2018年2月17日、高砂市十輪寺にある美濃部達吉の父母及び祖父母の墓の写真を
撮ってきましたので紹介します。
達吉の祖父母・秀軒(しゅうけん)と道、父母・秀芳(しゅうほう)と悦の墓はもともと、
高砂市高砂町木曽町の共同墓地にありましたが2011年11月に十輪寺に移設されました。
詳細は神戸新聞2012年1月14日の神戸新聞朝刊に掲載されています。
この墓以外は2009年に美濃部達吉の兄・俊吉の遺族が東京に移したそうです。
上の写真は美濃部達吉の父母及び祖父母の墓です。
中央が達吉の父、美濃部秀芳の墓碑。左が達吉の母、悦の墓碑。右は達吉の祖父
美濃部秀軒と祖母の道の墓碑です。
上の写真は美濃部秀芳の墓碑銘です。
美濃部秀芳(1841-1904)について十輪寺の前に移設された申義堂の説明パネルを
お借りして紹介します。(下の写真)
次に達吉の母、悦についての話になります。
上の2枚の写真は美濃部達吉の母 悦の墓碑です。
悦は旧加東郡古川村(小野市)の儒医井上謙斎の次女
明治28年(1895)に55歳で病死
明治31年(1898)に長男の法学士俊吉と法学士達吉が連名で墓を建立
上の写真は墓の側面と裏面で美濃部達吉の祖父の美濃部秀軒と祖母の道に関する事蹟が
記載されています。
美濃部秀軒(1802-1885)は加東郡木梨村の大熊清兵衛直道の五男として享和2年(1802)
に生まれました。美濃部家の養子となり蘭方医となりました。
秀軒の妻の道は高砂の医師で儒学者で申義堂の教授であった三浦松石(1799-1853)の娘で
秀軒との間に二男三女をもうけました。長男は太郎八(後の良平)、次男は禎吉(後の秀芳)
妻の道は安政3年(1856)2月2日41歳で亡くなっています。
上の2枚の写真は美濃部達吉の生家跡の説明板と遠景
材木町の工楽松右衛門旧宅のすぐそばにあります。 撮影:2018-6-3
最後に高砂市中央公民館の美濃部親子文庫の展示で美濃部達吉と美濃部亮吉の略歴や
遺品などの展示品を添付して筆を置きます。(下の4枚の写真)
詳細は下記ブログで記載しています。
山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その9 高砂公民館の美濃部達吉・亮吉親子文庫
撮ってきましたので紹介します。
達吉の祖父母・秀軒(しゅうけん)と道、父母・秀芳(しゅうほう)と悦の墓はもともと、
高砂市高砂町木曽町の共同墓地にありましたが2011年11月に十輪寺に移設されました。
詳細は神戸新聞2012年1月14日の神戸新聞朝刊に掲載されています。
この墓以外は2009年に美濃部達吉の兄・俊吉の遺族が東京に移したそうです。
上の写真は美濃部達吉の父母及び祖父母の墓です。
中央が達吉の父、美濃部秀芳の墓碑。左が達吉の母、悦の墓碑。右は達吉の祖父
美濃部秀軒と祖母の道の墓碑です。
上の写真は美濃部秀芳の墓碑銘です。
美濃部秀芳(1841-1904)について十輪寺の前に移設された申義堂の説明パネルを
お借りして紹介します。(下の写真)
次に達吉の母、悦についての話になります。
上の2枚の写真は美濃部達吉の母 悦の墓碑です。
悦は旧加東郡古川村(小野市)の儒医井上謙斎の次女
明治28年(1895)に55歳で病死
明治31年(1898)に長男の法学士俊吉と法学士達吉が連名で墓を建立
上の写真は墓の側面と裏面で美濃部達吉の祖父の美濃部秀軒と祖母の道に関する事蹟が
記載されています。
美濃部秀軒(1802-1885)は加東郡木梨村の大熊清兵衛直道の五男として享和2年(1802)
に生まれました。美濃部家の養子となり蘭方医となりました。
秀軒の妻の道は高砂の医師で儒学者で申義堂の教授であった三浦松石(1799-1853)の娘で
秀軒との間に二男三女をもうけました。長男は太郎八(後の良平)、次男は禎吉(後の秀芳)
妻の道は安政3年(1856)2月2日41歳で亡くなっています。
上の2枚の写真は美濃部達吉の生家跡の説明板と遠景
材木町の工楽松右衛門旧宅のすぐそばにあります。 撮影:2018-6-3
最後に高砂市中央公民館の美濃部親子文庫の展示で美濃部達吉と美濃部亮吉の略歴や
遺品などの展示品を添付して筆を置きます。(下の4枚の写真)
詳細は下記ブログで記載しています。
山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その9 高砂公民館の美濃部達吉・亮吉親子文庫
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