
独立は中国抗州仁和県に1596年2月19日に生まれました。
姓名は戴笠、字は曼公です。
独立(どくりゅう)はこの中国で57年間を過ごしました。
漢民族の王朝である明朝は1644年に滅び清王朝に替わりました。
明朝滅亡後異民族支配を嫌う多くの中国人( 漢民族 )が長崎へ
亡命いたしました。 独立もそのうちの一人でした。
能書家及び医者として知られ、承応2年(1653)3月来日。
黄檗僧・隠元隆(いんげんりゅうき。1592~1673)について
1654年12月に59歳で僧侶となり、長崎に滞在しました。
岩国藩主吉川広嘉(ひろよし)の医療を行うため岩国に計4回
招かれています。
ここで 広嘉 (ひろよし)と独立との交流が始まります。
1回目の岩国訪問は1664年4月13日から8月9日独立69歳の
ときであります。広嘉と初対面で抗州西湖の話もしています。
また「西湖遊覧志」を長崎から6月に取り寄せ広嘉に供覧しました。
以降2回目は1665年8月から1666年2月の約5ヶ月この時「一勺」
の文字を龍門寺の山側崖に彫っています。
3回目は1667年2月から6月の約4ヶ月で広嘉と花見をしたり漢詩を
多く詠んでいます。
4回目は1668年10月から1669年1月でこのころは広嘉の体調が
すぐれず独立が慰問しています。
上記のような交流の中で吉川広嘉に対して中国での話を数多くし、
名勝「錦帯橋」建造のヒントを与えたとされています。
1672年11月6日長崎崇福寺で77年の生涯を閉じた。
隠元和尚のいる宇治の万福寺の萬松岡(ばんしょうこう)にその
遺骨は埋葬されました。
姓名は戴笠、字は曼公です。
独立(どくりゅう)はこの中国で57年間を過ごしました。
漢民族の王朝である明朝は1644年に滅び清王朝に替わりました。
明朝滅亡後異民族支配を嫌う多くの中国人( 漢民族 )が長崎へ
亡命いたしました。 独立もそのうちの一人でした。
能書家及び医者として知られ、承応2年(1653)3月来日。
黄檗僧・隠元隆(いんげんりゅうき。1592~1673)について
1654年12月に59歳で僧侶となり、長崎に滞在しました。
岩国藩主吉川広嘉(ひろよし)の医療を行うため岩国に計4回
招かれています。
ここで 広嘉 (ひろよし)と独立との交流が始まります。
1回目の岩国訪問は1664年4月13日から8月9日独立69歳の
ときであります。広嘉と初対面で抗州西湖の話もしています。
また「西湖遊覧志」を長崎から6月に取り寄せ広嘉に供覧しました。
以降2回目は1665年8月から1666年2月の約5ヶ月この時「一勺」
の文字を龍門寺の山側崖に彫っています。
3回目は1667年2月から6月の約4ヶ月で広嘉と花見をしたり漢詩を
多く詠んでいます。
4回目は1668年10月から1669年1月でこのころは広嘉の体調が
すぐれず独立が慰問しています。
上記のような交流の中で吉川広嘉に対して中国での話を数多くし、
名勝「錦帯橋」建造のヒントを与えたとされています。
1672年11月6日長崎崇福寺で77年の生涯を閉じた。
隠元和尚のいる宇治の万福寺の萬松岡(ばんしょうこう)にその
遺骨は埋葬されました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます