2020年9月20日、神戸市須磨区一の谷町2丁目にかって開園していた南洋植物パーク
及び寄手墳・身方墳の現状を確認するために現地を訪れました。
主に写真で紹介していきます。
南洋植物パーク跡の現状
Wikipediaでは次のように解説されています。
神戸市で貿易会社を経営していた塩田富造が海外進出に失敗した者に対する救済資金を
集めることを目的として私財を投じて昭和39年(1964)11月に設立した。当時の報道によれば、
ドミニカ共和国で失敗した移民5世帯が神戸に帰国したが、日本政府が救済を行わなかった
ことに、塩田が憤慨したためと記録される。創設者は翌1965年に死去したが、長男邦博が引き継いだ。
開設当時、東洋一の直径30メートルのドーム型温室が存在し、パパイア、サボテン、マンゴー
など百数十種約六千点を展示した。学校行事での利用などで多くの観光客が訪れたものの
赤字続きであった事と温室が傷んだ事が理由で開園後約20年で閉園する事となり、
その数年後に建築物は取り壊された。
閉園後も一部残され続けた株が長期間を経て成長し、跡地は熱帯植物が生い茂る。
所有者は税金の関係で土地を手放したという。
平成22年(2010)1月29日、神戸新聞夕刊では兵庫県大百科事典(1983年)より
東洋一といわれた直径30mのドーム型温室の写真が掲載されています。
また閉園時期は1980年代半ばと記載されています。
上の写真は旗振山に抜ける登山道入り口付近から南洋植物パークに植栽されていた
南洋植物。周囲は竹藪となっていて、便所や若干の建物跡らしきものが残っています。
上の写真は登山道より50mほど東側の畑地の奥に残る南洋植物
南洋植物パークの土地は元、須磨異人山とよばれていた場所であった。
マーシャルは異人山の一番北の端に7,000坪もある敷地に75坪の2階建て洋館を建て、
一人で住んでいた。この土地はマーシャルが大正元年に没した後、英国の船長
ワトソンが買い取り住む。さらに英国系ダンロップ社が買い取り役員寮としていた。
大戦後、塩田組社長の塩田富造氏が買い取り神戸南洋植物パークとした。
洋館は塩田迎賓館(南洋植物パーク・西館)として使用され公開されていました。
現在、須磨異人山の家屋はすべて消滅しています。(最盛期には55軒あった)
上の写真は須磨異人山の中の旧マーシャル邸
出典:鴻山俊雄 著「神戸の外国人 : 外国人墓地と華僑風俗」華僑問題研究所 1984.6 Page24
寄手墳・身方墳跡の現状
上の写真は寄手墳・身方墳跡(五輪塔)があったと思われる場所
土台と思われものが残されていました。
上の写真は現地説明板 平成13年(2001)3月に地元の自治会が作成
上の写真は登山道に設置の標識
上の2枚の写真は千早赤阪村の森屋地区にある墓地の中の寄手塚・身方塚
見方塚の五輪塔(供養塔)より寄手塚の方が明らかに大きく楠木正成の寛容な人間性
を推し量る材料になるとの解説が番組内でありました。
出典:2018年5月31日、NHK BSプレミアム英雄たちの選択「楠木正成は悲劇の忠臣か」
最後に、南洋植物パークを造り、さらに敷地内に寄手墳・身方墳を建てた塩田富造さん
について簡単に紹介します。
塩田富造(1901-1965)は明治34年(1901)香川県で生まれ、貿易会社「塩田組」を経営し、
綿花検査の業などにも従事、神戸港を中心に働き、努力して金持ちになったといわれている。
楠木正成の信奉者で自分を殺して社会貢献することをモットーとしていた。
大楠公顕彰会役員で後の須磨信用組合理事長も勤めた。
湊川神社の境内地に高層建物が建設される計画があった昭和34年から昭和37年に
かけて塩田氏の私財を投じ危機から救った恩人でもあります。
さらに湊川神社の宝物殿も寄進されたことから塩田富造さんの頌徳碑が湊川神社内に
建立されています。湊川神社の宝物館内に塩田氏の銅像もあります。
詳細は下のブログで紹介しています。
塩田富造氏 頌徳碑 in 湊川神社 on 2016-10-23
塩田富造氏は 須磨一の谷の旧異人山を戦後買取、そこに南洋植物パーク
(昭和39-昭和59)を造りさらにその上の山中に昭和29年(1954)4月11日
「寄手墳」、「身方墳」という二つの立派な五輪塔を建てた人物である。
昭和26年(1951)9月8日の日米講和条約さらに進駐軍の撤退もあったので
「寄手墳」、「身方墳」の真ん中に和宮像が建てられた(年月日は不詳)
平成7年1月17日の阪神淡路大震災で和宮像、「寄手墳」、「身方墳」は
倒壊、和宮像の両手の捧げられた緋扇の部分が欠損したが塩田氏の遺族が
この像に関心を示されなかったので放置され和宮像の内部空洞がスズメバチの
巣になっており近寄り難い惨状であった。これを見かねた地元の自治会有志が
立ち上がり平成12年に移設再建された。
上の写真は安徳帝内裏跡のある広場に移設された皇女和宮像 撮影:2020-9-20
和宮の銅像の作者は慶寺丹長で、和宮像の発注者は米問屋店主の中村直吉である
中村直吉(1880~1939)は兵庫佐比江生まれで苦難の少年時代を過ごし独立後
米問屋として成功を収め神戸米穀取引所理事長、県会議員などを務めた。
中村直吉氏(1880~1939)は昭和8年神戸市内の公立高等女学校に
「和宮像」「楠母子像」の寄進を推奨。
昭和9年に神戸市立第二高等女学校(市立須磨高校から現在須磨翔風高校)
および 県一(現:県立神戸高校)・県二(現:県立夢野台高校)の二女学校に
寄贈しました。
同11年には、東京の増上寺と日本女子会館に和宮像を寄贈しています。
当時、和宮は「日本女性の鑑」と評され、称賛されていました。
安徳帝内裏跡伝説地にある「和宮像」は県二高女にあったものである。
昭和23年(1948)4月「新制高校男女共学第一号校」指定を占領軍から
申し渡された同校校長は和宮像の処置に困惑し和宮像を保存してくれそうな
人物を探していたところ中村直吉氏の知友の大楠公顕彰会役員で後の須磨
信用組合理事長の塩田富造氏が自邸に匿うことになりました。
上述の緑字部は下のブログ記事を再掲載したものです。
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