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劇場用映画「島守の塔」を観覧して

2022年08月14日 04時29分37秒 | Weblog

2022年8月8日、kino cinema 神戸国際で劇場用映画「島守の塔」を観覧しました。

当日、9時30分から11時45分まで2時間15分の上映時間であった。

観客はそれほど多く無く年配者が多いようであった。

本ブログでは映画で描かれた歴史事象を整理してみました。

上の2枚の写真は劇場用映画「島守の塔」のリーフレットです。

上の写真は招待券の表紙

下に添付の「島守の塔」公式サイトで映画の一部を紹介した動画も見れます。

  映画『島守の塔』公式サイト (shimamori.com)

その他、Youtube 動画で映画が紹介されています。Gooで共有させていただきました・

 「島守の塔」本編映像

 生きることの尊さを伝える  映画「島守の塔」公開 サンテレビ

「島守の塔」は、2022年8月5日に全国公開(沖縄・兵庫・栃木)された日本映画です。 

沖縄県最後の官選知事である島田叡(神戸市出身)と元沖縄県警警察部長の荒井退造

(宇都宮市出身)の目を通して、最後の沖縄戦における悲惨な実態を描いていく。

監督は五十嵐匠、出演は萩原聖人、村上淳、吉岡里帆、香川京子ほか。

今年の8月15日には終戦・玉音放送から77年目を迎えます。

映画を見ることで沖縄の人々の苦闘を顧みる機会になると思います。

過去の軍国主義の過ち(メディア統制も含め)についても考える機会になると思います。

Wikipediaより劇場用映画「島守の塔」についての情報を引用紹介(一部加筆)します。

概要

2019年9月25日に島田叡の出身地である兵庫県の神戸新聞社や荒井退造の出身地である栃木県の下野新聞社、さらに沖縄県の琉球新報社や沖縄タイムス社などによって製作委員会が結成され(#スタッフを参照)、映画製作の発表が行われた[3]。なお、製作委員長は元沖縄県副知事で島田叡氏事跡顕彰期成会会長の嘉数昇明が務める[3]。2020年1月22日に「映画『島守の塔』製作を応援する会沖縄」が結成され、沖縄県の経済界や有識者47名が呼びかけ人となり、那覇市のホテルで結成式と説明会が行われた[4]。結成式に出席した監督を務める五十嵐匠は「島田さん、荒井さんの偉人伝を作るつもりは全くない」とした上で「鉄の暴風の中、極限状態の沖縄戦で人間は他人を思うことができるかというのがこの映画製作の最大のテーマである」と語った。

2020年3月25日に沖縄県うるま市の伊計島でクランクイン

コロナ禍で1年8ヶ月の撮影休止はあったものの2021年11月18日から撮影を再開し、

2022年3月29日に完成。沖縄では2022年は本土復帰50周年にあたります。

映画で命の大切さと平和の大切さが伝えられればと五十嵐匠監督が語られています。

完成後の試写会は7月30日に東京都内で行われています。


キャスト
島田叡 (沖縄県に於ける最後の官選知事)- 萩原聖人
荒井退造(沖縄県警察部長) - 村上淳
比嘉凛(知事付の職員 沖縄戦時)- 吉岡里帆
比嘉由紀 - 池間夏海・・・看護学徒隊
泉守紀 (島田叡の前任の沖縄県知事)- 勝矢
比嘉凛(戦後)- 香川京子

牛島満(第三十二軍司令官・陸軍中将)- 榎木孝明
長勇(第三十二軍参謀長・陸軍少将)- 成田浬
八原博通(第三十二軍高級参謀・陸軍大佐)- 水橋研二

スタッフ
監督・脚本 - 五十嵐匠
脚本 - 柏田道夫
製作 - 映画「島守の塔」製作委員会(神戸新聞社、サンテレビ、下野新聞社、琉球新報社、沖縄タイムス社、毎日新聞社)

関連サイト:

[1]神戸新聞NEXT|総合|映画「島守の塔」キャスト発表 島田叡役に萩原聖人さん (kobe-np.co.jp)

       (2020年3月17日 神戸新聞電子版NEXT)

 [2] 主演に萩原聖人さん、村上淳さん 映画「島守の塔」 吉岡里帆さんも出演 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト (ryukyushimpo.jp)

  [3]沖縄戦下の苦悩と命の尊さ発信する映画に 島田知事と荒井警察部長を描く 戦後75年の来秋公開へ - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト (ryukyushimpo.jp)

  [4] 極限状態で人間は他人を思いやれるのか… 映画「島守の塔」制作に向け会結成 経済界から47人 沖縄戦当時、知事と警察部長だった男性の姿描く - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト (ryukyushimpo.jp)

   [5]映画『島守の塔』にW主演いたします。 - 株式会社ディケイド (decadeinc.com)

  [6] 池間夏海:2021年夏全国順次公開! 映画「島守の塔」に出演! (rising-pro.jp)

   [7] 柏田道夫さん脚本の映画 沖縄戦の実像描いた「島守の塔」来秋公開 - ishidatamikai ページ! (jimdofree.com)

沖縄戦時下の島田叡知事が疎開受け入れの熊本県知事に宛てた貴重な「感謝の手紙」が見つかる

沖縄戦時下の知事、島田叡の手紙見つかる 疎開受け入れの熊本県に感謝|総合|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

撮影再開の関連情報として、サンTVが製作したYoutube動画をGooで共有させていただきました。

映画「島守の塔」再クランクイン

 

以下は「島守の塔」のリーフレットに掲載されていた資料からです。

沖縄戦の死者

沖縄戦に関する年表及び島田叡・荒井退造の事跡

上の写真は昭和16年(1941)~昭和19年(1944)

昭和18年(1943)7月 荒井退蔵警察部長(1900-1945)が福井県官房長から沖縄県に着任

        7月26日、北海道庁内政部長の泉守紀が沖縄県知事として赴任

昭和19年(1944)7月7日 緊急閣議で南西諸島の老幼婦女子・学童の本土(8万人)と

            台湾(2万人)への疎開決定。

            県政いよいよ「戦場行政」に入る

        8月22日 学童疎開船「対馬丸」鹿児島県悪石島沖で米潜水艦の魚雷で撃沈

            (学童776人を含む1,484人が遭難)

        10月10日 十・十空襲 那覇市の約90%が灰になる

        12月14日 第32軍が中南部の住民(老人、女性、子供)を北部に疎開、

             戦力となる男性は防衛隊として活用、旧制中学、女学校の学生を

             学徒隊として戦場に動員させることを県に要求。

上の写真は昭和20年(1945)1月~5月22日まで

  1月8日 島田叡に沖縄県知事の就任打診

「誰かが、どうしても行かなあかんのなら、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、
日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して単身沖縄へ飛んだ。

