政2年(1790)10月16日、松岡青羅を宗匠とする二条家の俳諧に列席。
田中布舟は、この頃2年間程度京都に滞在していたと思われる。
田中布舟の肖像
上の写真は二世栗の本玉屑が描いた田中布舟像です。
上部の書は布舟の作った俳句で次のように書かれています。
「はるかぜや野路のふる橋水こゆる 高砂布舟」
最後に田中布舟の墓の遠景写真を添付して筆をおきます。
の墓碑の写真を撮ってきましたので紹介します。
田中布舟(1734-1808)
上の写真は高砂の俳人で与謝蕪村や小林一三とも交流のあった田中布舟(ふしゅう)の墓
墓碑には「敬空宗君布舟居士」と刻まれています。
上の写真は平成元年(1989)12月に建てられた現地の説明板。
田中布舟は享保19年(1734)に高砂町材木町の酒造業を営む家に生まれました。
本名は田中左太夫、通称、鍵屋孫右衛門、別号、暮桜亭、俳号、布舟。
若いころから加古川別府の滝瓢水と交わり33歳の時に松岡青羅の門人となります。
松岡青羅は1740年生まれ1791年没 加古川の幽松庵におり常に京都を往復。
のちに菊岡布仙にも師事します。
田中布舟と蕪村
与謝蕪村(1716-1783)との交流では田中布舟に宛てた手紙が2通残っています。
「愚老半臂(はんぴ)を殺(そ)がれ候心地」という黒柳召波の死をおしんだ蕪村の手紙は
布舟に送られたもの。
蕪村が高砂に訪れた時に「双句集」には「霧晴れて高砂の町ものあたり」と蕪村の句が
残されています。
安永2年(1773)布舟39才、俳書「明がらす」で布舟は「遅桜梨に交りて咲にけり」と
詠んでいます。蕪村が天明3年(1783)に没するまでの10年余の期間、布舟と蕪村の
交友が続いています。
田中布舟と高井几菫
それ以上に親密だったのは蕪村の高弟だった高井几菫(きとう)(1741-1789)との交流で
几菫が布舟の家に寄った時に次の句を残しています。「花瓶に霜の野菊のやどり哉」
田中布舟と一茶
小林一茶(1763-1828)との交流では一茶が寛政4年(1795)西国行脚の途中、
曽根天満宮を訪れ次の句を詠んでいます。「散り松葉昔ながらの掃除番」
この時、一茶は布舟の家に宿泊しています。
文化5年(1808)9月2日死去。享年75歳。
田中布舟の俳句
「眉にこもる年立亀の契りかな」 布舟23歳の作
「かへりみよ我名月は五湖の舟」 布舟27歳の作
「此塚にうつすや月の枯尾ばな」
「片枝ははや日かげ也冬の梅」 安永5年(1776)布舟42歳の作
「つつじ皆むらさき咲きてほとぎす」安永6年(1777)4月10日布舟43歳の作
布舟が高井几菫を訪ねて詠んだ句
「花の都より高砂の古郷へ帰りて春をむかふ 都にも中々かへじ宿の春」
寛政元年(1789)布舟55歳の作
寛政2年(1790)10月16日、松岡青羅を宗匠とする二条家の俳諧に列席。
田中布舟は、この頃2年間程度京都に滞在していたと思われる。
田中布舟の肖像
上の写真は二世栗の本玉屑が描いた田中布舟像です。
上部の書は布舟の作った俳句で次のように書かれています。
「はるかぜや野路のふる橋水こゆる 高砂布舟」
最後に田中布舟の墓の遠景写真を添付して筆をおきます。
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