市民のグラフ こうべ No.170(1986年12月) 特集・みなとの120年(上)を
読んでいた時に表題の写真を見つけました。
写真紹介すると共に関連情報も含めて記していきます。
上の写真が上記資料のPage4に掲載の明治7年の三宮停車場の駅舎
神戸停車場が大ステーション、三宮停車場を小ステーションと一般に呼ばれていた
大坂-神戸間の鉄道が開通し仮の営業を開始したのは明治7年(1874)5月11日のことだが
当初、神戸停車場があるので三宮停車場の設置は必要なしというのが当局の考えであったが
局長の井上勝氏注)に対して居留地周辺の将来性を考え神戸市街地のもう1か所停車場を建設
すべきと関戸由義が進言したことにより三宮停車場(現在の元町駅の場所にあった)は
開業当初より開設された。
注)長州ファイブ(井上聞多・野村彌吉=井上勝・伊藤俊輔・山尾庸三・遠藤謹助の5人)
の1人で文久3年(1863)から英国に留学、明治元年(1868)9月にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
鉱山技術、鉄道技術を学び卒業した。鉄道の父と呼ばれている。東京駅と萩駅に銅像あり。
1843年生まれ、1910年没 墓所は品川の東海寺大山墓地
官営鉄道(現在の東海道本線)大阪-神戸間が営業を開始した明治7年、途中に神崎(現在の
尼崎駅)・西ノ宮駅(現在の西宮駅)・住吉駅・三ノ宮駅の4駅が設置された。
(ただし神崎駅と住吉駅は20日遅れての開業)
時を経て踏切の閉鎖による交通の停滞を解消するために高架線が検討された。
大正10年(1921)12月13日鉄道省から都市計画神戸地方委員会に届いた諮問では、
貨物線新設、高架式工事と共に三宮停車場を加納町踏切付近に移転すると明記されていた。
このため旧三宮停車場(現在の元町駅)が閉鎖これに伴い停車場周辺地は衰退した。
旧三ノ宮駅復活に立ち上がったのは駅の南側に医院を開き神戸財産区の区長を務めていた
出水仁吾である。彼は昭和6年(1931)11月17日に駅の再開を求め神戸中央振興同盟会
を結成し鉄道本省に陳情活動をした結果、昭和8年(1933)6月5日大坂鉄道局から通知
がきて、新駅設置資金5万2千4百円のうち3万4千2百円の寄付があれば設置を承認
するという内容であった。
出水仁吾らは寄付活動に奔走し3か月後の9月5日には寄付金を納入できたのである。
新駅の工事が進められ元町駅は昭和9年(1934)7月20日に開業に漕ぎ着けた。
元町駅命名の理由は神戸市の原型となった神戸村・二つ茶屋村・走水村が合併してできた
時の名前が「元町」である事にちなみ、元町駅と命名された。
昭和9年(1934)に高架された後に開業した元町駅の写真は下記ブログで紹介
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/c8e3acc71f43f7f555787bb99a604e58
上の写真は明治35年(1902)12月10日 清水吉康著 田村豊盛堂出版社の地図で
神戸停車場と三宮停車場に色をつけています
上の写真は明治43年(1910)神戸市地籍図 柿花肇 著
神戸ステーションと三宮ステーションを色付けしています。
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