  1月11日 大阪府内政部長だった島田叡(1901-1945)が沖縄県知事を拝命

    前任の泉守紀氏は1月12日に香川県知事の辞令を拝命

  1月31日 島田叡知事トランク2つさげて単身赴任。執務開始。

  2月7日  県、戦場行政への大機構改革。疎開と食料確保に専念

  2月26日、決戦施策の3大目標(国土防衛の強化、食料自給、自主輸送の確立)を発表

  2月27日 島田知事、米軍の制海・制空圏の危険を顧みず自ら台湾米移入交渉の為、台湾へ

  3月中旬 島田知事が交渉した台湾米3,000石が那覇港に到着。大部分を陸揚げ後、名護へ回港

  3月26日 米軍、慶良間列島に上陸。住民約700人が集団強制死

       事実上の沖縄戦の開始。

  4月1日 米軍、本島中部西海岸読谷~北谷間に上陸。北・中飛行場を占拠

      本島を南北に分断し、北部と南部へ進撃開始

上の写真は米軍の沖縄への上陸を図示したものです。

出典:地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院(2016)Page36

 4月21日 米軍、伊江島を占領

 4月27日 敵前緊急市町村長・警察署長合同会議を県庁・警察部壕で開催

      南下する避難民の受け入れを協議する一方、後方指導挺身隊や十八市町村

      への分遣隊を編成

 5月5日  第32軍の総攻撃失敗。この戦闘で日本兵5,000人が戦死。

 5月中旬 島田知事、軍の首里放棄説に「県民被害が大きくなる」と反対。牛島司令官に申し入れ。

 5月22日 第32軍司令部、首里を放棄し、南部撤退を決定

昭和20年(1945)5月25日~昭和26年(1951)6月25日

 5月25日 荒井警察部長、内務省に「60万県民只暗ナル壕内ニテ生ク・・・」と現状報告打電。

  ~6月5日 島田知事以下県庁・警察部職員、雨中泥まみれの中、南部へ撤退

      「沖縄新報」発行を停止し、組織解散(5月25日)

 5月27日 第32軍、南部へ撤退を開始

 6月3日 米軍、伊平屋島に上陸

 6月6日 海軍、沖根の大田司令官、島田と荒井の意を体し、不朽の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」を打電

   大田実 海軍中将(1891-1945)は6月13日に自決。電文は後述の島田叡の功績で記載

 6月7日 島田知事、轟の壕にて県庁と警察警備隊を解散。68年に亘る県と警察部の歴史に幕。

     ここに沖縄県消滅。随行した県・警察部職員に、「今後は自重自愛するように

     生きろというメッセージを伝達。

 6月16日 島田知事、轟の壕から摩文仁の軍司令部壕へ、その後軍医部壕へ入る。

      秘書官、警護官と別れる。

 6月18日 米10軍司令官のバックナー中将が真壁村で戦死

 6月23日 牛島司令官と長参謀長、軍司令部壕で自決。沖縄戦の組織的戦闘が終結。

 6月25日 大本営、沖縄作戦の終結を発表

 6月26日 島田知事・荒井警察部長、軍医部壕を出る。以後、公式の消息は不明

     島田知事の覚悟「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。沖縄の

     人がどれだけ死んでいるか・・・。僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、

     後にも先にもいないだろうなあ・・・。幾多県民を死なせた地方長官もまた、

     そ責めを負わねばならない・・・。」と明言

   (毎日新聞・野村支局長との6月19日のやりとりから)

 6月29日 久米島で海軍監視隊がスパイ容疑で5家族を虐殺

 7月2日 米軍、沖縄作戦の終了を宣言

 7月3日 石垣島住民約180人を乗せた日本軍の船が米戦闘機の襲撃を受け尖閣諸島沖で沈没

 8月15日 日本が無条件降伏 米軍、沖縄諮詢会の設立を宣言

 9月7日 南西諸島の日本軍が降伏文書に調印

昭和26年(1951)

 6月25日 島田知事、荒井警察部長をはじめ、県民の安全確保に挺身した戦没県職員

     469柱を「島守の塔」に合祀。

上の写真は島守の塔の遠景 出典:Google

 (1)建立の経緯 沖縄戦で殉職された兵庫県出身の第27代沖縄県知事・島田叡氏をはじめ沖縄県職員を慰霊するため、一般篤志家及び旧職員の寄付金で建立されました。
 (2)建立の時期 昭和26年(1951)6月23日 

 (3)建立所在地 沖縄県糸満市摩文仁 平和祈念公園
 (4)戦没者柱数 沖縄県庁職員 469柱
 (5)塔の命名 沖縄県民から募集し「島守の塔」と命名された。

(6)設置者 (一財)島守の会

(7)所有者 沖縄県(2018年3月沖縄県へ譲渡)

(8)清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団  098-997-2765

     沖縄県糸満市字摩文仁444番地      
   沖縄県平和祈念財団 - 沖縄県営平和祈念公園 (heiwa-irei-okinawa.jp)
階段下の石碑には以下の字が刻まれています。
戦歿 沖縄縣知事島田叡 

