「アメリカを中心とする連合国軍占領下の日本」をテーマで下記ブログを作成した。
アメリカ占領下の日本 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
本日はその続編で「神戸における米軍の進駐」をテーマに記事を書きます。
1945年9月25日午後5時11分。特別列車から、スコット中佐の率いる米第6軍の3千人
が国鉄三宮駅に降り立った。GI(進駐軍兵士)たちは気負っているふうでもなく、
談笑を交わし、歌さえ飛び出す。三宮の廃墟は異様に静まりかえり、市民は物陰から
息を殺して進駐軍を見守っていた。
駅で一行を出迎えたのは、駅員とほんの数人の公務員であった。
その後、5便の列車が到着し、進駐予定の半数とされる8,000人余が宿舎に入った。
元町の大丸百貨店の2階から6階までが接収され宿舎となった。
1階は通常営業の為に遺され、進駐軍の土産物などが販売されることとなった。
進駐軍の接遇施設としてミス・バタフライ、カウベ・グランド・キャバレー、
イエロー・クロス、フジサクラ・ダンスホールの4施設があった。
上の写真は大丸前を行進する米軍
出典:海鳴りやまず 第4部 神戸近代史の主役たち Page17
上の2枚の写真は三宮駅についた進駐米軍(上)と小休止の軽車隊
出典:神戸新聞 昭和20年(1945)9月27日
上の写真は神戸新聞 昭和20年(1945)9月27日の本文
上の写真は仮宿舎の大丸2階から6階の窓から港都神戸を眺めるアメリカ兵
上の写真は神戸新聞 昭和20年(1945)10月29日の記事でGHQの指令で全国の鉄道の
駅名のローマ字表記が進められたが違った発音がされる様子を記事にしたものです。
米軍の接収作業は敏速をきわめた。まず海岸通りの神港ビルに神戸基地司令部を、
県会議事堂に兵庫県軍政部を設置してにらみをきかせ、二次、三次合わせて1万7千人の
進駐軍宿舎としてイースト、ウェスト両キャンプを配置した。次は補給基地としての
港の確保である。司令官は市港湾関係者に、占領軍の威厳を保ちながらいう。
「港のすべてを物資陸揚げのために接収する」一次の接収は、第一から第五までの突堤と
川西、住友、三菱といった倉庫、桟橋の港湾施設のすべてを提供せよとの指令であった。
続いて第六、兵庫、中突堤、メリケン波止場まで港の心臓部の全てを使用することとなった。
一方、神戸市中井一夫市長が中心となって助役の滝谷善一郎(中井市長の中学時代の先輩)、
民政局長の阪本勝を配し、勝田銀次郎(元市長)、賀川豊彦といった有識者を集めて
復興委員会を組織し再建のあり方を模索していくこととなった。
また、阪神大水害のあと復興事業で活躍した原口忠次郎も岡山の疎開先から呼び寄せられた。
上の写真は神港ビルに置かれた神戸基地司令部(Headquarters KOBE BASE)
出典:村上しほり著 闇市からの復興 慶応義塾大学出版会(2018)Page89
昭和20年(1945)9月26日、「神戸基地」司令部が神戸海運局(税関)に設置された。
昭和21年(1946)6月になると頻発する密貿易の徹底的な取り締まりのために神戸税関が
再開されたために上述の神港ビルに移転することになります。
上の写真は神戸イーストキャンプの位置を示した航空写真
出典:村上しほり著 闇市からの復興 慶応義塾大学出版会(2018)Page89
神戸イースト・キャンプには白人の兵士が入居した。
上の写真は神戸ウェストキャンプ(キャンプ・カーバー)の位置を示したものです。
出典:村上しほり著 闇市からの復興 慶応義塾大学出版会(2018)Page89
米軍に接収された神戸市内の主な施設
イーストキャンプ、ウエストキャンプ以外の主な接収施設をピックアップしました。
東灘区:旧広岡邸(2.5万坪)
六甲ハイツ
中央区:神戸港港湾施設(突堤、倉庫など)
旧居留地内の建物(真珠会館、海上警察など)
兵庫区:新開地の劇場、映画館など
長田区:西代蓮池公園
須磨区:武庫離宮公園跡(射撃場として使用)
垂水区:ジェームス山、住友迎賓館(現・舞子ビラ)
関連サイト:
神戸新聞NEXT|連載・特集|戦争とひょうご|戦後占領下の神戸克明に 1949年の進駐軍作成地図発見 (kobe-np.co.jp)
関連Youtube動画:
占領期を記録「GHQと神戸のまち」展示 (サンTV)
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