   沖縄縣職員      慰霊塔

階段上の石碑には以下の字が刻まれています。

沖縄縣知事 島田叡

沖縄縣警察部長 荒井退蔵   終焉之地

終焉之地碑の裏には、島田叡・荒井退造両氏が避難していた軍医部壕があります。

上の写真は島田知事と荒井警察部長 終焉の地碑

上の写真は「島守の塔」の現地説明板 出典:Google

上の写真は「島守の塔」入り口の案内石碑

平成4年(1992)6月 兵庫県、神戸市、日高町から寄贈されました

 

上の写真は島守の塔の設置個所の周辺の地図を示したものです。

沖縄県営平和祈念公園の慰霊碑(平和祈念財団管理分)は下記サイトで見れます。

 慰霊塔・碑(平和祈念財団管理分) - 沖縄県営平和祈念公園 (heiwa-irei-okinawa.jp)

 

米軍の沖縄上陸全般図

軍人と一般市民の南部への避難経路

 

映画製作の支援

私も島守の塔サポーターとして1万円を送金しました。

 

劇場用映画 島守の塔の公式サイト

 島守の塔::第2次世界大戦のとき、沖縄を守るために命を懸けた島田 叡と荒井 退造、二人の島守を描く映画 (shimamori.com)

 

 映画「島守の塔」 - ホーム | Facebook

 

島守の塔製作委員会の公式サイト

 島守の塔::第2次世界大戦のとき、沖縄を守るために命を懸けた島田 叡と荒井 退造、二人の島守を描く映画 (shimamori.com)

 

荒井退蔵の略歴

以下はWikipediaからの引用です。

荒井 退造(あらい たいぞう、1900年9月22日 - 1945年6月26日?)は、日本の警察官僚。沖縄戦時、沖縄県警察部長として県民の避難・保護に尽力した。

来歴・人物
栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市上籠谷町)に農家の次男として出生[1][2]。鐺山尋常小学校、清原尋常高等小学校、栃木県立宇都宮中学校と進み、その後上京し高千穂高等商業学校(現高千穂大学)に進学した後、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業、1927年高等試験に合格、同年内務省に入省した苦学力行の人物[3][4]。長男は、亡父の遺志を継ぎ、戦後東京大学法学部を卒業して旧自治省に入省、行政局長・国土庁審議官を歴任した荒井紀雄。

1943年7月1日、福井県官房長から沖縄県警察部長に就任[1][4]。

1944年7月7日、沖縄県民の県外疎開が閣議決定されたのを受け、警察部長として先頭に立ち県民の疎開を促進する[1]。

1945年1月31日、島田叡が沖縄県知事に着任すると、島田を支え、県民の県外・北部疎開や軍との交渉などに当たる。同年6月26日、島田と摩文仁の軍医部壕を出たのを最後に消息不明となり、現在もその遺体は未発見である[3][5]。島田と共に県民の避難・保護に尽力し、合わせて約20万人の命を救ったとされる[1][6][7]。

2007年、荒井の遺品と見られる碁石と万年筆が県庁警察部壕内で発見された。万年筆については、後に沖縄県平和祈念資料館に寄贈された[8]。

2013年、母校である宇都宮高校の同窓会報に荒井に関する寄稿が掲載されたことを契機に、栃木県内で顕彰の動きが活発化する[3][5][9][10]。

2016年、宇都宮市上籠谷町にある生家に顕彰碑と記念館が設置された[6]。

映画「島守の塔」 栃木県内公開始まる。五十嵐匠監督と荒井退造役の村上淳さんが登壇

 

島田叡の功績と略歴

島田叡知事の略歴と功績について過去に下記のブログで書いていますが再述(一部加筆)します。

 沖縄の島守「島田 叡」を描いたTBS系TVドラマ「生きろ」を視聴して : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 最後の官選の沖縄県知事「島田叡」の功績を讃える - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

略歴

島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 – 1945年(昭和20年)6月27日?)
氏について略歴を簡単に書いておきます。

明治34年(1901)12月25日、開業医・島田五十三郎の長男として生まれる
   出生地:神戸市須磨区西須磨上樋詰1番地(現在の須磨寺町2丁目2番地)

 生家の写真を下記ブログで紹介しています。

  沖縄県最後の官選知事 島田叡氏の実家神戸市須磨区の「島田医院」 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

明治40年(1907)須磨尋常高等小学校入学(現在の西須磨小学校)
大正3年(1914) 同校を卒業
大正8年(1919) 神戸第2中学校(現在の兵庫高校)卒業
大正11年(1922) 三高文科丙類卒業
  神戸二中、三高では野球部で活躍、東大時代は野球部のスター選手
    学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された
    戦没野球人モニュメントに名前が刻まれている。

 野球のユニフォーム姿の島田叡さんの写真を下記ブログで紹介しています。

  故島田 叡 元沖縄県知事の野球選手姿 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

大正14年(1925) 東大法学部政治学科を卒業
大正14年(1925)4月   山梨県属 内務官吏 を皮切りに全国を転勤して歩く

昭和3年(1928)1月 徳島県保安課長、昭和4年(1929)12月 岡山県保安課長

昭和6年(1931)1月 三重県警務課長、昭和7年(1932)1月 長崎県警務課長

昭和9年(1934)11月 福岡県警務課長、昭和12年(1937) 大阪府土木部総務課長

昭和13年(1938)1月 佐賀県警察部長、昭和17年(1942)7月 千葉県総務部長・内政部長

昭和18年(1943)3月 愛知県警察部長
昭和19年8月(1944) 大阪府内政部長
昭和19年(1944)10月10日 沖縄に初めて米軍が空爆(日本軍の反撃なし)
昭和20年(1945)1月8日 当時の大阪府知事より沖縄県知事への異動の打診
「誰かが、どうしても行かなあかんのなら、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、
日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して単身沖縄へ飛んだ。

昭和20年(1945)1月31日 沖縄県知事に単身着任

昭和20年(1945)2月26日、決戦施策の3大目標(国土防衛の強化、食料自給、自主輸送の確立)を発表

ドラマでは前任の沖縄県知事 泉守紀氏のことが悪く語り継がれており悲運な人物
10月10日の空襲以降沖縄県からの転出を画策実際に香川県知事へ転出した。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日) 
野里洋 『汚名--第二十六代沖縄県知事泉守紀』 講談社(原著1993年12月)
上記の書籍に泉守紀氏のことを擁護する内容も記載されている。

島田 叡氏の功績

(1)着任後に真っ先にやったのが沖縄住民を安全な北側や九州へ疎開させた    
  約10万人がこれにより救われたといわれる
(2)台湾総督府総務長官(成田一郎元兵庫県知事)に米3,000石を調達してもらう    

    当初、沖縄にこの物資が到達しなかったということになっていたが
    52年後に米が沖縄に到達していたことが証明された

(3)大田実海軍中将(1891-1945)との間で官庁と軍の関係修復に成功   
   自決する(6月13日)前の昭和20年(1945)6月6日に海軍次官あてに
   打った電信は余りにも有名でドキュメントでも詳しく紹介されていました。

念のためにその電報の内容をWikipediaより引用添付させていただきます。
6月6日20:16発 6月7日18:05再発 6月7日17:32受信
発 沖縄根拠地隊司令官
宛  海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク
三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ
非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ
暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ
捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ
軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ
生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ル
モノアリ所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ
供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目
ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力
皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ
(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ
抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト
化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

電報の現代語訳 [編集]

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。



島田 叡知事と最後まで仕事に邁進した荒井退造警察部長の存在が大きかったのは

いうまでもない。

 

最後に島田叡元沖縄県知事と沖縄戦について今迄に紹介しなかったブログにリンクして筆を置きます

 【動画あり】首里城下の旧日本軍壕爆破された最深部の映像第32軍壕、11年ぶり撮影 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 2017年5月19日の第47回神戸まつり懐古行列で島田叡知事役を久元神戸市長が務めました

 第47回神戸まつりで17年ぶりに復活した懐古行列 on 2017-5-19 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


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